↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
ちいさなぼくのまもるもの  作者: 星乃いりす


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
17/85

017 狼にも文字を

――狼にも文字を――


「…………」


狼に、なんて書こう。


そう聞かれて。


すぐには答えられなかった。


言いたいことはある。


怖がらせるつもりはなかった。


手は大丈夫。


脚は痛くないのか。


お腹は空いていないのか。


いつか仲良くなりたい。


たくさんある。


でも。


その前に。


ふと、目の前にあるものが気になった。


今日一日、自分が使っていた紙。


母親が書いてくれた文字。


その読み方。


『いえ』


『パン』


『おおかみ』


文字と、その意味を覚えるために使ったもの。


「…………」


手紙を書いても。


狼は読めない。


母親に、そう教えてもらった。


なぜ読めないのか。


文字を知らないから。


なら――。


「オオカミさんのも、つくる」


母親が瞬きをした。


「狼さんの?」


「うん。ぼくとおなじ」


自分が使っていた紙を指差す。


「オオカミさんも、もじおぼえたら、おてがみよめる」


「…………」


母親はしばらく黙っていた。


それから。


「なるほど……」


自分が文字を知らなかったから、母親に教えてもらった。


狼も文字を知らない。


だったら。


狼にも教えればいい。


自分の中では、きれいにつながっていた。


けれど。


「でもね」


母親は教材の中から一枚を取った。


そこには。


『パン』


と書かれている。


「あなたは、母さんがこれを指して『パン』って教えたから、この文字がパンだって分かったでしょう?」


「うん」


「じゃあ、狼さんには誰が教えるの?」


「…………」


止まった。


紙を見る。


『パン』


読める。


今日、覚えた。


でも。


最初から読めたわけではない。


母親が教えてくれたから分かった。


狼のところへ、この紙を置く。


その横にパンを置く。


それだけで。


狼は、この文字を『パン』だと分かるのだろうか。


「…………」


分からない。


「絵を描いてあげることはできるよ」


母親が言った。


「パンの文字の横に、パンの絵を描くとかね」


「うん」


「でも、それを見て狼さんが『これはパンっていう文字なんだ』って分かるかは、母さんにも分からない」


「…………」


「それにね」


母親は少し考えてから続けた。


「狼さんが、人間みたいに文字を覚えられるのかも分からないの」


「おぼえられない?」


「分からない」


できない、とは言わなかった。


できる、とも言わなかった。


分からない。


また、それだった。


狼がどうして自分の手を傷つけたのか。


どうして痩せていたのか。


どうして脚を怪我しているのか。


ハンカチの匂いを覚えているのか。


そして今度は。


文字を覚えられるのか。


知らないことばかりだった。


「…………」


それでも。


紙を見る。


「つくる」


「作るの?」


「うん」


狼が覚えられるかは分からない。


紙を見てくれるかも分からない。


それでも。


何もしなければ、もっと分からない。


母親は少しだけ困ったように笑った。


「分かった。じゃあ、一緒に作ってみようか」


「うん!」


          ◇ ◇ ◇


新しい紙が用意された。


最初に書いたのは。


『おおかみ』


その横に、絵を描く。


「…………」


灰色の身体。


四本の脚。


尖った耳。


長い鼻。


尻尾。


あの日に見た狼を思い出しながら描いていく。


けれど。


「…………」


何か違う。


狼というより。


少し細長い犬のようになった。


母親が隣から覗き込む。


「狼さん?」


「オオカミさん」


「うん。分かるよ」


本当に分かったのか。


少しだけ怪しい。


でも。


狼の絵。


その横には『おおかみ』。


一枚目ができた。


次。


『ひと』


今度は人の絵。


頭。


身体。


手。


足。


次は。


『パン』


丸いパンを描く。


これは狼より簡単だった。


「パン」


「上手ね」


少し嬉しい。


そして。


もう一枚。


小さな人の絵を描いた。


さっきの『ひと』より小さい。


「これは?」


母親が尋ねる。


自分を指差す。


「ぼく」


「あなた?」


「うん」


自分の絵。


