022 待つことも、努力のひとつ
――待つことも、努力のひとつ――
狼のところへ行きたい。
今ごろ。
あの三枚の絵はどうなっているのだろう。
狼は来たのだろうか。
ハンカチの匂いを嗅いだのだろうか。
絵を見たのだろうか。
「…………」
気になる。
とても気になる。
でも。
行かない。
父親と約束したから。
「オオカミさんは、まつ」
狼が来るかどうかは。
狼が決める。
自分から追いかけない。
その代わり。
朝から母親のところへ、文字を書いた紙を持っていく。
「おべんきょうする」
待っている間にも。
できることはある。
狼と話したい。
そのためには、獣語魔法を覚えたい。
魔法を覚えるためには。
まず、本を読めるようにならなければならない。
だから。
今日も文字を覚える。
◇ ◇ ◇
最初にやるのは。
今まで覚えた文字の復習。
「これは?」
母親が指差す。
答える。
次。
答える。
少し迷って。
答える。
「うん。合ってる」
前より。
分かる文字は増えている。
でも。
それだけでは終わらなくなっていた。
母親が新しい言葉を書く。
『森』
「読める?」
「もり」
「正解」
これは分かる。
何度も見た。
町の外にもある。
「じゃあ、森って何?」
「…………」
少し考える。
「きが、いっぱいあるところ」
「うん。そうね」
答えられた。
けれど。
母親はもう一つ書いた。
『林』
「これは林」
「はやし」
「そう」
「…………」
また知らない言葉が増えた。
「じゃあ、森と林って何が違うと思う?」
「…………?」
分からない。
どちらも。
木がたくさんあるところ。
「おなじ?」
「似てるけど、少し違うの」
「…………」
そこから。
また新しいことを教えてもらう。
文字が読める。
それだけでは。
本を読めることにはならなかった。
文字には音がある。
音が集まると言葉になる。
そして。
言葉には意味がある。
最初は。
形と音を覚えるだけだった。
でも今は。
知らない言葉が出てくるたびに。
「これ、なに?」
意味まで聞くようになった。
◇ ◇ ◇
二日目。
「おかあさん」
「なあに?」
「まほうのほん、ない?」
母親が少し困ったような顔をした。
「うちにはないわねぇ」
「ない?」
「うん」
家の中を見る。
本そのものが。
それほどたくさんあるわけではない。
父親は木工職人だ。
家にあるのも、暮らしや仕事に関係するものがほとんど。
魔法を使える人もいない。
魔法の本がないのは。
考えてみれば当然だった。
「…………」
少し残念。
けれど。
母親が思い出したように言った。
「本なら、町長さんのところに何冊かあったと思うけど」
「まほう?」
「魔法の本があるかは分からないわ」
「…………」
魔法じゃない。
でも。
本。
今の自分は。
まだ本を読む練習をしているところ。
なら。
「よみたい」
「じゃあ、聞いてみる?」
「うん!」
◇ ◇ ◇
母親と一緒に。
町長の家へ行った。
事情を聞いた町長は。
しばらく考えてから、何冊かの本を見せてくれた。
どれも古い。
文字ばかりの本もある。
難しそうなものもある。
その中から。
「これならどうだ?」
一冊。
薄い本を出してくれた。
子どもでも読めるように。
大きめの文字と絵で書かれている。
この地方にいる動物についての本だった。
「どうぶつ……」
表紙を見る。
「借りていっていいぞ」
「ほんと?」
「ああ。破らないようにな」
「うん!」
偶然。
自分のために用意されていた本ではない。
町長が持っていた本の中で。
今の自分でも読めそうだったもの。
それが。
たまたま動物の本だった。
そして。
家へ持ち帰って。
母親と一緒にページをめくっていると。
「あ!」
見つけた。
灰色の身体。
尖った耳。
長い鼻。
「オオカミさん!」
狼について書かれたページだった。
