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ちいさなぼくのまもるもの  作者: 星乃いりす


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22/84

022 待つことも、努力のひとつ

――待つことも、努力のひとつ――


狼のところへ行きたい。


今ごろ。


あの三枚の絵はどうなっているのだろう。


狼は来たのだろうか。


ハンカチの匂いを嗅いだのだろうか。


絵を見たのだろうか。


「…………」


気になる。


とても気になる。


でも。


行かない。


父親と約束したから。


「オオカミさんは、まつ」


狼が来るかどうかは。


狼が決める。


自分から追いかけない。


その代わり。


朝から母親のところへ、文字を書いた紙を持っていく。


「おべんきょうする」


待っている間にも。


できることはある。


狼と話したい。


そのためには、獣語魔法を覚えたい。


魔法を覚えるためには。


まず、本を読めるようにならなければならない。


だから。


今日も文字を覚える。


          ◇ ◇ ◇


最初にやるのは。


今まで覚えた文字の復習。


「これは?」


母親が指差す。


答える。


次。


答える。


少し迷って。


答える。


「うん。合ってる」


前より。


分かる文字は増えている。


でも。


それだけでは終わらなくなっていた。


母親が新しい言葉を書く。


『森』


「読める?」


「もり」


「正解」


これは分かる。


何度も見た。


町の外にもある。


「じゃあ、森って何?」


「…………」


少し考える。


「きが、いっぱいあるところ」


「うん。そうね」


答えられた。


けれど。


母親はもう一つ書いた。


『林』


「これは林」


「はやし」


「そう」


「…………」


また知らない言葉が増えた。


「じゃあ、森と林って何が違うと思う?」


「…………?」


分からない。


どちらも。


木がたくさんあるところ。


「おなじ?」


「似てるけど、少し違うの」


「…………」


そこから。


また新しいことを教えてもらう。


文字が読める。


それだけでは。


本を読めることにはならなかった。


文字には音がある。


音が集まると言葉になる。


そして。


言葉には意味がある。


最初は。


形と音を覚えるだけだった。


でも今は。


知らない言葉が出てくるたびに。


「これ、なに?」


意味まで聞くようになった。


          ◇ ◇ ◇


二日目。


「おかあさん」


「なあに?」


「まほうのほん、ない?」


母親が少し困ったような顔をした。


「うちにはないわねぇ」


「ない?」


「うん」


家の中を見る。


本そのものが。


それほどたくさんあるわけではない。


父親は木工職人だ。


家にあるのも、暮らしや仕事に関係するものがほとんど。


魔法を使える人もいない。


魔法の本がないのは。


考えてみれば当然だった。


「…………」


少し残念。


けれど。


母親が思い出したように言った。


「本なら、町長さんのところに何冊かあったと思うけど」


「まほう?」


「魔法の本があるかは分からないわ」


「…………」


魔法じゃない。


でも。


本。


今の自分は。


まだ本を読む練習をしているところ。


なら。


「よみたい」


「じゃあ、聞いてみる?」


「うん!」


          ◇ ◇ ◇


母親と一緒に。


町長の家へ行った。


事情を聞いた町長は。


しばらく考えてから、何冊かの本を見せてくれた。


どれも古い。


文字ばかりの本もある。


難しそうなものもある。


その中から。


「これならどうだ?」


一冊。


薄い本を出してくれた。


子どもでも読めるように。


大きめの文字と絵で書かれている。


この地方にいる動物についての本だった。


「どうぶつ……」


表紙を見る。


「借りていっていいぞ」


「ほんと?」


「ああ。破らないようにな」


「うん!」


偶然。


自分のために用意されていた本ではない。


町長が持っていた本の中で。


今の自分でも読めそうだったもの。


それが。


たまたま動物の本だった。


そして。


家へ持ち帰って。


母親と一緒にページをめくっていると。


「あ!」


見つけた。


灰色の身体。


尖った耳。


長い鼻。


「オオカミさん!」