なら。


その横には。


「なまえ、かく」


「自分で?」


「うん」


母親が少し考える。


「右手、大丈夫?」


右手を見る。


まだ包帯が巻かれている。


「ひだりでかく」


「無理しないでね」


「うん」


母親が別の紙に、名前を書いてくれた。


それを見る。


「…………」


自分の名前。


今までも何度か見たことはあったのかもしれない。


でも。


文字を覚え始めてから見ると、少し違って見えた。


一つずつ。


意味のある文字が並んでいる。


炭を左手で握る。


見本を見る。


紙を見る。


ゆっくり。


線を引く。


「…………」


曲がった。


違う。


もう一度。


今度は途中で線が長くなった。


「むずかしい……」


「読むのと書くのは違うからね」


母親が言う。


それでも。


もう一度。


見本を見る。


書く。


違う。


また書く。


一回。


二回。


三回。


何度も繰り返す。


左手は思うように動かない。


線は震える。


形も歪む。


それでも。


最初よりは少し近づいた。


「…………」


もう一度。


ゆっくり。


見本を見て。


一つずつ。


書く。


「できた……?」


母親が紙を見る。


「うん」


そして、笑った。


「ちゃんと読めるよ」


「ほんと?」


「うん。あなたの名前」


「…………」


自分でも見る。


母親が書いたものとは全然違う。


きれいでもない。


歪んでいる。


それでも。


読めるらしい。


「…………」


少しだけ嬉しくなった。


自分で初めて書けた言葉は。


自分の名前だった。


          ◇ ◇ ◇


出来上がった紙を並べる。


狼。


人。


パン。


そして。


自分。


文字の横には、それぞれ絵がある。


これを見せれば狼が文字を覚える。


そんなことは、まだ誰にも分からない。


紙を嗅ぐだけかもしれない。


踏んでしまうかもしれない。


興味すら示さないかもしれない。


そもそも。


狼にとっては、ただの黒い線にしか見えないのかもしれない。


それでも。


「…………」


自分が今日、文字を覚えるために使ったものと同じようなものを作った。


あとは。


手紙。


母親が新しい紙を一枚置いた。


「じゃあ今度こそ、お手紙ね」


「うん」


「狼さんに、なんて書く?」


「…………」


考える。


伝えたいことは、たくさんある。


何から書こう。


そう考え始めた――そのとき。


「ただいま」


「!」


父親の声。


勢いよく振り返った。


帰ってきた。


すぐに立ち上がり、父親のところへ向かう。


最初に見たのは。


その手だった。


「…………」


ない。


ハンカチを持っていない。


でも。


それでいい。


今日は持って帰ってこなくていいと、自分からお願いした。


父親はこちらを見ると、先に言った。


「置いてきたぞ」


「ハンカチ?」


「ああ」


「…………」


ちゃんと置いてきてくれた。


少し嬉しくなる。


けれど。


父親はそれだけでは終わらなかった。


「それとな」


「?」


「狼もいた」


「!」


一瞬で、ハンカチよりそちらの方が気になった。


「あのオオカミさん?」


「たぶんな」


また。


たぶん。


同じ狼だと、まだ決めることはできない。


けれど父親たちが見たのは、前とよく似た狼だったらしい。


「ハンカチ、みた?」


「見たぞ」


「オオカミさんが?」


「ああ」


思わず父親へ近づく。


「どうしたの?」


父親はすぐには答えなかった。


どう話そうか考えるように、少しだけ間を置く。


「俺たちがハンカチを置いて、かなり離れてから――」


「うん」


「狼が出てきた」


「…………」


あの狼が。


自分の匂いがついたハンカチのところへ。


父親を見上げたまま、次の言葉を待つ。


狼は。


自分のハンカチを見つけて。


いったい、どうしたのだろう。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
ここまで読んでいただき、ありがとうございます☺️ 少しでも「続きが気になる」「この子をもう少し見守ってみたい」と思っていただけましたら、ブックマークや評価で応援していただけると、とても嬉しいです。 皆さまからの応援を励みに、これからも小さな主人公の物語を大切に書いていきます。 次のお話も楽しんでいただけますように。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。