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ちいさなぼくのまもるもの  作者: 星乃いりす


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023 ぼくもだいじょうぶ

――「ぼくもだいじょうぶ」――


「…………」


右手を見る。


握る。


ぎゅっ。


開く。


もう一度、握って、開く。


「…………」


痛くない。


狼の牙が当たったところには、まだ傷の跡が残っている。


でも、物を持てる。


炭筆も握れるし、ご飯も食べられる。


「もう、いたくない」


あの日、狼に近づいて手を伸ばした。


牙が当たった。


痛かった。


血も出た。


しばらくは、右手をうまく使えなかった。


でも、もう大丈夫。


「…………」


そこで、狼のことを思い出した。


右の後ろ脚。


最初に見たときは、庇うように歩いていた。


でも、父親が最後に見たときには、ほとんど普通に地面へつけていた。


狼の脚も、少しずつよくなっている。


「…………」


自分の手を見る。


それから、狼の絵を見る。


あの狼は、自分の手を傷つけたことを覚えているのだろうか。


分からない。


そもそも、自分が痛かったことを狼が知っているのかも分からない。


でも。


「…………」


伝えたい。


もう痛くない。


大丈夫。


そう言いたい。


新しい紙を一枚出した。


          ◇ ◇ ◇


最初に描いたのは、あの日の自分だった。


小さな身体と、右手。


その前には狼を描く。


「…………」


右手のところには、母親から少しだけもらった赤い染料をつけた。


傷と、血。


そのつもりだった。


隣には、もう一人の自分を描く。


今の自分。


口のところを少し上向きにして、笑っている顔にする。


そして、右手を上げた。


今度は赤くしない。


「…………」


こっちは、もう痛くない。


その隣には狼も描いた。


最初の狼には、右の後ろ脚に赤い印をつける。


そしてもう一頭は、四本の脚で立っている姿にした。


「オオカミさんも、なおる」


そうなればいい。


自分の手は、もう大丈夫。


狼の脚も、治ればいい。


二つを並べれば、伝わるような気がした。


けれど、しばらく絵を見ていると、少し不安になった。


「…………」


難しい。


自分には分かる。


こっちが前で、こっちが今。


赤いところが痛かった。


赤くない方は治った。


でも、狼が見ても同じように分かるのだろうか。


「…………」


分からない。


だから、もう一枚描いた。


今度はもっと簡単にする。


笑っている自分。


右手を上げている。


その隣には狼。


傷は描かない。


血も描かない。


二人とも争っていない。


「…………」


そして、絵の下へ炭筆を置く。


今度は母親を呼ばなかった。


自分で書く。


『おおかみさん』


書ける。


少し曲がった。


でも、読める。


次。


『ぼくの ては』


「…………」


一文字ずつ書く。


『もう だいじょうぶ』


途中で一度止まった。


「…………」


前に覚えた文字を思い出す。


ゆっくり書く。


最後。


『いたくないよ』


「…………」


できた。


文字の大きさは揃っていない。


隣の文字とくっつきそうなところもある。


一文字だけ、妙に大きい。


それでも、最初から読む。


「おおかみさん」


指で追う。


「ぼくの ては もう だいじょうぶ」


次。


「いたくないよ」


「…………」


読めた。


母親に書いてもらっていない。


見本をそのまま写したのでもない。


自分で伝えたいことを考えて、自分で書いた。


「できた」


文字だけでは、伝わらないかもしれない。


だから、絵も描いた。


絵だけでも、分からないかもしれない。


前には、自分の匂いがついたハンカチも置いた。


近づかず、離れたところで待った。


どうすれば、言葉の通じない相手に伝わるのか。


まだ答えは知らない。


だから、できることを一つずつ試していた。


          ◇ ◇ ◇


完成した紙を持って、父親のところへ行く。


「おとうさん」


「ん?」


「これも、つぎおいてきて」


「また描いたのか?」


「うん」


父親が紙を受け取る。


最初の絵を見る。


「これは……手か?」


「うん」


自分の右手を上げる。


「ここ」


「ああ」


父親が、絵の赤いところと右手の傷跡を見比べる。


「怪我したときか」


「うん」


それから、隣に描いた笑って右手を上げている自分を指差す。


「こっちは?」


「いま」


「今?」


「うん」


右手を握って、開く。


父親に見せる。


「もう、だいじょうぶ」


「…………」


父親が、もう一度絵を見る。


「ああ。そういう意味か」


伝わった。


少なくとも、父親には。


「オオカミさんに、もうだいじょうぶっていうの」


「そうか」


「うん」


父親は、次に狼の絵を見る。


赤い印のある後ろ脚。


その隣には、普通に立っている狼。


「こっちは?」


「オオカミさん」


「脚か?」


「うん」


「…………」


「オオカミさんも、なおるといい」


父親は少しだけ黙った。


それから、


「そうだな」


と答えた。


紙の下には、自分で書いた文章がある。


父親が読む。


「おおかみさん。ぼくのては、もうだいじょうぶ。いたくないよ……」


「ぼくがかいた」


「全部か?」


「うん!」


「母さんに書いてもらわずに?」


「うん」


父親は、もう一度文字を見た。


「……読めるぞ」


「ほんと?」


「ああ」


「…………!」


嬉しい。


上手とは言われなかった。


きれいとも言われなかった。


でも。


読める。


それで十分だった。


「分かった」


父親が紙をまとめる。


「次に確認するとき、持っていく」


「うん!」


これでまた、狼に伝えたいものを一つ持っていってもらえる。


そう思ったところで、父親が、


「ただな」


と言った。


「?」


「今回は、ハンカチをどうする?」


「ハンカチ?」


「ああ」


前は、自分の匂いがついたハンカチと三枚の絵を一緒に置いた。


狼は、ハンカチへ自分から近づいた。


鼻をつけて匂いを嗅ぎ、それから絵も調べた。


「また一緒に置くこともできる」


「うん」


「でも」


父親が、今描いた絵を指差す。


「今回は、これだけ置いてみることもできる」


「…………?」


「ハンカチがなくても、狼がこの紙を調べるかもしれないだろ?」


「…………」


考える。


前はハンカチがあった。


狼は、まずそこへ行った。


そのあと、絵を調べた。


なら、ハンカチがなかったらどうするのだろう。


絵だけでも近づく?


匂いを嗅ぐ?


触る?


それとも、何もしない?


「…………」


どちらがいいのだろう。


またハンカチを置けば、今まで何度か嗅いだ自分の匂いと一緒に置ける。


絵だけにすれば、ハンカチがなくても狼が紙に興味を持つのか、少し分かるかもしれない。


父親は答えを決めなかった。


「どうする?」


「…………」


右手を見る。


もう痛くない。


次に、自分で書いた文字を見る。


『ぼくの ては もう だいじょうぶ』


そして、絵を見る。


伝えたいのは、これ。


でも、どうすれば少しでも伝わりやすいのだろう。


「…………」


今度は、自分で決める番だった。

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ここまで読んでいただき、ありがとうございます☺️ 少しでも「続きが気になる」「この子をもう少し見守ってみたい」と思っていただけましたら、ブックマークや評価で応援していただけると、とても嬉しいです。 皆さまからの応援を励みに、これからも小さな主人公の物語を大切に書いていきます。 次のお話も楽しんでいただけますように。
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