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ちいさなぼくのまもるもの  作者: 星乃いりす


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19/85

019 言葉が通じなくても

――言葉が通じなくても――


机へ戻る。


今日一日かけて、母親と作ったものが並んでいる。


文字。


その横に描いた絵。


狼が文字を覚えられるのかは分からない。


見てもらえるのかさえ分からない。


それでも。


もう一つ、やってみたいことがあった。


「おえかきも、かく」


「お絵描き?」


「うん」


新しい紙を一枚もらう。


左手で炭筆を持った。


右手には、まだ包帯が巻かれている。


少しずつ傷はよくなっているけれど、まだ思うようには使えない。


だから。


慣れない左手で描いていく。


すっ。


線が曲がる。


もう一本。


今度は少し長すぎた。


「…………」


それでも続ける。


最初に描いたのは、小さな人。


頭。


身体。


手。


足。


「これ、ぼく」


次は。


その隣に、四本の脚。


尖った耳。


長い鼻。


尻尾。


「オオカミさん」


自分で見ても。


狼なのか犬なのか、少し怪しい。


でも。


狼のつもりだ。


そして。


二人の間にパンを描く。


「…………」


もう少し考えて。


自分にもパン。


狼にもパン。


「いっしょにたべる」


自分と狼が。


同じところでパンを食べている絵。


もちろん。


本当にこんなことをしていいのかは分からない。


父親からは、狼に近づいてはいけないと言われている。


だからこれは。


今すぐやりたいことではない。


いつか。


こんなふうになれたらいい。


そんな絵だった。


もう一枚。


今度は。


自分を描く。


その隣に狼。


パンはない。


ただ。


二人が並んでいる。


「…………」


仲良し。


そのつもりで描いた。


上手ではない。


線は曲がっている。


身体の大きさも変だ。


狼の脚も、一本だけ妙に長くなった。


それでも。


自分には分かる。


これは自分。


これは狼。


そして。


二人は喧嘩していない。


最後に。


自分の絵の下へ、名前を書く。


「…………」


今日、何度も練習した文字。


まだ見本がないとうまく書けない。


母親が書いてくれた名前を見る。


一文字。


ゆっくり。


次。


またゆっくり。


左手では難しい。


それでも。


なんとか最後まで書いた。


「できた」


母親が隣から見る。


「うん。ちゃんと読めるよ」


少し嬉しくなる。


文字。


絵。


名前。


狼にどこまで分かるのかは知らない。


でも。


今の自分に作れるものは。


これだった。


          ◇ ◇ ◇


紙をまとめて、父親のところへ持っていく。


「おとうさん」


「ん?」


「こんどハンカチのところに、これもおいてきて」


「これ?」


父親が受け取る。


最初に見たのは、文字と絵を組み合わせた紙だった。


「……これは?」


「オオカミさんのおべんきょう」


「勉強?」


「うん。もじ、おぼえるの」


「…………」


父親が何とも言えない顔をした。


紙を見る。


こちらを見る。


もう一度、紙を見る。


「狼に文字を教えるのか?」


「うん!」


今度は別の紙を見せる。


「これ、ぼくとオオカミさん」


父親がじっと見る。


「これがお前で……」


「うん」


「こっちが狼か」


「うん!」


分かってくれた。


少し嬉しい。


「いっしょにパンたべてる」


「なるほどな……」


父親はしばらく絵を眺めていた。


それから。


もう一枚。


自分と狼が並んでいる絵を見る。


「これも、お前と狼か?」


「なかよし」


「…………」


父親がこちらを見る。


「これを見せて、『仲良くしたい』って伝えるつもりなのか?」


「うん!」


すぐに頷いた。


父親はまた紙へ目を落とした。


「狼がこれを見て、そういう意味だって分かるかは分からないぞ」


「うん」


「文字もだ」


「うん」


それはもう。


母親から聞いた。


狼が文字を覚えられるのか。


絵を見て意味を分かってくれるのか。


誰にも分からない。


それでも。


「おいてみる」


父親は少し考えてから頷いた。


「……分かった」


「ほんと?」


「ああ。次に様子を見に行くとき、ハンカチがまだあったら、その近くに置いてみる」


「いっしょに!」


「一緒に置くよ」


「うん!」


満足して頷いた。


          ◇ ◇ ◇


それから。


何日かが過ぎた。


狼のところへは行かなかった。


行きたかった。


ハンカチがどうなっているのか。


狼がまた来たのか。


気になった。


でも。


行かない。


それが約束だった。


代わりに。


毎日、紙の前に座った。


「これは?」


母親が文字を指差す。


答える。


「じゃあ、これは?」


答える。


「これは?」


「…………」


間違える。


もう一度教えてもらう。


次の日。


また同じ文字が出てくる。


今度は答えられた。


一文字。


また一文字。


覚える。


昨日覚えたものも、もう一度見る。


忘れていたら覚え直す。


文字をつなげて、言葉を読む。


知っている言葉なら意味が分かる。


知らない言葉なら。


「これ、なに?」


母親に聞く。


そうすると。


文字だけではなく、新しい言葉も一つ増えた。


書く練習も続けた。


右手の傷がよくなるまでは、左手で。


見本を見ながら。


ゆっくり。


何度も。


そして。


包帯が取れるころには、少しずつ右手でも炭を持てるようになった。


最初は怖かった。


また痛くなるような気がした。


だから。


そっと。


力を入れすぎないように。


