020 残された痕跡
――残された痕跡――
床にしゃがみ込む。
目の前には。
泥のついた紙。
少し汚れたハンカチ。
そして。
二つの穴が開いた絵。
「…………」
何があったのだろう。
分からないなら。
よく見てみる。
「よくみる」
父親は何も言わなかった。
手も出さない。
ただ隣にしゃがんで、こちらを見ている。
最初に手に取ったのは。
ハンカチだった。
◇ ◇ ◇
もともとは家で使っていた布。
自分の匂いをつけて、父親に持っていってもらったもの。
今は。
白かったところに、ところどころ土がついている。
「…………」
端を見る。
何もない。
真ん中。
土。
裏返す。
「あれ?」
一か所だけ。
ほかより濃く汚れている。
指で触ろうとして。
その近くにあるものが目に入った。
「…………?」
細い。
短い。
灰色と茶色が混ざったようなもの。
顔を近づける。
「おとうさん、これ」
「ん?」
父親も顔を近づけた。
「毛か?」
父親が指を伸ばす。
けれど。
触れる直前で止めた。
「待て。そのままにしておこう」
「なんで?」
「取れたら分からなくなるだろ」
「…………」
もう一度見る。
短い毛。
「オオカミさん?」
「かもしれない」
「!」
「でも、まだ分からんぞ」
父親がすぐに続けた。
「犬かもしれないし、ほかの動物かもしれない」
「…………」
狼の毛。
そう思ったのに。
まだ違うかもしれない。
でも。
何もなかったわけではない。
ここには。
自分のものではない毛が一本ついている。
「…………」
触らないようにして。
次を見る。
◇ ◇ ◇
今度は教材。
泥のついた紙を一枚ずつ見る。
文字。
絵。
土。
「…………」
最初は。
ただ汚れているようにしか見えなかった。
でも。
紙を少し傾けてみる。
「?」
何か変だ。
もう一度、元に戻す。
また傾ける。
泥のつき方が。
全部同じではない。
「…………」
丸いところ。
その先に。
小さく出っ張ったような跡。
何かに似ている。
でも。
何だっただろう。
「おとうさん」
「ん?」
「これ、なに?」
指差す。
父親も覗き込んだ。
「どれ?」
「ここ」
「…………」
父親がしばらく見る。
「足跡……か?」
「どうぶつ?」
「そう見えなくもないな」
「オオカミさん?」
「いや、これは分からんな」
紙そのものが小さい。
跡も全部残っているわけではない。
途中だけ。
「これだけじゃ、父さんには何の足跡か分からん」
「…………」
また。
分からない。
狼かもしれない。
違う動物かもしれない。
でも。
足跡かもしれないものがある。
それは覚えておく。
◇ ◇ ◇
そして。
最後。
一番気になっていた紙を見る。
自分と狼が。
一緒にパンを食べている絵。
その端に。
二つの小さな穴が開いている。
「…………」
一つ。
その隣に。
もう一つ。
指を近づける。
でも触らない。
二つの穴を交互に見る。
「…………」
何か。
見たことがある気がした。
二つ。
尖ったもの。
そこで。
右手を見る。
傷はかなり治った。
けれど。
跡はまだ残っている。
あの日。
目の前で見たもの。
狼の口。
白い歯。
牙。
「…………!」
紙を見る。
二つの穴。
自分の手を見る。
もう一度、穴。
「おとうさん」
「ん?」
紙を持ち上げる。
「オオカミさん、かんだ?」
父親は答えなかった。
紙を受け取る。
穴を見る。
裏返す。
また表を見る。
「……可能性はあるな」
「やっぱり?」
「待て待て」
嬉しくなりかけたところで止められた。
「可能性があるってだけだ」
「…………」
「狼が噛んだのかもしれない。でも、別の動物かもしれない」
「…………」
そうだった。
父親は穴の周りも見る。
「もし狼だったとしても、どうして噛んだのかまでは分からん」
「え?」
「お前の絵を見て、『これはお前と自分だ』って分かって噛んだとは限らないってことだ」
