026 はじめての魔法書
――はじめての魔法書――
『はじめての魔力――魔術基礎入門』
もう一度、表紙の文字を読む。
間違っていない。
魔力。
魔術。
ずっと知りたかったもの。
「…………」
荷台の上にある本を指差した。
「おじさん」
「ん?」
「このほん、すこしみてもいいですか?」
行商人がこちらを見る。
次に、指差した本を見る。
そして、もう一度こちらを見る。
「……これを?」
「うん」
「坊や、これ魔術の本だぞ?」
「まほう、べんきょうしたい」
「…………」
行商人の眉が少し上がった。
「文字は読めるのか?」
「ちょっとよめる」
「ちょっとって……三つか四つくらいだろ?」
首を横に振る。
「もっとよめる」
「本当か?」
「うん」
行商人は、まだ信じていないようだった。
それでも荷台から本を取る。
でも、すぐには渡してくれない。
「手、綺麗か?」
「て?」
自分の両手を見る。
さっきまで何も触っていない。
泥もついていない。
手のひらを行商人へ見せる。
「うん」
「よし」
それでも、本はまだ渡されない。
「地面には置くなよ」
「うん」
「折るな」
「うん」
「破るな」
「うん」
「ここで見るだけだぞ」
「うん!」
今度こそ、本が差し出された。
両手で受け取る。
「…………!」
ずしっ。
思っていたより重い。
「おもい……」
町長から借りている動物の本とは、全然違う。
厚い。
紙も多い。
両手でしっかり持つ。
これが、魔法の本。
◇ ◇ ◇
ゆっくり表紙を開く。
「…………」
文字。
文字。
文字。
たくさん。
今まで読んでいた本とは、まるで違った。
絵よりも文字の方が多い。
一番上。
最初の一行を見る。
指で文字を追う。
『魔力とは、生物および自然界に存在する――』
「まりょく……とは……」
ゆっくり読む。
「せいぶつ……」
これは知っている。
動物の本で覚えた。
その次。
「および……」
少し考える。
なんとなく、前に見たことがある。
さらに。
「しぜんかい……?」
止まった。
読める。
『しぜんかい』
でも。
「…………」
意味が分からない。
顔を上げる。
「おじさん」
「ん?」
「しぜんかいって、なに?」
「自然界?」
「うん」
行商人が少し考える。
「そうだなぁ……森とか、川とか」
「もりと、かわ?」
「ああ。人が作ったんじゃなくて、元からあるもの……まあ、そんなものだ」
「ふーん……」
もう一度、本を見る。
自然界。
森。
川。
なんとなく分かった。
続きを読む。
『魔力感知を習得するためには、まず自己の内在魔力と外在魔力を――』
「まりょく……かんちを……」
読む。
「しゅうとく……」
「…………?」
止まる。
「しゅうとく?」
知らない。
その次。
「じこの……ないざいまりょく……」
「…………」
ないざい。
分からない。
「と、がいざいまりょく……」
がいざい。
これも分からない。
「…………」
読める。
文字は、かなり読める。
でも。
何を言っているのか分からない。
もう一度、最初から読む。
それでも、やっぱり分からない。
「…………」
今まで、文字を覚えれば本が読めると思っていた。
実際、動物の本は少しずつ読めるようになった。
でも、これは違う。
知らない言葉が多すぎる。
文字を声にできても、意味が分からなければ、書いてあることは分からない。
「…………」
初めて手にした魔法書は。
読めるのに、読めなかった。
◇ ◇ ◇
それでも諦めずにページをめくる。
「あ」
絵。
人の身体。
胸。
お腹。
腕。
そこに、いくつもの線が描かれている。
その横には、
『魔力循環』
「まりょく……じゅんかん」
読めた。
でも、「循環」が分からない。
絵を見る。
身体の中を線が通っている。
「…………」
魔力が、ここを通る?