◇ ◇ ◇
「……お、おお……かみ……は……」
指で文字を追う。
一文字。
一文字。
その次。
「…………」
遅い。
とても遅い。
一行読むだけなのに。
途中で何度も止まる。
「これ、なに?」
知らない言葉。
母親に聞く。
意味を教えてもらう。
もう一度。
最初から読む。
「……おおかみ、は……」
さっきより。
ほんの少しだけ分かる。
そこには。
今まで大人たちから聞いたことも書いてあった。
狼は。
一頭だけで暮らすとは限らない。
何頭かで一緒にいることも多い。
鼻や耳が。
人間よりずっとよく働く。
食べるために。
ほかの動物を追う。
危ないと思えば。
すぐに近づくとは限らない。
「…………」
あの狼も。
そうなのだろうか。
でも。
本に書いてある狼全部の話と。
あの狼がどうするかは。
同じではないかもしれない。
それでも。
今まで知らなかったことが。
本の中に書いてある。
「…………」
不思議だった。
誰かに聞いたのではない。
母親が最初から全部教えてくれたのでもない。
自分で文字を追って。
そこに書いてあることを読んだ。
もちろん。
分からないところは何度も聞いた。
一人ではまだ読めないところも多い。
それでも。
本から。
知らなかったことを一つ知った。
初めてだった。
◇ ◇ ◇
三日目。
また。
同じ本を開いた。
昨日読んだ。
狼のページ。
「オオカミは……」
「…………?」
止まる。
昨日より。
少しだけ速い。
もう一度読む。
やっぱり。
昨日ほど止まらない。
「…………」
どうしてだろう。
そのまま。
次のページへ進む。
「……この……」
止まった。
知らない言葉。
また。
遅くなった。
「これ、なに?」
母親に聞く。
教えてもらう。
そこで。
なんとなく分かった。
昨日読んだところには。
昨日覚えた言葉がある。
だから。
昨日より読める。
知らない言葉が増えれば。
また遅くなる。
「…………」
なら。
もっと読めば。
知っている言葉も。
もっと増える。
そう思った。
◇ ◇ ◇
四日目。
今度は。
読むだけではなく。
書く。
紙を一枚。
目の前に置く。
右手で炭筆を持つ。
傷は。
もうほとんど気にならなくなっていた。
書きたいものは。
決まっている。
『おおかみさん』
「…………」
一文字ずつ。
ゆっくり。
書く。
ここまでは。
もう見本を見なくても、なんとか書けた。
次。
『ぼくは』
これも。
書ける。
そして。
「…………」
なかよくしたい。
そう書きたい。
「なか……」
止まる。
次の文字が。
出てこない。
「…………」
思い出そうとする。
でも。
分からない。
仕方なく。
今まで使った紙を見る。
探す。
「あ」
あった。
形を見る。
自分の紙へ戻る。
書く。
「…………」
何か変だ。
母親が横から見る。
「これ、反対になってるよ」
「…………」
見比べる。
本当だ。
消せない。
だから。
その横に。
もう一度書く。
今度は。
同じ向き。
また次。
途中で分からなくなる。
調べる。
書く。
一文字だけ大きくなった。
次は小さすぎた。
それでも。
最後まで。
書く。
『おおかみさん ぼくは なかよくしたい』
「…………」
読んでみる。
遅い。
でも。
読める。
母親が書いたのではない。
自分で考えて。
自分で文字を選んで。
分からないところを調べて。
自分で書いた。
初めての文章。
「できた……」
狼には。
読めないかもしれない。
たぶん。
まだ読めない。
それでも。
これは。
自分の言葉だった。
◇ ◇ ◇
五日目。
文字を勉強していて。
ふと思う。
「…………まほう」
本を読む練習はしている。
言葉も覚えている。
でも。
文字をいくら覚えても。
それだけで魔法が使えるようになるわけではない。
「おかあさん」
