024 ハンカチから、絵へ
――ハンカチから、絵へ――
「…………」
少し考えて、首を横に振った。
「いらない」
「ハンカチなしでいいのか?」
「うん」
自分で描いた絵を見る。
描いている間、何度も触った。
ずっと自分の近くにあった。
「えに、ぼくのにおいつけてるから」
父親も紙を見る。
「なるほど」
狼は、人間より鼻がいい。
それは借りた本にも書いてあった。
なら、ハンカチほど強くなくても、この紙にも自分の匂いが残っているかもしれない。
「じゃあ、今回はこれだけだな」
「うん」
父親に絵を渡す。
今回はハンカチなし。
絵だけ。
狼は、どうするのだろう。
◇ ◇ ◇
それから三日。
狼のところへは行かなかった。
約束どおり、待つ。
その間も勉強は続けた。
文字を読む。
書く。
町長から借りた動物の本も読む。
一度読んだところは、前より少し速く読める。
新しいページへ進めば、また知らない言葉が出てくる。
「これ、なに?」
母親に聞く。
意味を覚えて、もう一度読む。
それを何度も繰り返す。
そして、魔法についても知っていそうな大人を見つけるたびに聞いた。
「まほう、どうやってつかうの?」
でも、答えはあまり増えなかった。
魔力を使う。
杖を持つ人もいる。
呪文を唱える魔法使いを見たことがある。
分かったのは、そのくらい。
「…………」
同じような話ばかり。
魔法を使えない人に、魔法の使い方を聞いているのだから仕方がない。
もっと知りたい。
でも、教えられる人がいない。
家には魔法の本もない。
「…………」
文字は勉強できる。
動物のことも、本があるから少しずつ知ることができる。
でも、魔法だけは違った。
頑張りたくても、何をすればいいのか分からない。
レーネ。
魔術師組合。
頭に浮かぶ。
魔法を教えてもらえるかもしれない場所。
けれど、今すぐ行ける場所ではない。
だから今日も、できることを続けた。
◇ ◇ ◇
三日目の夕方。
「ただいま」
「!」
本から顔を上げ、すぐに玄関へ向かった。
「おとうさん!」
「ああ。今日は回収してきたぞ」
父親の手には、見覚えのある紙があった。
「!」
受け取ると、すぐに床へ置いてしゃがみ込む。
「…………」
変わっている。
端には泥。
一か所、濡れてそのまま乾いたような跡。
そして、上の方には――
「あ」
小さな穴が一つ。
「これ……」
指を近づける。
「かんだ?」
「たぶんな」
父親も隣にしゃがんだ。
「今日は結構よく見えたんだ」
「みてた?」
「ああ」
顔を上げる。
父親たちは、前より様子を確認しやすい場所を選んだという。
もちろん、狼へ近づいたわけではない。
十分に離れて待った。
絵を置いてから、しばらくして。
狼が現れた。
「オオカミさん!」
「ああ」
狼は、すぐに絵へ向かったわけではなかった。
最初に行ったのは、前にハンカチを置いていたあたり。
「…………」
狼は地面へ鼻を近づけ、匂いを嗅いだ。
少し歩く。
また地面の匂いを嗅ぐ。
「さがしてた?」
思わず聞く。
父親は少し考えてから答えた。
「そう見えなくもなかった」
「ハンカチ?」
「それは分からん」
「…………」
「前の匂いが残ってたのかもしれないし、ただ地面の匂いを嗅いでただけかもしれない」
「そっか……」
何を探していたのか。
そもそも、何かを探していたのか。
それもまだ分からない。
「それから、紙の方へ行った」
「!」
狼は絵に近づいた。
でも、すぐには触らなかった。
鼻を近づけ、匂いを嗅ぐ。
一度、離れる。
そして、また近づく。
もう一度、匂いを嗅ぐ。
「…………」
紙を見る。
そこには、自分の匂いが残っている。
はず。
「それでな」
父親が自分の右手を上げた。
「この辺に、かなり鼻を近づけてたように見えた」
「て?」
絵を見る。
笑っている自分。
上げた右手。
『ぼくの ては もう だいじょうぶ』
そう書いたところ。
「オオカミさん、みた?」
「それは分からん」
「…………」
「俺たちも遠くから見てたからな。たまたまそこに鼻を近づけただけかもしれない」
