021 二度目の試み
――二度目の試み――
灰色と茶色が混じった、短い毛。
ハンカチについたままのそれを、もう一度見る。
「おとうさん」
「ん?」
「あした、このけ、きいてきて」
「猟師にか?」
「うん」
父親はハンカチを見る。
それから頷いた。
「それくらいならいいぞ」
「うん!」
これで。
狼の毛なのか。
少しだけ分かるかもしれない。
そして。
もう一つ。
やりたいことがあった。
一度、自分の部屋へ戻る。
持ってきたのは。
別のハンカチ。
「これも」
「ん?」
父親が受け取った。
「また置くのか?」
「うん」
前に置いてもらったものとは違う。
でも。
しばらく自分で持っていたもの。
自分の匂いはついているはず。
父親はハンカチを見てから。
床に並んだ紙を見る。
「また同じ絵も置くのか?」
「ちがうの」
「違うの?」
こくん。
頷く。
「こんど、ちがうえ」
「なんで?」
「…………」
少し考える。
どう言えばいいのだろう。
前に置いた絵。
自分と狼。
その間にはパン。
一緒にパンを食べている絵。
その紙には。
二つの穴が開いていた。
ほかの絵にも。
泥や何かが触れたような跡があった。
でも。
どうしてそうなったのかは分からない。
狼が見たから?
パンだったから?
それとも。
絵とは関係ない?
「…………」
だから。
「ちがうえ、おいたら」
「うん」
「どうなる?」
父親が少し黙った。
「……なるほどな」
自分でも。
どうなるのかは分からない。
だから。
やってみたい。
◇ ◇ ◇
「何の絵にする?」
母親が新しい紙を用意してくれた。
「…………」
考える。
前は。
一緒にパンを食べている絵だった。
なら。
今度はパンを描かない。
炭筆を持つ。
右手の傷は、もうかなりよくなっている。
まだ少し気になるけれど。
ゆっくりなら描ける。
最初の一枚。
小さな人を描く。
自分。
その隣に。
狼。
「…………」
二人とも。
横になる。
「ねてるの?」
母親が尋ねた。
「うん」
「あなたと狼さんが?」
「いっしょにねる」
一枚目。
自分と狼が、隣同士で寝ている絵。
次。
二枚目。
また自分を描く。
今度は。
少し離れたところに狼。
二人の間には何もない。
自分の片手を上げる。
「これは?」
「ばいばい」
「狼さんに?」
「うん」
近づかない。
離れたところから。
手を振る。
そんな絵。
そして。
三枚目。
「…………」
今度は。
自分を描かない。
狼だけ。
「オオカミさんだけ?」
「うん」
母親が三枚の紙を見比べた。
一枚目。
自分と狼。
二枚目。
離れた自分と狼。
三枚目。
狼だけ。
食べ物は。
どこにも描いていない。
「…………」
絵の下には。
覚えた文字も少し書いた。
まだ。
母親のようには書けない。
線が少し曲がる。
大きさも揃わない。
でも。
自分の名前は。
前より迷わず書けた。
「できた」
三枚を並べる。
前に使った文字の教材は、今回は持っていかない。
新しいハンカチ。
新しい三枚の絵。
これだけ。
今度は。
どうなって戻ってくるのだろう。
◇ ◇ ◇
父親が紙を一枚ずつ確認した。
「分かった。持っていく」
「うん!」
「ただし」
「?」
父親の声が少し変わる。
「明日、必ず置いてこられるとは限らないぞ」
「なんで?」
「狼が近くにいたら、わざわざそばまで行かないからだ」
「…………」
「安全に置けるときだけだ」
狼に会うために近づかない。
狼がいたら。
追いかけない。
危ないことはしない。
それは。
最初から変わっていない。
「わかった」
頷いた。
◇ ◇ ◇
翌朝。
父親は出かける前に。
町の猟師のところへ向かった。
今回は森へ行くわけではない。
町の中。
だから。
母親と一緒についていった。
「これか?」
猟師がハンカチを見る。
「うん!」
短い毛。
昨日のまま。
まだ布についている。
猟師はそれを指先でそっと摘まんだ。
「一本だけか」
「そうだ」
父親が答える。
猟師は毛を持ち上げる。
