014 それぞれのできること
――それぞれのできること――
父親が出かける準備をしている。
その姿を見ながら、ふと思い出した。
「…………」
さっき渡したハンカチ。
狼のところへ持っていってもらう。
そして。
帰るときには、ちゃんと持って帰ってきてもらう。
そうお願いした。
けれど――。
少し考える。
狼に自分の匂いを知ってもらいたい。
それなら。
すぐに持って帰ってきてしまって、いいのだろうか。
「…………」
父親のところへ向かう。
「おとうさん」
「ん?」
「ハンカチ、きょうもってかえらなくていいよ」
父親が少し首を傾げた。
「置いてくるのか?」
「うん」
頷く。
「またべつのひに、もってかえってきてね」
「…………」
父親は手に持ったハンカチを見る。
それから、こちらを見る。
「狼のところに、しばらく置いておきたいのか?」
「うん」
自分は行かない。
狼にも近づかない。
代わりに。
自分の匂いがついたものを置いておく。
そうすれば、狼がゆっくり匂いを嗅げるかもしれない。
それから、別の日に持って帰ってきてもらう。
父親は弓を持った男を見た。
「どう思う?」
「…………それなら餌よりは問題ないと思うが」
男も、すぐには大丈夫だと言わなかった。
「ただし、持って帰れる保証はないぞ」
「なんで?」
「狼が持っていくかもしれん」
「…………」
「別の動物が持っていくかもしれん。雨が降れば汚れるし、風で飛ぶこともある」
一つずつ聞きながら、ハンカチを見る。
狼が持っていく。
別の動物が持っていく。
雨。
風。
置いておけば、同じ場所にずっと残っていると思っていた。
でも。
そうとは限らないらしい。
男はさらに続けた。
「そもそも、その狼がまた同じ場所へ来るかも分からん」
「こない?」
「ああ」
狼は人間のように、決まった約束をしてそこへ来るわけではない。
昨日いたからといって。
今日もいるとは限らない。
ハンカチを置いたからといって。
狼が見つけてくれるとも限らない。
「…………」
それは少し困る。
大切なハンカチだ。
なくなってしまうのは嫌だった。
けれど。
狼に自分の匂いを知ってもらいたい。
二つを頭の中で並べて、しばらく考える。
父親が尋ねた。
「なくなってもいいか?」
「…………」
もう一度、ハンカチを見る。
少し迷ってから。
こくん。
頷いた。
「いい」
父親はその返事を聞いてから、ハンカチを荷物へしまった。
「分かった」
そして、念を押すように続ける。
「安全な場所があれば置いてくる。ただ、置くために狼へ近づかないといけないようなら置かない。それでいいな?」
「うん」
そこはすぐに頷けた。
狼へ近づいてはいけない。
それは自分も、もう知っている。
「あと、パンは?」
父親の荷物を見る。
「それは猟師に聞いてからだ」
「…………」
「食わせても問題ないって言われたら、一度だけ持っていく。駄目なら持っていかない」
少し残念だった。
けれど。
「うん」
それも約束したことだった。
◇ ◇ ◇
やがて、出発の準備が終わった。
父親は荷物を背負う。
その中には、自分のハンカチが入っている。
狼が見つけてくれるかは分からない。
匂いを嗅いでくれるかも分からない。
そのまま残っているかもしれない。
なくなってしまうかもしれない。
何が起きるのかは、まだ誰にも分からない。
父親が頭を軽く撫でた。
「じゃあ、父さんは狼のことを調べてくる」
「うん」
それから。
父親は家の中を指差した。
「お前はそっちだろ?」
指の先を見る。
母親がいる。
その前には、一枚の紙。
そこには。
さっき教えてもらった、最初の文字が書かれていた。
「…………」
狼と話したい。
そのためには魔法を覚えたい。
でも、その前に。
まず文字を覚えなければならない。
父親は狼のことを調べに行く。
自分は文字を覚える。
今できることは違う。
「おとうさん」
「ん?」
「いってらっしゃい」
「ああ。行ってくる」
父親たちは歩き出した。
その背中が遠ざかっていく。
追いかけない。
大きな木より向こうにも行かない。
ただ、その場から見送った。
◇ ◇ ◇
家へ戻る。
母親の隣に座ると、目の前にはまだ紙が置かれていた。
黒い線で書かれた、一つの文字。
「じゃあ始めましょうか」
母親が炭の棒を差し出す。
受け取ろうとして。
右手を見る。
白い包帯が巻かれている。
まだ、うまく使えない。
だから。
左手を伸ばした。
炭を握る。
「…………」
いつもあまり使わない手だから、少し変な感じがする。
母親が書いた文字を見る。
それから。
紙の空いているところへ炭の先をつける。
すっ。
黒い線が伸びた。
「あ……」
思っていたところとは、少し違うところへ曲がった。
母親の文字と見比べる。
違う。
もう一度。
すっ。
今度も、少し違う。
「…………」
もう一度。
魔法は、まだ使えない。
魔力が何なのかも分からない。
獣語魔法なんて、もっと分からない。
狼と話せる日は、ずっと先にある。
今できるのは。
目の前にある、この一文字だけ。
もう一度。
炭を紙につける。
すっ。
父親が狼のことを調べている間。
初めての勉強が、始まった。




