018 ハンカチを嗅いだ狼
――ハンカチを嗅いだ狼――
「オオカミさん、どうしたの?」
父親の次の言葉を待つ。
けれど。
その前に、もう一つ気になった。
「パン!」
「ん?」
「オオカミさん、パンたべた?」
父親は荷物を下ろしながら答えた。
「ああ。……食べたぞ」
「ほんと!?」
思わず声が大きくなる。
「ああ。ただ、お前が渡したパンをそのまま置いたわけじゃない」
「?」
父親たちは出発したあと、町の猟師にも話を聞いたらしい。
狼へ何度も人間の食べ物を与えるのは、やはり駄目だと言われた。
けれど。
今回は一度だけ。
持っていった小さなパンなら置いてもいい。
そう言われたという。
「ハンカチの上には置かなかったぞ」
「いっしょじゃないの?」
「ああ。少し離した」
パン。
そして。
そこから少し離れたところに、自分のハンカチ。
二つを置いて。
父親たちは遠くまで離れた。
「すぐきた?」
「いや」
父親が首を振る。
「しばらく何も来なかった」
「どれくらい?」
「そうだな……」
少し考える。
「お前が昼寝するくらい」
「…………」
長い。
自分が昼寝をして。
起きるくらい。
その間、父親たちはずっと待っていたらしい。
そして。
狼が現れた。
「オオカミさん!」
「ああ」
前に見た狼とよく似ていた。
右の後ろ脚を庇うように歩いていたという。
だから父親たちは、前に見たのと同じ狼かもしれないと思った。
けれど。
最初に狼が見つけたのは、ハンカチではなかった。
「パンの方に気づいた」
「パン?」
「ああ」
すぐに食べたわけではない。
狼は遠くで立ち止まった。
周りの匂いを嗅いだ。
少し進んで。
また止まった。
「なんですぐたべなかったの?」
「警戒してたんじゃないか」
「けいかい?」
「危なくないか確かめてたんだと思う」
「…………」
危ない。
狼も。
危ないものがないか確かめる。
少し不思議だった。
自分は狼を怖いと思わずに近づいた。
でも狼は。
パン一つにも、すぐには近づかなかったらしい。
何度も立ち止まり。
周りの匂いを嗅ぎ。
ようやくパンまで近づいた。
「それから?」
「パンの匂いを嗅いで、一回離れた」
「たべなかった?」
「そのときはな」
でも。
しばらくすると、また戻ってきた。
もう一度匂いを嗅いで。
ようやく。
パンを食べた。
「ぜんぶ?」
「ああ」
「…………!」
嬉しくなる。
狼が食べた。
自分が持っていってほしいと頼んだパンを。
お腹が空いていたのかもしれない。
少しでも、お腹いっぱいになっただろうか。
そんなことを考えていると。
「それからな」
父親が続けた。
「?」
「ハンカチにも気づいた」
「…………!」
すぐに父親を見る。
「どうしたの?」
「最初は近づかなかった」
「なんで?」
「それは父さんにも分からん」
パンを食べたあと。
狼は、そのまま離れていこうとしたらしい。
けれど。
途中で止まった。
鼻を動かして。
何かの匂いを探すように、辺りを嗅いだ。
そして。
ハンカチの方を見た。
「ぼくの?」
「ああ」
そこからも。
狼はすぐには近づかなかった。
数歩進んでは止まり。
鼻を動かす。
また少し近づいて。
止まる。
パンのときよりも、ずっと慎重だったという。
「…………」
どうしてだろう。
ハンカチには、自分の匂いがついている。
だから?