狼について書かれたページだった。


          ◇ ◇ ◇


「……お、おお……かみ……は……」


指で文字を追う。


一文字。


一文字。


その次。


「…………」


遅い。


とても遅い。


一行読むだけなのに。


途中で何度も止まる。


「これ、なに?」


知らない言葉。


母親に聞く。


意味を教えてもらう。


もう一度。


最初から読む。


「……おおかみ、は……」


さっきより。


ほんの少しだけ分かる。


そこには。


今まで大人たちから聞いたことも書いてあった。


狼は。


一頭だけで暮らすとは限らない。


何頭かで一緒にいることも多い。


鼻や耳が。


人間よりずっとよく働く。


食べるために。


ほかの動物を追う。


危ないと思えば。


すぐに近づくとは限らない。


「…………」


あの狼も。


そうなのだろうか。


でも。


本に書いてある狼全部の話と。


あの狼がどうするかは。


同じではないかもしれない。


それでも。


今まで知らなかったことが。


本の中に書いてある。


「…………」


不思議だった。


誰かに聞いたのではない。


母親が最初から全部教えてくれたのでもない。


自分で文字を追って。


そこに書いてあることを読んだ。


もちろん。


分からないところは何度も聞いた。


一人ではまだ読めないところも多い。


それでも。


本から。


知らなかったことを一つ知った。


初めてだった。


          ◇ ◇ ◇


三日目。


また。


同じ本を開いた。


昨日読んだ。


狼のページ。


「オオカミは……」


「…………?」


止まる。


昨日より。


少しだけ速い。


もう一度読む。


やっぱり。


昨日ほど止まらない。


「…………」


どうしてだろう。


そのまま。


次のページへ進む。


「……この……」


止まった。


知らない言葉。


また。


遅くなった。


「これ、なに?」


母親に聞く。


教えてもらう。


そこで。


なんとなく分かった。


昨日読んだところには。


昨日覚えた言葉がある。


だから。


昨日より読める。


知らない言葉が増えれば。


また遅くなる。


「…………」


なら。


もっと読めば。


知っている言葉も。


もっと増える。


そう思った。


          ◇ ◇ ◇


四日目。


今度は。


読むだけではなく。


書く。


紙を一枚。


目の前に置く。


右手で炭筆を持つ。


傷は。


もうほとんど気にならなくなっていた。


書きたいものは。


決まっている。


『おおかみさん』


「…………」


一文字ずつ。


ゆっくり。


書く。


ここまでは。


もう見本を見なくても、なんとか書けた。


次。


『ぼくは』


これも。


書ける。


そして。


「…………」


なかよくしたい。


そう書きたい。


「なか……」


止まる。


次の文字が。


出てこない。


「…………」


思い出そうとする。


でも。


分からない。


仕方なく。


今まで使った紙を見る。


探す。


「あ」


あった。


形を見る。


自分の紙へ戻る。


書く。


「…………」


何か変だ。


母親が横から見る。


「これ、反対になってるよ」


「…………」


見比べる。


本当だ。


消せない。


だから。


その横に。


もう一度書く。


今度は。


同じ向き。


また次。


途中で分からなくなる。


調べる。


書く。


一文字だけ大きくなった。


次は小さすぎた。


それでも。


最後まで。


書く。


『おおかみさん ぼくは なかよくしたい』


「…………」


読んでみる。


遅い。


でも。


読める。


母親が書いたのではない。


自分で考えて。


自分で文字を選んで。


分からないところを調べて。


自分で書いた。


初めての文章。


「できた……」


狼には。


読めないかもしれない。


たぶん。


まだ読めない。


それでも。


これは。


自分の言葉だった。


          ◇ ◇ ◇


五日目。


文字を勉強していて。


ふと思う。


「…………まほう」


本を読む練習はしている。


言葉も覚えている。


でも。


文字をいくら覚えても。


それだけで魔法が使えるようになるわけではない。


「おかあさん」


「なあに?」


「まほうって、どうやってつかうの?」


「…………」