窓から入る光に透かす。
向きを変える。
指先で触れる。
「…………」
じっと見る。
「オオカミさん?」
待ちきれずに聞いた。
「待て待て」
猟師がこちらを見る。
「まだそうとは言ってない」
「…………」
また。
まだ。
だった。
猟師はもう一度、毛を見る。
「一本だけじゃ断定はできんな」
「ちがう?」
「違うとも言ってない」
「…………?」
難しい。
猟師は少し考えてから。
こちらにも分かるように言った。
「狼の毛でも、おかしくはない」
「!」
「でもな」
喜びかけたところで。
また止められる。
「この辺には似た毛の犬もいる」
「…………」
「だから、絶対に狼だとは言えない」
「そっか……」
狼かもしれない。
犬かもしれない。
やっぱり。
まだ決めることはできない。
でも。
「オオカミさんかもしれない?」
「ああ」
猟師が頷いた。
「その可能性はある」
「…………」
昨日より。
ほんの少しだけ。
狼かもしれないと思えるものが増えた。
それだけだった。
◇ ◇ ◇
父親たちは、そのまま町を出た。
自分は行かない。
母親と一緒に家へ戻る。
「…………」
気になる。
絵を置けたのか。
狼はいたのか。
ハンカチは。
どうなるのか。
でも。
追いかけない。
約束だから。
その日は。
いつものように文字を勉強した。
◇ ◇ ◇
夕方。
父親たちが帰ってきた。
「おとうさん!」
すぐに迎えに行く。
「おいた?」
「ああ」
「えも?」
「三枚とも置いてきたぞ」
「ハンカチも?」
「一緒にな」
「…………!」
全部。
置いてくれた。
「オオカミさん、いた?」
「ああ」
「!」
やっぱり。
あの辺りにまだいる。
「でも、かなり遠くだ」
父親が続けた。
「こっちに近づいてきたわけじゃない」
「…………」
「俺たちを見たら距離を取ってた」
前と同じ。
人間には近づかない。
「それとな」
父親が少し考える。
「脚は、前より使ってるように見えた」
「ほんと?」
「ああ。ただ、治ったかどうかまでは分からんぞ」
「うん」
それでも。
少し嬉しい。
前より。
右の後ろ脚を使っている。
それだけでも。
今は十分だった。
「ハンカチは?」
「置いてきた」
「オオカミさん、みた?」
「そこまでは見てない」
「…………」
父親たちは。
ハンカチと三枚の絵を置いたあと。
その場から離れた。
ずっと見張ってはいなかった。
でも。
帰る途中。
かなり遠くまで離れてから。
父親が一度だけ振り返った。
「狼がな」
「うん」
「あっちに歩いていくのは見えた」
「あっち?」
「ハンカチを置いた方だ」
「…………!」
思わず父親へ近づく。
「ハンカチのところ?」
「そこまで行ったかは分からん」
「…………」
そうだった。
狼が。
そちらへ歩いていった。
それだけ。
ハンカチまで行ったとは限らない。
絵を見たとも限らない。
「そっか……」
でも。
気になる。
とても気になる。
狼は。
あのあと。
どこまで行ったのだろう。
ハンカチを見つけたのか。
三枚の絵に気づいたのか。
匂いを嗅いだのか。
それとも。
何もせず通り過ぎたのか。
今は。
まだ分からない。
◇ ◇ ◇
次の日も。
狼のところへは行かなかった。
その次の日も。
行かない。
約束を守る。
その代わり。
文字を覚える。
昨日覚えた文字を読む。
間違えれば。
もう一度。
知らない言葉があれば。
母親に聞く。
少しずつ書く。
そして。
時間があれば。
魔法について聞く。
まだ。
魔法の本を一人で読めるほどではない。
獣語魔法なんて。
もっと遠い。
それでも。
やることはある。
文字を覚えること。
言葉を覚えること。
本を読めるようになること。
そして。
ときどき。
思い出す。
森の近くに置いてある。
三枚の絵。
一枚目。
一緒に眠っている自分と狼。
二枚目。
離れたところから手を振る自分と狼。
三枚目。
狼だけ。
前とは違う絵を置いたら。
今度は。
どうなるのだろう。
答えはまだ。
あの場所に置かれたままだった。