「…………」
絵を見る。
これは。
自分と狼。
自分には分かる。
母親にも。
父親にも分かった。
でも。
狼にも同じように見えるのか。
それは分からない。
「匂いが気になったのかもしれないしな」
父親が言う。
「におい?」
「ああ。お前も母さんも触ってるだろ。炭の匂いだってする」
「…………」
そうか。
紙には。
いろいろな匂いがついている。
「食べ物があると思ったのかもしれない。まあ、これも分からんがな」
「…………」
分からないことばかりだ。
でも。
二つの穴があることだけは。
見れば分かる。
◇ ◇ ◇
紙を一枚ずつ並べ直す。
「…………」
文字だけの紙。
絵を描いた紙。
文字だけのものは。
少し土がついているくらい。
でも。
絵を描いたものは。
さっきの穴。
泥。
何かが触ったような跡。
「…………?」
もう一度。
一枚ずつ見る。
文字。
絵。
文字。
絵。
「おとうさん」
「今度は何だ?」
「こっち、いっぱいよごれてる」
「こっち?」
絵のある紙を指差す。
それから。
文字だけの紙。
「こっちは、あんまり」
父親も見比べた。
「……確かにな」
「オオカミさん、えをみた?」
「それはまだ分からん」
「…………」
やっぱり。
すぐには答えが出ない。
「でも、違いに気づいたのはいいことだ」
「ちがい?」
「ああ」
父親が紙を指差す。
「文字だけの紙より、絵のある紙の方が汚れてる。これは見れば分かる」
「うん」
「でも、なんでそうなったのかは分からない」
「…………」
見る。
分かる。
考える。
でも。
考えたことが、本当にそうなのかは別。
少し難しい。
「じゃあ……」
パンの絵が描かれた紙を見る。
そこにも。
何かで押したような汚れがある。
「パン、みた?」
「かもしれない」
「…………」
「違うかもしれない」
「…………」
父親を見る。
「ぜんぶ、わからない」
父親が笑った。
「ああ。分からんことは分からん」
「…………」
「でも、分かったこともあるだろ?」
もう一度。
目の前に並んだものを見る。
ハンカチには。
短い灰茶色の毛。
紙には。
足跡のように見える泥。
一緒にパンを食べている絵には。
二つの穴。
そして。
文字だけの紙より。
絵を描いた紙の方が汚れている。
「…………」
何がそうしたのかは分からない。
でも。
そこにあるものは。
見つけられた。
◇ ◇ ◇
もう一度。
ハンカチを見る。
灰色と茶色が混じった、短い毛。
「…………」
父親は。
狼の毛かもしれないと言った。
でも。
犬かもしれない。
ほかの動物かもしれない。
自分には分からない。
父親にも分からない。
なら。
誰なら分かるのだろう。
「…………」
少し考える。
動物。
毛。
足跡。
どこかで聞いた。
狼へパンを持っていってもいいか。
父親たちが聞きに行った人。
「…………あ」
顔を上げる。
「おとうさん」
「ん?」
「りょうしさん」
「猟師?」
「うん」
ハンカチを指差す。
「これ、みてもらう」
「…………」
「オオカミさんのけか、わかる?」
父親がハンカチを見る。
それから。
足跡らしき泥のついた紙を見る。
「そうだな」
少し考えて。
頷いた。
「俺よりは分かるかもしれん」
「!」
分からないなら。
知っている人に聞けばいい。
自分より。
父親より。
動物をたくさん見ている人。
「りょうしさんに、きく」
ハンカチを見る。
そこについている。
たった一本の毛。
まだ。
狼のものかどうかは分からない。
でも。
分からないままにしておく必要もない。
知っている人がいるなら。
聞いてみればいい。
紙を見て。
違いを見つける。
分からないことを考える。
それでも分からなければ。
知っている人に聞く。
そんなやり方を。
まだ三歳の自分は。
少しずつ覚え始めていた。