母親が困った。


「母さんは使えないからねぇ……」


「じゃあ、だれがしってる?」


「そうねぇ……」


聞いてみる。


父親にも。


町長にも。


ほかの大人にも。


でも。


返ってくる答えは。


どれも似ていた。


魔力というものを使うらしい。


杖を持っている魔法使いを見たことがある。


町へ来た旅人が、火をつける魔法を使っていた。


そのくらい。


「…………」


使えない人に聞いても。


使い方までは分からない。


なら。


使える人は。


どこにいるのだろう。


そうして。


初めて。


具体的な場所を知った。


レーネ。


ここから街道を進み。


馬車なら半日ほど。


この町よりずっと大きな地方都市。


そこには。


魔術師組合というものがあるらしい。


魔法を使う人たちが集まり。


お金を払えば。


基礎から教えてもらえることもあるという。


「いく!」


話を聞いた瞬間。


そう言った。


けれど。


父親は苦笑した。


「そう簡単な話じゃないぞ」


「なんで?」


「お前、三歳だろ」


「…………」


三歳。


「三歳の子どもに教えてくれるかも分からない。それに金もかかる」


「おかね……」


「そうだ」


すぐには。


行けない。


明日から魔法を教えてもらえるわけでもない。


「…………」


少し残念だった。


でも。


今までとは違う。


魔法を覚えたい。


でも。


誰に教えてもらえばいいのか分からなかった。


今は。


場所を一つ知っている。


レーネ。


そこには。


魔法を学べるところがある。


「レーネ……」


忘れないように。


もう一度。


名前を口にした。


          ◇ ◇ ◇


そして。


六日目の夕方。


いつものように。


借りた本を読んでいた。


「……オオカミは……」


最初の日より。


ずっと止まらなくなった。


それでも。


知らない言葉が出れば。


まだ止まる。


指で文字を追っていると。


玄関の方から声がした。


「ただいま」


「!」


本を閉じる。


椅子から降りる。


走る。


「おとうさん!」


今日は。


仕事場から帰ってきたのではない。


猟師たちと。


あの場所を確認しに行っていた。


父親の手を見る。


「…………!」


ハンカチ。


新しく置いてもらったもの。


ちゃんと戻ってきた。


そして。


そのほかにも。


見覚えのある紙が三枚。


「え!」


「ああ。全部回収してきたぞ」


すぐに父親のそばへ行く。


「どうだった?」


「今回は……ちょっと面白いぞ」


「?」


父親が床に紙を並べた。


一枚目。


狼だけを描いた絵。


「…………」


ほとんど。


そのまま。


端に。


少し泥がついている。


次。


自分が離れたところから。


狼へ手を振っている絵。


「あ」


一か所。


汚れている。


「これ、なに?」


「何かが触った跡には見えるな」


「オオカミさん?」


「まだ分からん」


「…………」


そして。


最後。


自分と狼が。


隣同士で寝ている絵。


「…………!」


明らかに。


違った。


端に。


小さな穴。


一つ。


その近くに。


もう一つ。


「かんだ?」


「その可能性はある」


さらに。


紙についている。


短い毛。


「け!」


一本。


二本。


三本。


前にハンカチについていたものと。


よく似た。


灰色と茶色の混じった毛。


「オオカミさん?」


「待て」


また。


父親に止められた。


でも。


今回は。


父親が少し笑っていた。


「今回はな。見たものもある」


「みた?」


「ああ」


父親たちは。


かなり離れたところから。


あの場所を見ていたという。


しばらくすると。


狼が現れた。


「オオカミさん!」


「ああ」


狼は。


まず。


ハンカチの方へ近づいた。


すぐには触らない。


周りを確かめるようにして。


それから。


鼻を近づけた。


「におい?」


「ああ」


そして。


今度は。


鼻先を。


直接ハンカチにつけた。


「…………!」


前は。


近くまで来て。


匂いを嗅いだ。


でも。


触ったかどうかまでは分からなかった。


今回は。


父親たちが見ていた。


「オオカミさん、さわった?」


「ああ。鼻でな」


「…………」


少し嬉しくなる。


でも。


まだ続きがあった。


狼はそのあと。


