001 最初の記憶
――最初の記憶――
大陸暦七二四年――春。
大陸西部に広大な領土を持つ、エルディア王国。
その王都から馬車に揺られること数日。
街道を遠く離れた地方に、少し田舎の小さな町があった。
人口は、およそ千人。
町の周囲には季節ごとに色を変える畑が広がり、そのさらに向こうには深い森が横たわっている。
町の中央を一本の街道が貫き、ときおり荷物を積んだ行商人の馬車や旅人たちが、土埃を上げながら通り過ぎていく。
決して豊かな町ではない。
けれど、飢えに苦しむほど貧しくもない。
朝になれば、畑へ向かう人々の声が聞こえる。
昼には職人たちが槌を振るう音が響き、夕暮れになれば家々の煙突から夕食を作る煙が昇る。
そんな、ごくありふれた町だった。
この世界には、魔物が存在する。
森の奥深く。
人の手が届かない山々。
あるいは、街道から外れた荒野。
そうした場所には、人を襲う危険な生き物たちが確かに生息していた。
もっとも、この町の周辺は比較的安全だった。
少なくとも、町の人々が毎日魔物の襲撃に怯えながら暮らすような土地ではない。
そして、この世界にはもう一つ、人々にとって当たり前に存在するものがあった。
――魔法。
小さな炎を生み出し、薪に火を灯す魔法。
傷ついた身体を癒やす魔法。
魔物を討ち倒すために使われる攻撃魔法。
それらは伝説でも、おとぎ話でもない。
確かに実在する技術だった。
しかし。
魔法が存在することと、誰もが魔法を使えることは同じではない。
魔法を学ぶためには、金が必要だった。
そして何より、時間が必要だった。
農民の子なら、幼い頃から畑仕事を覚える。
鍛冶屋の子なら、父親の背中を見ながら金属の扱い方を学ぶ。
少し裕福な家に生まれれば、読み書きを習わせてもらえるかもしれない。
さらに恵まれた家なら、魔法を教える教師を雇うことさえできる。
誰もが同じ場所から人生を始められるわけではない。
どこに生まれるのか。
誰のもとに生まれるのか。
どんなものを食べ、何を教わり、何を見ることができるのか。
生まれたばかりの子供には、そのどれも選べない。
けれど。
生まれたときに与えられたものだけが、その先のすべてではない。
知らなかったものを知ることもある。
できなかったことが、できるようになることもある。
誰かと出会い、それまで知らなかった考え方に触れることもある。
そうして少しずつ、自分で選べるものが増えていく。
そんな春の日。
町の片隅にある一軒の小さな家で、一人の子供が生まれた。
まだ名前を呼ばれても、その意味すら理解できない小さな命。
もちろん、自分がどんな世界に生まれたのかも知らない。
魔法というものが存在することも。
森の向こうに魔物がいることも。
王都と呼ばれる巨大な街があることも。
何一つ知らなかった。
父親と母親がいる、ごく普通の家庭だった。
裕福ではない。
けれど、明日の食事を心配しなければならないほど貧しくもない。
父親は町で働き、母親もまた家のことをしながら日々を過ごしていた。
そして。
三年の月日が流れる。
◇ ◇ ◇
大陸暦七二七年――春。
三歳になったばかりの彼にとって、世界のほとんどはまだ知らないものばかりだった。
父親は、町の木工職人だった。
町の人から頼まれた家具を作り、農具の柄を削り、壊れた荷車を修理する。
華やかな仕事ではない。
それでも、町の暮らしには欠かすことのできない仕事だった。
母親は家事をしながら、忙しい季節になれば近所の農家へ出向き、畑仕事を手伝っている。
三人が暮らす家は小さい。
けれど、雨風を防ぐ屋根がある。
夜になれば眠る場所がある。
そして毎日、温かい食事を口にすることができた。
父親の仕事場は、家のすぐそばにあった。
そこには三歳になったばかりの彼にとって、不思議なものがいくつも並んでいる。
壁に掛けられた鋸。
使い込まれた槌。
大小さまざまな鑿。
床や棚には加工を待つ木材が積み重ねられ、仕事場へ近づけば、いつも独特の木の香りがした。
けれど、それらの道具に触ることだけは許されていなかった。
刃物もあれば、重い道具もある。
小さな手で扱うには、あまりにも危険だったからだ。
そんな、ある日の午後。
暖かな春の日差しが、仕事場の入口まで差し込んでいた。
その光と影の境目に、ちょこんと腰を下ろしている。
何をするわけでもない。
ただ、父親の仕事を眺めていた。
「…………」
シュッ。
シュッ。
一定のリズムを刻みながら、父親の手に握られた鉋が木材の上を滑っていく。
そのたびに、薄く削られた木がするすると伸びていった。
やがて。
くるり。
くるり。
柔らかな渦を描きながら、床へ落ちる。
目がその動きを追いかける。
シュッ。
また一つ。
シュッ。
もう一つ。
木が薄くなって、丸まって、落ちていく。
どうしてそうなるのかは分からない。
けれど。
面白い。
気づけば、ずっと見つめていた。
やがて。
音が止まった。
「?」
顔を上げる。
父親がこちらを見ていた。
少しだけ口元を緩める。
「そんなに面白いか?」
言葉の意味は分かる。
三歳になったばかりとはいえ、簡単な言葉ならもう理解できる。
少しずつ、自分の気持ちを言葉にすることもできるようになっていた。
父親は腰を屈めると、床に落ちていた木屑の中から、長く綺麗に削れた一本を拾い上げた。
少し確かめるように指で触れてから、こちらへ差し出す。
「ほら」
小さな手を伸ばす。
受け取った。
くるくると丸まった、不思議な形。
指で触れてみる。
薄い。
少し力を入れれば、すぐに折れてしまいそうだった。
今度は鼻を近づける。
ふわり。
木の匂いがした。
「…………」
もう一度、指で触る。
父親はそれ以上何も言わなかった。
作業台へ向き直り、再び鉋を握る。
シュッ。
シュッ。
また、木を削る音が始まった。
手の中には、くるくると丸まった木屑。
目の前では、また新しい木屑が生まれていく。
シュッ。
くるり。
シュッ。
くるり。
見て。
手の中のものを触って。
また父親の手元を見る。
世界には、まだ名前も知らないものがたくさんあった。
どうして木がこんな形になるのかも知らない。
父親が使っている道具の名前も、まだ全部は知らない。
けれど。
知らないからこそ、目が離せなかった。
手の中の木屑を、もう一度眺める。
それは大人から見れば、仕事の途中で生まれた、ただの木屑だった。
けれど。
三歳になったばかりの彼にとっては。
自分から興味を持って。
自分から手を伸ばして。
触れて、匂いを嗅いだ。
そんな小さな出来事だった。
そしてそれは。
後になっても、なぜか忘れることのなかった――。
最初の記憶になった。