分からない。
父親にも分からない。
「それで?」
「最後は、かなり近くまで来た」
「ハンカチに?」
「ああ」
「どうしたの?」
「嗅いでたよ」
「…………」
狼が。
自分のハンカチを。
「いっぱい?」
「結構長かったな」
ハンカチの匂いを嗅ぐ。
その周りも嗅ぐ。
またハンカチを嗅ぐ。
けれど。
噛まなかった。
持っていかなかった。
触りもしなかった。
しばらく匂いを確かめたあと。
狼はその場を離れていった。
「…………」
頭の中に、その姿を思い浮かべる。
灰色の狼。
地面に置かれたハンカチ。
そこへ鼻を近づけて。
自分の匂いを嗅いでいる。
「オオカミさん、ぼくってわかった?」
父親は少し考えてから。
首を振った。
「それは分からない」
「…………」
「お前の匂いがついたハンカチを嗅いだ。それは見た」
「うん」
「でも、それがお前の匂いだって分かったかまでは、父さんには分からん」
「…………」
そうなのか。
少し残念だった。
「パンも、ぼくってわかった?」
「それも分からない」
「…………」
父親が言う。
「パンとハンカチは離して置いたからな。あの狼が二つを結びつけて考えたかも分からん」
「むずかしい……」
「そうだな」
でも。
一つだけ。
分かったことはある。
狼は。
自分の匂いがついたハンカチから逃げなかった。
警戒しながら。
ゆっくり近づいて。
匂いを嗅いだ。
それ以上のことは。
まだ分からない。
◇ ◇ ◇
父親が目の前にしゃがんだ。
「それで、約束だ」
「?」
「餌は今日だけ」
「…………」
さっきまでの嬉しさが、少しだけ小さくなる。
「あしたは?」
「持っていかない」
「オオカミさん、おなかすくよ?」
「そうだな」
父親は否定しなかった。
だから余計に。
分からなくなる。
「じゃあ、なんで?」
「野生で生きていくなら、自分で食べ物を取らないといけないからだ」
「…………」
ロッカとは違う。
ロッカには飼い主がいる。
ご飯をもらう。
水をもらう。
家もある。
でも。
あの狼にはいない。
「でも、あし……」
「ああ」
父親も、そこは気になっているようだった。
右の後ろ脚。
怪我をしている。
脚が痛ければ。
うまく走れないかもしれない。
食べ物を取るのも難しいかもしれない。
「だから、そっちを調べることになった」
「きず?」
「ああ」
父親たちが気にしているのは。
狼がどうして怪我をしたのか。
弓を持った男は、自然にできた傷には見えなかったと言っていた。
もしかすると。
誰かが置いた罠にかかったのかもしれない。
「わな、さがすの?」
「そのつもりだ」
父親が頷く。
もし本当に罠なら。
誰が置いたのか。
ほかにも同じものがあるのか。
町の人たちにも危険はないのか。
調べなければならない。
夕方、町長たちとも話をしたという。
「オオカミさんのあし、なおす?」
「…………」
父親は少し困った顔をした。
「そこまでは、まだ分からん」
「…………」
また。
分からない。
狼の脚が痛いことは分かった。
罠かもしれないことも分かった。
でも。
それを治せるかは分からない。
「そっか……」
少しだけ俯く。
◇ ◇ ◇
そのとき。
ふと。
思い出した。
「…………あ」
父親から離れ、さっきまで母親といたところを見る。
机の上。
そこには。
今日一日かけて作ったものが並んでいる。
『おおかみ』
狼の絵。
『ひと』
人の絵。
『パン』
パンの絵。
そして。
自分の絵と。
左手で何度も練習して、ようやく書いた自分の名前。
狼のために作った文字の教材。
その隣には。
まだ何も書かれていない、真っ白な紙。
「…………」
狼は。
自分のハンカチに近づいた。
匂いを嗅いだ。
自分だと分かったのかは、まだ分からない。
でも。
逃げずに調べてくれた。
机へ近づく。
狼の絵が描かれた紙を見る。
それから。
白い紙を見る。
まだ。
手紙を書いていない。
「…………」
狼は文字を読めないかもしれない。
教材を見ても、何も分からないかもしれない。
それでも。
書きたいことは。
まだ、たくさん残っていた。