「なあに?」
「まほうって、どうやってつかうの?」
「…………」
母親が困った。
「母さんは使えないからねぇ……」
「じゃあ、だれがしってる?」
「そうねぇ……」
聞いてみる。
父親にも。
町長にも。
ほかの大人にも。
でも。
返ってくる答えは。
どれも似ていた。
魔力というものを使うらしい。
杖を持っている魔法使いを見たことがある。
町へ来た旅人が、火をつける魔法を使っていた。
そのくらい。
「…………」
使えない人に聞いても。
使い方までは分からない。
なら。
使える人は。
どこにいるのだろう。
そうして。
初めて。
具体的な場所を知った。
レーネ。
ここから街道を進み。
馬車なら半日ほど。
この町よりずっと大きな地方都市。
そこには。
魔術師組合というものがあるらしい。
魔法を使う人たちが集まり。
お金を払えば。
基礎から教えてもらえることもあるという。
「いく!」
話を聞いた瞬間。
そう言った。
けれど。
父親は苦笑した。
「そう簡単な話じゃないぞ」
「なんで?」
「お前、三歳だろ」
「…………」
三歳。
「三歳の子どもに教えてくれるかも分からない。それに金もかかる」
「おかね……」
「そうだ」
すぐには。
行けない。
明日から魔法を教えてもらえるわけでもない。
「…………」
少し残念だった。
でも。
今までとは違う。
魔法を覚えたい。
でも。
誰に教えてもらえばいいのか分からなかった。
今は。
場所を一つ知っている。
レーネ。
そこには。
魔法を学べるところがある。
「レーネ……」
忘れないように。
もう一度。
名前を口にした。
◇ ◇ ◇
そして。
六日目の夕方。
いつものように。
借りた本を読んでいた。
「……オオカミは……」
最初の日より。
ずっと止まらなくなった。
それでも。
知らない言葉が出れば。
まだ止まる。
指で文字を追っていると。
玄関の方から声がした。
「ただいま」
「!」
本を閉じる。
椅子から降りる。
走る。
「おとうさん!」
今日は。
仕事場から帰ってきたのではない。
猟師たちと。
あの場所を確認しに行っていた。
父親の手を見る。
「…………!」
ハンカチ。
新しく置いてもらったもの。
ちゃんと戻ってきた。
そして。
そのほかにも。
見覚えのある紙が三枚。
「え!」
「ああ。全部回収してきたぞ」
すぐに父親のそばへ行く。
「どうだった?」
「今回は……ちょっと面白いぞ」
「?」
父親が床に紙を並べた。
一枚目。
狼だけを描いた絵。
「…………」
ほとんど。
そのまま。
端に。
少し泥がついている。
次。
自分が離れたところから。
狼へ手を振っている絵。
「あ」
一か所。
汚れている。
「これ、なに?」
「何かが触った跡には見えるな」
「オオカミさん?」
「まだ分からん」
「…………」
そして。
最後。
自分と狼が。
隣同士で寝ている絵。
「…………!」
明らかに。
違った。
端に。
小さな穴。
一つ。
その近くに。
もう一つ。
「かんだ?」
「その可能性はある」
さらに。
紙についている。
短い毛。
「け!」
一本。
二本。
三本。
前にハンカチについていたものと。
よく似た。
灰色と茶色の混じった毛。
「オオカミさん?」
「待て」
また。
父親に止められた。
でも。
今回は。
父親が少し笑っていた。
「今回はな。見たものもある」
「みた?」
「ああ」
父親たちは。
かなり離れたところから。
あの場所を見ていたという。
しばらくすると。
狼が現れた。
「オオカミさん!」
「ああ」
狼は。
まず。
ハンカチの方へ近づいた。
すぐには触らない。
周りを確かめるようにして。
それから。
鼻を近づけた。
「におい?」
「ああ」
そして。
今度は。
鼻先を。
直接ハンカチにつけた。
「…………!」
前は。
近くまで来て。
匂いを嗅いだ。