そういう意味なのだろうか。
分からない。
勝手に決めない。
次のページ。
また絵がある。
今度は、人が椅子に座って目を閉じている。
「…………」
その下には説明。
難しい文字が、また並んでいる。
でも、知っている言葉もあった。
「めを……とじる」
読めた。
その少し先。
「しずかな……ばしょ」
これも分かる。
続きを読む。
『呼吸を一定に保ち、身体内部の感覚へ意識を集中させ――』
「こきゅうを……」
「…………」
呼吸。
これは、なんとなく分かる。
息。
吸って、吐く。
でも、その次。
「いってい……?」
分からない。
「からだ……ないぶ……」
身体。
そこまでは分かる。
「かんかくへ……いしきを……」
「…………?」
また分からなくなった。
読めるところと、読めないところ。
意味が分かるところと、分からないところ。
ばらばら。
「…………」
でも、いくつかだけ分かった。
静かな場所。
目を閉じる。
呼吸。
身体。
それが、魔力を感じることと何か関係しているらしい。
「…………」
忘れないように、頭の中でもう一度繰り返す。
しずかなところ。
めをとじる。
こきゅう。
からだ。
◇ ◇ ◇
もう一枚めくろうとした。
そのとき。
「坊や」
「?」
顔を上げる。
行商人が手を出していた。
「そろそろいいか?」
「…………」
本を見る。
まだ、ほとんど読んでいない。
「もうちょっと……」
「悪いな。売り物だから」
「…………」
怒ってはいない。
でも、これは借りた本ではない。
行商人が売るために持ってきた本。
ずっと、ただで読ませてもらうものではない。
「…………うん」
閉じようとする。
すると。
「その前に」
「?」
行商人が、少し不思議そうにこちらを見る。
「本当に読めてるのか?」
「よめるよ?」
「じゃあ、ここ」
さっき開いていたページの一行を指差される。
「読んでみろ」
「うん」
指を置く。
最初から。
「まりょく……かんちを……しゅうとく……する、ためには……」
詰まる。
もう一度見る。
「まず……じこの……ないざい、まりょくと……」
ゆっくり、一文字ずつ。
何度も止まりながら、それでも最後まで文字を声にしていく。
「…………」
読み終わる。
行商人を見る。
さっきまでと、少し顔が違う。
「……お前、いくつだ?」
「みっつ」
「三つ?」
「うん」
「本当に?」
「うん?」
どうして二回聞くのだろう。
「誰に教わった?」
「おかあさん」
「いつから?」
「…………」
いつから。
指を見る。
数えようとする。
一日。
二日。
三日。
そのあとも、いっぱい。
「…………」
分からなくなった。
「このまえ」
「この前って……」
行商人が少し笑った。
「変わった子だなぁ」
「?」
変わっているのだろうか。
よく分からない。
ただ、狼と話したかった。
だから文字を覚えた。
それだけ。
◇ ◇ ◇
本を閉じる前に、もう一度値札を見る。
銀貨八枚。
「おじさん」
「ん?」
「これ、たかい?」
「これか?」
「うん」
行商人が値札を見る。
「まあ、魔術書としては普通だな。むしろ安い方だ」
「やすい?」
「ああ。中古だから八枚だ。新品ならもっとするぞ」
「…………」
銀貨八枚。
数字は分かる。
八。
でも、それで何が買えるのかはよく分からない。
「ぎんかはちまい、いっぱい?」
「坊やにはな」
「…………」
「父ちゃんや母ちゃんに『これ買って』って気軽に言える値段じゃないな」
「かえない?」
「絶対買えないってほどじゃないだろうけど……」
行商人が周りの家々を見る。
「普通の家なら、ちゃんと考える値段だ」
「…………」
もう一度、銀貨八枚を見る。
自分は銀貨を持っていない。
一枚も。
「おかね、どうやったらもらえる?」
「ん?」
「ぼくも、おかねほしい」
「…………」
行商人が困った顔をした。
「三歳じゃなぁ……」
「おしごとしたら、もらえる?」
「そりゃ、仕事をすれば普通はもらえるが」
「じゃあ、おしごとする」
「いやいや」
行商人が思わず笑う。
「坊やにできる仕事があるかは別の話だ」
「…………」
できる仕事。
何があるのだろう。
分からない。
でも。
お金があれば、この本を買える。
「…………」
本を見る。
欲しい。
◇ ◇ ◇
「はい。今日はここまで」
行商人が手を出す。
「…………うん」
両手で本を返した。
行商人は受け取った本を、また荷台へ戻す。
さっきまで自分の手の中にあった。
でも、もう触れない。
「…………」
表紙を見る。
『はじめての魔力――魔術基礎入門』
欲しい。
もっと読みたい。
分からなかった言葉も調べたい。
続きを読みたい。
でも。
銀貨八枚。
自分は一枚も持っていない。
「…………」
それでも、何も分からなかったわけではない。
静かな場所。
目を閉じる。
呼吸。
身体。
魔力を感じるためのところに、そんなことが書いてあった。
正しいやり方は分からない。
大事な説明も、ほとんど理解できていない。
だから、それだけで魔法が使えるとは思わない。
でも。
初めて、魔法について誰かの曖昧な話ではなく、本に書かれたものを自分で読んだ。
「…………」
荷台の本から、なかなか目を離せない。
欲しい。
でも、お金がない。
なら。
どうすればいいのだろう。
三歳になって初めて。
自分から、お金が欲しいと思った。




