015 はじめて読めた言葉
――はじめて読めた言葉――
紙に書かれた文字を見る。
「…………」
黒い線が組み合わさった、不思議な形。
さっきまでは、ただの模様にしか見えなかった。
母親がその文字を指でなぞる。
「これは――」
読み方を教えてもらう。
一度、聞く。
それから。
もう一度、文字を見る。
この形。
今の音。
二つを一緒に覚える。
「これ?」
「そう」
母親が頷いた。
そして、その隣に新しい文字を書く。
さらさら。
「じゃあ、これは?」
「…………」
知らない。
母親を見る。
もう一度、読み方を教えてもらう。
文字を見る。
覚える。
さらに次。
さらさら。
また違う形が増えた。
それも教えてもらう。
一つ。
また一つ。
何度か繰り返しているうちに。
「…………」
なんだ。
思っていたより難しくない。
「もじ、おぼえるのかんたん」
そう言うと、母親が笑った。
「そう? じゃあこれは?」
「…………」
指差されたのは、さっき教えてもらった文字だった。
答える。
「そう。じゃあ、これは?」
今度は別の文字。
それも答える。
「これは?」
「…………」
少し迷う。
どれだっただろう。
さっき聞いた。
この形は――。
「あ」
思い出した。
答える。
母親が少し驚いたように目を瞬いた。
「意外と覚えるの早いわね」
「はやい?」
「うん。でも、まだ少しだけだからね」
「…………」
紙を見る。
そこにあるのは、ほんの数文字。
自分にはたくさん覚えたように見える。
けれど。
母親の話では、文字はまだまだあるらしい。
今覚えたものだけでは、本は読めない。
それでも。
さっきまで何の意味もなかった形に、少しずつ音がついていく。
それが面白かった。
◇ ◇ ◇
母親が新しい紙を用意した。
「じゃあ、今覚えた文字で、言葉を読んでみようか」
「ことば?」
「そう」
さらさら。
いくつかの文字が並ぶ。
一つだけだったものが、今度は二つ。
「これは――」
母親が読み方を教えてくれる。
「いえ」
「いえ」
その言葉なら知っている。
毎日寝ている場所。
父親と母親と一緒に暮らしている場所。
目の前にある文字を見る。
「いえ……」
今までなら。
家は家だった。
見れば分かる。
言えば伝わる。
でも。
この二つの形を並べても、同じものを表せるらしい。
不思議だった。
母親が次の言葉を書く。
今度は、さっきより少し違う。
「これは?」
「…………」
じっと見る。
知っている文字を探す。
一つ。
もう一つ。
それから。
「あ」
気づいた。
「パン!」
母親が笑う。
「正解」
「パン!」
もう一度読む。
いつも食べているパン。
さっき狼にもあげたいと頼んだパン。
それが今、紙の上にもある。
少し楽しくなってきた。
「つぎ!」
「はいはい」
母親が笑いながら、もう一つ書き始める。
さらさら。
今度は長い。
さっきまでより、たくさんの文字が並んだ。
「…………」
じっと見る。
知らない文字も混じっている。
母親が一つずつ教えてくれた。
そして。
最初から順番に、ゆっくり読み方を聞いていく。
「お」
次。
「お」
その次。
「か」
そして。
「み」
「…………」
一つずつつなげる。
お。
お。
か。
み。
「……おおかみ」
そこで。
ぱっと顔を上げた。
「オオカミさん!」
「そう」
母親が頷く。
もう一度、紙を見る。
『おおかみ』
「…………」
あの灰色の身体。
尖った耳。
長い鼻。
大きな尻尾。
そして。
右の後ろ脚に怪我をした狼。
今までは。
姿を見れば、狼。
声に出せば、オオカミ。
それだけだった。
でも今は。
紙の上にも、狼がいる。
「おおかみ……」
指で文字を追う。
もう一度。
「おおかみ」
読めた。
自分で。
ほんの少しだけれど。
文字が読めた。
◇ ◇ ◇
「もっとやる?」
母親に聞かれた。
すぐに頷く。
「やる」
「じゃあ、少し増やしてみようか」
さらさら。
母親が新しい文字を書いていく。
一つ。
二つ。
三つ。
さっきより多い。
まだ増える。
「…………」
四つ。
五つ。
六つ。
七つ。
八つ。
九つ。
そして。
十。
紙の上に、新しい形がずらりと並んだ。
「…………」
さっきまでとは違う。
多い。
母親が少し楽しそうに笑った。
「これも簡単かな?」
「…………」
さっき自分で言った。
――もじ、おぼえるのかんたん。
十個の文字を見る。
どれも違う。
似ているものもある。
「…………かんたん」
少しだけ間が空いた。
母親がくすっと笑う。
「じゃあ、一つずつ覚えましょう」
最初の文字を指差す。
読み方を聞く。
覚える。
次。
また覚える。
その次。
覚える。
つもりだった。
けれど。
五つ目を教えてもらったころ。
「じゃあ、最初のこれは?」
「…………」
最初の文字を見る。
さっき覚えた。
覚えたはずなのに。
「…………」
何だっただろう。
母親は答えを言わず、待っている。
じっと文字を見る。
頭の中を探す。
さっき聞いた音。
この形。
「…………あ」
思い出した。
答える。
「正解」
ほっとする。
でも。
さっきまでとは少し違った。
簡単だと思っていた文字が、増えた途端に少し難しくなった。
「全部覚えたら、今度は何も見ないでやってみようか」
「うん」
もう一度、十個の文字を見る。
魔法はまだ遠い。
獣語魔法は、もっと遠い。
今はまだ、本を読むことすらできない。
けれど。
『いえ』
『パン』
そして。
『おおかみ』
今日だけで、読める言葉ができた。
だから。
もう一度、最初の文字を見る。
覚える。
次。
また覚える。
父親が帰ってくるまで、まだ時間はある。
「…………」
狼と話したい。
そのために。
今は、一つずつ。
目の前の文字を覚えていった。