一本。


線を引く。


「…………」


痛くない。


もう一本。


少しずつ。


右手でも文字を書き始めた。


          ◇ ◇ ◇


七日ほど経った。


右手の傷は、かなり塞がっていた。


まだ傷の跡は残っている。


触れば少し気になる。


けれど。


物を持つことも。


食事をすることも。


炭筆を握ることも。


ほとんど困らなくなった。


文字も。


一週間前とは違っていた。


母親が書いた基本的な文字なら、分かるものがかなり増えた。


簡単な言葉なら。


初めて見る並びでも、一文字ずつ追って読めることがある。


短い文章にも挑戦した。


「…………」


一文字。


次。


また次。


とても遅い。


途中で、最初に何を読んでいたのか分からなくなることもある。


知らない言葉が出てくれば。


そこで止まる。


文字は読める。


でも。


意味が分からない。


そんなことも増えた。


「…………むずかしい」


最初の日。


文字を覚えるのは簡単だと思った。


確かに。


文字の形を覚えるのは、それほど苦手ではないらしい。


けれど。


本を読むというのは。


文字を覚えるだけではなかった。


知らない言葉が出てくる。


その意味を覚える。


また知らない言葉が出てくる。


「これ、なに?」


何度も母親に聞いた。


聞いても。


説明そのものが分からないこともあった。


そんなときは。


もっと簡単な言葉で教えてもらう。


それでも分からなければ。


実物を見せてもらったり。


絵を描いてもらったりした。


狼と話したくて始めた勉強。


その狼は。


まだずっと先にいる。


それでも。


毎日。


少しずつ。


読めるものは増えていった。


          ◇ ◇ ◇


七日目の夕方。


「ただいま」


「!」


聞き慣れた声。


すぐに玄関へ向かう。


「おとうさん!」


父親が帰ってきた。


そして。


その手にあるものを見て、足が止まった。


「あ!」


ハンカチ。


自分のものだ。


少し泥で汚れている。


「ハンカチ!」


「ああ。回収してきた」


父親がそれを見せる。


なくなっていなかった。


風に飛ばされてもいなかった。


誰かに持っていかれてもいなかった。


ちゃんと戻ってきた。


「それとな」


父親が荷物から、さらに何枚かの紙を取り出した。


「お前の紙も回収してきたぞ」


「…………!」


駆け寄る。


教材。


絵。


自分が作ったもの。


狼に見てもらいたくて置いてもらった紙。


もちろん。


新しい文字が書かれているわけではない。


狼からの返事もない。


でも。


置いていったときとは違っていた。


父親が床に紙を広げる。


「…………」


一枚目。


泥がついている。


二枚目。


何かに踏まれたような跡がある。


そして。


自分と狼が一緒にパンを食べている絵。


「あ……」


端の方に。


小さな穴が二つ。


挿絵(By みてみん)


指で触ろうとして。


止める。


「これ、なに?」


「分からん」


父親が答える。


「俺たちは触ってない」


「…………」


穴を見る。


二つ。


何かが刺さったようにも見える。


でも。


何がそうしたのかは分からない。


「オオカミさん?」


「分からん」


「…………」


また。


分からない。


狼かもしれない。


別の動物かもしれない。


ほかの何かかもしれない。


父親はハンカチも広げた。


「こっちもな。最初に置いた場所から少し動いてた」


「オオカミさんが?」


「それも分からん」


風かもしれない。


別の動物かもしれない。


狼かもしれない。


見ていなかったことは。


決められない。


「…………」


紙とハンカチを、じっと見る。


何かあった。


それだけは分かる。


でも。


何があったのかは分からない。


そんなことを考えていると。


父親が言った。


「それと、狼は今日もいたぞ」


顔を上げる。


「オオカミさん!」


「ああ」


「げんき?」


「元気かどうかまでは分からんが……」


父親は少し考えた。


「俺たちが近づいたら、逃げた」


「…………」


やっぱり。


人間が近づけば逃げる。


でも。


「前より、右の後ろ脚を地面につけて歩くことが増えてた」


「!」


右の後ろ脚。


怪我をしていたところ。


「なおった?」


「治ったとは言えない」


父親はすぐには頷かなかった。


「ただ、前よりは脚を使ってるように見えた」


「…………」


治っている。


そう言い切ることはできない。


でも。


前より脚を使っていた。


それは父親が見た。


「よかった……」


小さく呟く。


それから。


もう一度、床を見る。


泥のついた教材。


何かに踏まれた紙。


二つの小さな穴が開いた絵。


少し場所が動いていたハンカチ。


「…………」


狼は今日もいた。


この近くに。


でも。


この紙を見たのか。


匂いを嗅いだのか。


踏んだのか。


穴を開けたのか。


何一つ分からない。


しゃがみ込む。


顔を近づける。


まず。


穴の開いた絵を見る。


次に。


泥の跡。


それから。


ハンカチ。


何があったのだろう。


分からないなら。


よく見てみる。


今の自分にできるのは。


それくらいだった。

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ここまで読んでいただき、ありがとうございます☺️ 少しでも「続きが気になる」「この子をもう少し見守ってみたい」と思っていただけましたら、ブックマークや評価で応援していただけると、とても嬉しいです。 皆さまからの応援を励みに、これからも小さな主人公の物語を大切に書いていきます。 次のお話も楽しんでいただけますように。
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