近くに置かれていた紙も調べ始めた。


父親たちがいたのは。


かなり遠い場所。


どの紙から見たのか。


一枚ずつ何をしたのか。


そこまでは分からなかった。


でも。


一つだけ。


はっきり見えたことがあった。


父親が。


自分と狼が並んで寝ている絵を持ち上げる。


「これな」


「?」


「狼がくわえた」


「…………!」


紙を見る。


「オオカミさんが?」


「ああ」


「ほんと?」


「これは見た」


狼は。


その紙を口にくわえた。


少し移動して。


そこで。


地面へ落とした。


「だから、この紙だけ元の場所から離れてた」


「どれくらい?」


父親が部屋の中を見回して。


少し離れた場所を指差した。


「ここから……あの辺くらいだな」


「…………」


かなり動いている。


紙を見る。


自分と狼。


並んで寝ている絵。


「え、わかったの?」


思わず聞いた。


けれど。


父親は首を振った。


「そこまでは分からん」


「…………」


「この絵の意味が分かって、これを選んだのかもしれない」


「うん」


「でも、違うかもしれない」


「…………」


紙についている匂い。


炭の匂い。


触った人の匂い。


たまたま。


狼が気になったのが。


この一枚だっただけかもしれない。


「じゃあ……」


紙を見る。


「まだ、わからない?」


「ああ」


やっぱり。


まだ。


分からない。


でも。


前とは違う。


今回は。


狼が何をしたのか。


一つだけ。


ちゃんと見た人がいる。


狼が。


自分からハンカチへ近づいた。


鼻をつけて。


匂いを嗅いだ。


そして。


三枚の紙のうち。


この一枚を。


実際に口へくわえた。


それは。


父親たちが見た。


「…………」


もう一つ。


新しいハンカチを見る。


「こっちにも毛がついてたぞ」


「!」


一本ではない。


いくつか。


前とよく似た灰茶色の毛。


今回は。


狼が直接鼻先をつけたところも見ている。


「…………」


そっと見る。


触らない。


狼が。


ここに触れた。


その可能性は。


前よりずっと高く感じられた。


でも。


だからといって。


自分のことを覚えている。


仲良くなりたいと思っている。


そんなところまでは。


まだ分からない。


「それとな」


父親が言った。


「脚も、かなりよくなってるように見えた」


「オオカミさんの?」


「ああ」


「なおった?」


「治った、とまでは言えん」


父親は。


いつものように。


分からないことを分かったとは言わなかった。


「でも、今日は右の後ろ脚も、ほとんど普通に地面につけて歩いてた」


「…………!」


狼の絵より。


ハンカチより。


その言葉が。


一番嬉しかった。


「よかった……」


小さく呟く。


床を見る。


三枚の絵。


狼だけの絵は。


ほとんどそのまま。


離れて手を振る絵には。


何かが触れたような跡。


一緒に寝ている絵は。


狼が実際にくわえ。


少し離れたところまで運んだ。


結果は。


同じではなかった。


「…………」


どうして違ったのだろう。


絵の意味?


匂い?


炭?


それとも。


ただの偶然?


まだ。


一回だけ。


分からない。


なら。


また確かめればいい。


でも。


今すぐ狼のところへ行く必要はない。


狼は逃げなかった。


ハンカチへ自分から近づいた。


そして。


怪我をした脚も。


少しずつ使えるようになっている。


だから。


「…………」


待つ。


その間に。


自分は勉強する。


狼に近づくことだけが。


狼のためにできることではない。


何もしないで待つのとも。


少し違う。


いつか。


本当に言葉を交わせるようになるために。


今できることを。


一つずつ増やしていく。


待つことも。


きっと。


その一つだった。

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ここまで読んでいただき、ありがとうございます☺️ 少しでも「続きが気になる」「この子をもう少し見守ってみたい」と思っていただけましたら、ブックマークや評価で応援していただけると、とても嬉しいです。 皆さまからの応援を励みに、これからも小さな主人公の物語を大切に書いていきます。 次のお話も楽しんでいただけますように。
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