「そっか……」
狼が、自分の手の絵を見た。
そう思いたい。
でも、見たように見えたことと、本当に見て意味まで分かったことは違う。
「それから、紙の端を一回くわえた」
「ここ?」
小さな穴を指差す。
「たぶんな。すぐ離したけど」
「…………」
穴を見る。
前にも似た跡があった。
でも今回は、狼が紙を口にしたところを父親たちが見ている。
だから、この穴は狼がつけた可能性が高い。
「そのあとがな」
「?」
父親が少し笑った。
「紙の横に座った」
「…………え?」
「すぐ横だ」
「オオカミさんが?」
「ああ」
「ここ?」
紙の横を指差す。
「そうだ」
「…………」
狼は、そこに座った。
すぐには立ち去らなかった。
少しの間、周りを見る。
自分の身体を舐める。
また周りを見る。
それから立ち上がって、森の方へ歩いていった。
「…………」
紙を見る。
自分の匂いが残っていたかもしれない紙。
そのすぐそばに、狼が座っていた。
最初にハンカチを置いたとき、狼は何度も止まった。
近づいて、離れて。
また近づいて。
なかなか触れなかった。
でも今回は、ハンカチより匂いが弱いかもしれない紙の近くで、しばらく座っていた。
「オオカミさん、ぼくこわくない?」
父親を見る。
「それも、まだ分からんな」
「…………」
やっぱり、まだ分からない。
「でも」
父親が続ける。
「少なくとも、紙の匂いを嗅いですぐ逃げたわけじゃない」
「うん」
「自分から調べて、その近くに座ってた。それは俺たちも見た」
「…………」
それなら分かる。
狼が何を考えていたのかは分からない。
絵の意味が伝わったのかも分からない。
自分の匂いを覚えているのかも、まだ分からない。
でも。
狼は紙に近づいた。
匂いを嗅いだ。
触った。
そして、そのすぐそばに座った。
そこまでは、本当にあったこと。
「…………」
紙を見つめる。
前とは少し違う。
何度も、置くものを変えた。
ハンカチ。
文字。
絵。
またハンカチ。
違う絵。
そして今回は、絵だけ。
そのたびに、狼がどうしたのかを見てきた。
分かることを集めてきた。
考えて、少し変えて、また見る。
一回だけでは分からない。
何回見ても、分からないこともある。
それでも。
最初よりは、分かることが増えている。
◇ ◇ ◇
「ああ、それとな」
父親が思い出したように言った。
「?」
「あいつの脚」
「オオカミさん?」
「ああ」
父親が頷く。
「今日は普通に歩いてたぞ」
「…………!」
すぐに顔を上げる。
「ほんと?」
「遠くから見た限りじゃな。右の後ろ脚も、ほとんど庇ってなかった」
「なおった?」
「完全に治ったかは分からん。でも、かなりよくなってるようには見えた」
「…………」
右手を見る。
自分の傷。
もう痛くない。
狼の脚も、よくなっている。
「よかった……」
本当に嬉しい。
狼が絵を分かったかどうかより、そのことの方がずっと嬉しかった。
けれど、父親は少しだけ考えるような顔をした。
「脚がよくなったなら、そろそろあの辺からいなくなるかもしれんな」
「…………?」
父親を見る。
「いなくなる?」
「ああ」
「なんで?」
「野生の狼だからだ」
「…………」
「あそこに住むって決めてるわけじゃない。脚が痛かったから、あの辺りに長くいたのかもしれないだろ?」
「…………」
考えたことがなかった。
狼は、あそこにいる。
明日も。
明後日も。
なんとなく、そう思っていた。
でも、違う。
狼には、狼の行くところがある。
脚が治ったら、もっと遠くまで歩ける。
走れる。
森の奥へ行くかもしれない。
ほかの場所へ行くかもしれない。
「もう、あえない?」
「それは父さんにも分からん」
「…………」
また、分からない。
でも。
今までの「分からない」とは、少し違った。
紙を見る。
『おおかみさん』
『ぼくの ては もう だいじょうぶ』
『いたくないよ』
伝わったかは分からない。
それでも、伝えたいことはまだある。
「…………」
狼がいつまであそこにいるのか。
それも、誰にも分からなかった。