でも。
触ったかどうかまでは分からなかった。
今回は。
父親たちが見ていた。
「オオカミさん、さわった?」
「ああ。鼻でな」
「…………」
少し嬉しくなる。
でも。
まだ続きがあった。
狼はそのあと。
近くに置かれていた紙も調べ始めた。
父親たちがいたのは。
かなり遠い場所。
どの紙から見たのか。
一枚ずつ何をしたのか。
そこまでは分からなかった。
でも。
一つだけ。
はっきり見えたことがあった。
父親が。
自分と狼が並んで寝ている絵を持ち上げる。
「これな」
「?」
「狼がくわえた」
「…………!」
紙を見る。
「オオカミさんが?」
「ああ」
「ほんと?」
「これは見た」
狼は。
その紙を口にくわえた。
少し移動して。
そこで。
地面へ落とした。
「だから、この紙だけ元の場所から離れてた」
「どれくらい?」
父親が部屋の中を見回して。
少し離れた場所を指差した。
「ここから……あの辺くらいだな」
「…………」
かなり動いている。
紙を見る。
自分と狼。
並んで寝ている絵。
「え、わかったの?」
思わず聞いた。
けれど。
父親は首を振った。
「そこまでは分からん」
「…………」
「この絵の意味が分かって、これを選んだのかもしれない」
「うん」
「でも、違うかもしれない」
「…………」
紙についている匂い。
炭の匂い。
触った人の匂い。
たまたま。
狼が気になったのが。
この一枚だっただけかもしれない。
「じゃあ……」
紙を見る。
「まだ、わからない?」
「ああ」
やっぱり。
まだ。
分からない。
でも。
前とは違う。
今回は。
狼が何をしたのか。
一つだけ。
ちゃんと見た人がいる。
狼が。
自分からハンカチへ近づいた。
鼻をつけて。
匂いを嗅いだ。
そして。
三枚の紙のうち。
この一枚を。
実際に口へくわえた。
それは。
父親たちが見た。
「…………」
もう一つ。
新しいハンカチを見る。
「こっちにも毛がついてたぞ」
「!」
一本ではない。
いくつか。
前とよく似た灰茶色の毛。
今回は。
狼が直接鼻先をつけたところも見ている。
「…………」
そっと見る。
触らない。
狼が。
ここに触れた。
その可能性は。
前よりずっと高く感じられた。
でも。
だからといって。
自分のことを覚えている。
仲良くなりたいと思っている。
そんなところまでは。
まだ分からない。
「それとな」
父親が言った。
「脚も、かなりよくなってるように見えた」
「オオカミさんの?」
「ああ」
「なおった?」
「治った、とまでは言えん」
父親は。
いつものように。
分からないことを分かったとは言わなかった。
「でも、今日は右の後ろ脚も、ほとんど普通に地面につけて歩いてた」
「…………!」
狼の絵より。
ハンカチより。
その言葉が。
一番嬉しかった。
「よかった……」
小さく呟く。
床を見る。
三枚の絵。
狼だけの絵は。
ほとんどそのまま。
離れて手を振る絵には。
何かが触れたような跡。
一緒に寝ている絵は。
狼が実際にくわえ。
少し離れたところまで運んだ。
結果は。
同じではなかった。
「…………」
どうして違ったのだろう。
絵の意味?
匂い?
炭?
それとも。
ただの偶然?
まだ。
一回だけ。
分からない。
なら。
また確かめればいい。
でも。
今すぐ狼のところへ行く必要はない。
狼は逃げなかった。
ハンカチへ自分から近づいた。
そして。
怪我をした脚も。
少しずつ使えるようになっている。
だから。
「…………」
待つ。
その間に。
自分は勉強する。
狼に近づくことだけが。
狼のためにできることではない。
何もしないで待つのとも。
少し違う。
いつか。
本当に言葉を交わせるようになるために。
今できることを。
一つずつ増やしていく。
待つことも。
きっと。
その一つだった。




