002 食べられない宝物
――食べられない宝物――
小さな手のひらの上に、くるくると丸まった木屑がある。
薄くて、軽くて、不思議な形をしている。
指でつまんでみる。
少し曲げてみる。
離すと、またくるりと丸まった。
「…………」
父親はもう仕事に戻っていた。
シュッ。
シュッ。
鉋が木の表面を滑る音が聞こえる。
手の中の木屑を見る。
それから、父親が削っている木を見る。
シュッ。
また薄い木屑が伸びてくる。
くるりと丸まり、床へ落ちた。
手の中にあるものと同じだった。
もう一度、鼻へ近づける。
すん。
木の匂いがする。
嫌な匂いではない。
いつも父親の仕事場で嗅いでいる匂いだ。
そこで、ふと思った。
これは――。
どんな味がするのだろう。
食べられるのか。
食べられないのか。
そんなことは、まだ知らない。
だから。
ぱくっ。
口へ入れた。
「…………」
もぐ。
硬くはない。
でも、柔らかくもない。
口の中に木の匂いが広がる。
そして。
美味しくない。
「おい!?」
大きな声が響いた。
びくっ、と肩が揺れる。
「何食ってるんだ!」
顔を上げると、父親がこちらへ駆け寄ってきていた。
さっきまで木を削っていたのに。
どうしてそんなに慌てているのか分からない。
ただ。
口の中のこれは、美味しくない。
それだけは分かった。
父親が目の前にしゃがみ込む。
「ぺっしなさい、ぺっ!」
「?」
「口から出せ。ほら、ぺっ!」
言われるまま口を開く。
父親の指が、木屑を取り出した。
さっきまでもらったばかりの、くるくると丸まった木屑。
少し濡れて、形が崩れている。
父親はそれを見てから、こちらを見る。
「……まさか食うとは思わなかったぞ」
怒っているというより、困ったような顔だった。
そこへ。
「どうしたの?」
母親がやってきた。
父親の大きな声が聞こえたらしい。
「こいつ、木屑食った」
「えっ!?」
母親の顔が変わった。
すぐ目の前にしゃがみ込む。
「お口、見せて」
「?」
「あーんして」
「あー」
言われたとおりに口を開ける。
母親が覗き込んできた。
「もう残ってない?」
「ああ。すぐ出させた」
「本当に?」
「たぶんな」
母親は念入りに口の中を確かめる。
何をそんなに心配しているのだろう。
木屑を口に入れただけなのに。
でも。
どうやら、してはいけないことだったらしい。
「これは食べちゃ駄目よ」
母親が取り出された木屑を指差した。
「たべちゃ、だめ?」
「そう。これは食べ物じゃないの」
「たべものじゃない?」
「うん」
もう一度、木屑を見る。
さっきまで手のひらの上で眺めていた、不思議なもの。
父親からもらったもの。
木のいい匂いがするもの。
けれど。
食べ物ではないらしい。
「…………」
口の中には、まだ少しだけ木の味が残っている。
美味しくなかった。
だから。
なんとなく納得した。
木屑は、食べ物ではない。
知らなかったことを、一つ知った。
◇ ◇ ◇
一方。
父親は別のことを考えていた。
仕事場を見回す。
床には木屑が落ちている。
加工を待つ木材が積まれている。
壁には鋸や鑿が掛けられ、作業台には鉋が置かれている。
大人にとっては見慣れた仕事道具ばかり。
けれど。
足元にいる三歳児は、つい先ほど木屑を食べた。
「…………」
父親はしばらく仕事場を見回したあと、深く息を吐いた。
「……こいつをここに座らせておくの、まだ早いな」
「?」
次の瞬間。
身体がふわりと浮いた。
「わっ」
父親に抱き上げられていた。
そのまま母親へ差し出される。
「仕事終わるまで見ててくれ。今度は何食うか分からん」
「はいはい」
母親が苦笑しながら受け取った。
その腕に抱かれ、仕事場から離れていく。
肩越しに振り返る。
父親の仕事場が少しずつ遠くなる。
そして、自分の手を見る。
「…………」
何もない。
さっきまであったはずの、くるくると丸まった木屑がない。
父親から初めてもらった、不思議な形の木屑。
匂いを嗅いで。
触って。
そして、味まで確かめた。
けれど。
食べ物ではなかった。
どうやら、もらったものだからといって、何でも食べていいわけではないらしい。
少しだけ賢くなった気がした。
◇ ◇ ◇
それから、数か月が過ぎた。
季節は春から夏へと移り変わっていた。
三歳の数か月は長い。
以前より知っている言葉が増えた。
話せる言葉も増えた。
歩く足取りもしっかりして、家の中だけではなく、外へ出ることも多くなった。
もちろん。
どこへ行ってもいいわけではない。
「家の見えるところまでよ」
外へ出るとき、母親はいつもそう言った。
「おうち、みえるところ?」
「そう。遠くまで行っちゃ駄目よ」
「うん」
約束は分かった。
家が見えるところまで。
それなら大丈夫。
ある日のこと。
穏やかな風が吹く庭先で、母親が洗濯物を干していた。
濡れた布が風を受け、ぱたぱたと揺れている。
父親は仕事場にいる。
トントン。
シュッ。
ときおり、聞き慣れた音が家の向こうから届いてくる。
家の前では、少し年上の子たちが遊んでいた。
走ったり。
何かを投げたり。
大きな声で笑ったり。
その向こうには畑がある。
もっと遠くには森が見える。
あそこへ一人で行ってはいけないことは知っていた。
遠い。
とても遠い場所だ。
ぼんやり眺めていると。
何かが動いた。
「?」
茶色いもの。
四本の脚で、とことこと歩いている。
犬だった。
大きくはない。
誰かに連れられている様子もなかった。
地面へ鼻を近づける。
くんくん。
少し歩く。
止まる。
また、くんくん。
「…………」
目で追いかける。
犬が少し離れていく。
その先にも道がある。
家がある。
知らない場所がある。
ふと、後ろを見る。
自分の家は、ちゃんと見えている。
母親もいる。
洗濯物を干している。
――家の見えるところまで。
約束を思い出す。
もう一度、犬を見る。
まだ家は見えている。
なら。
どこまで行っていいのだろう。
そんな疑問が、初めて浮かんだ。




