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ちいさなぼくのまもるもの  作者: 星乃いりす


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013 はじめての勉強

――はじめての勉強――


心の中では、もう一つ決まっていた。


獣語魔法。


それを覚えれば、いつか狼と気持ちを伝え合えるかもしれない。


いつになるのかは分からない。


そもそも、自分にできるのかさえ分からない。


それでも。


「じゃあ、ぼく、まほうべんきょうする」


父親が少し驚いた顔をした。


「魔法を?」


「うん」


迷わず頷く。


「オオカミさんと、おはなしする」


ついさっきまで、魔法はただ存在を知っているだけのものだった。


何が必要なのか。


どうやって使うのか。


どこで習えばいいのか。


何一つ知らない。


それでも。


何のために学びたいのか。


それだけは、もう決まっていた。


あの狼と話したい。


自分が怖かったのか聞きたい。


脚は痛いのか。


お腹は空いているのか。


そして。


自分は傷つけるつもりではなかったと伝えたい。


それができるかもしれないのなら。


魔法を覚えたい。


今は、それで十分だった。


          ◇ ◇ ◇


けれど。


魔法とは別に、まだ諦めていないことがあった。


一度家へ戻ると、先ほどのパンを持ってきた。


自分のハンカチを広げ、その中へパンを置いて包む。


そして父親のところへ戻ると、両手で差し出した。


「でも、これだけはわたしてきて」


「…………」


父親は受け取らなかった。


ハンカチを指差す。


「ぼくのにおい、ついてる」


そして。


「オオカミさんにパンあげて」


少し考えてから、続ける。


「ぼくはこないって、おしえて」


父親は、ハンカチに包まれたパンとこちらの顔を交互に見た。


すぐには答えない。


「……どうしてもか?」


こくん、と頷く。


「一回だけ?」


「うん」


「明日も持っていって、とは言わない?」


「いわない」


「…………」


父親は考え込んだ。


狼に食べ物を与えることには反対している。


それは変わっていない。


一度だけなら絶対に問題が起こらない、という保証もない。


一生懸命頼まれたからという理由だけで、昨日まで駄目だと言っていたことを簡単に許すつもりもないようだった。


そのとき。


「待て」


弓を持った男が声を上げた。


視線は、差し出されたハンカチへ向いている。


「食わせるかどうかは別として、その布は使えるかもしれん」


父親が振り向く。


「どういうことだ?」


「狼がこの子の匂いを覚えてるか、見られるかもしれない」


「におい?」


思わず男を見る。


先ほどロッカの飼い主から、犬は人間より鼻が利くと教えてもらったばかりだ。


男の話では、狼の鼻も人間よりはるかに優れているらしい。


あの日。


狼とは、ほんのわずかな距離まで近づいた。


狼の牙が右手に届くほどに。


それなら、自分の匂いを嗅いでいた可能性はある。


「布を置いて、俺たちは離れる」


男は言う。


「それで狼がどうするか見るだけならできる」


父親は少し考える。


ただし。


狼がハンカチの匂いに反応したとしても、それだけで何もかも分かるわけではない。


匂いそのものを覚えているのかもしれない。


自分の匂いだと分かっているのかもしれない。


あるいは、ただ知らない匂いを確認しているだけかもしれない。


まして。


――この匂いの人間は安全だ。


狼がそう考えてくれる保証など、どこにもない。


父親が尋ねる。


「パンは?」


「置かない方がいい」


男は即答した。


「…………」


手の中のハンカチを見る。


考えたことの半分。


匂いを届けることは、やってもらえるかもしれない。


けれど。


大切なのは、狼がどんな反応をするか確かめることだけではなかった。


もう一度、パンを父親へ差し出す。


「パンも」


「…………」


「オオカミさん、おなかすいてる」


狼は痩せていた。


右の後ろ脚も怪我していた。


うまく食べ物を見つけられず、本当にお腹を空かせているのかもしれない。


一度だけでも。


食べてほしい。


父親は困った顔をした。


弓を持った男も黙る。


やがて大人たちは、まだ分からない話も交えながら相談を始めた。


そして。


「……一回だけだぞ」


父親が言った。


思わず顔を上げる。


ただし、何でも好きにしていいという意味ではなかった。


「これから毎日、食べ物を持っていくのは駄目だ」


「うん」


「町の近くにも置かない」


「うん」


「狼に直接渡すのも駄目だ」


「うん」


父親は、さらにパンを見る。


「それと、このパンを食わせていいかも父さんには分からん」


「…………」


「だから猟師に聞く。駄目だって言われたら、パンは持っていかない」


少しだけ、表情が曇る。


お願いしたパンが、そのまま狼へ届くとは限らない。


けれど。


父親は手を差し出した。


「ハンカチは持っていく」


その手を見る。


「ほんと?」


「ああ」


ようやくハンカチを父親へ渡す。


父親が受け取る。


その直後。


「かえしてね」


「分かってるよ」


父親が苦笑した。


大切なハンカチなのだ。


狼に渡してしまうものではない。


ちゃんと持って帰ってきてもらわなければ困る。


          ◇ ◇ ◇


狼のことは、ひとまず大人たちに任せることになった。


けれど。


自分にも、やることができていた。


「まほう、べんきょうする」


家へ戻ると、今度は母親に宣言した。


「魔法って……」


母親は困った顔をした。


突然そんなことを言い出したのだから、無理もない。


話を聞けば、理由はあの狼らしい。


獣語魔法を覚えて、いつか話してみたい。


そう伝えた。


「うーん……」


母親は考える。


この町には、魔法を専門に教える学校などない。


きちんと教えられる魔法使いもいない。


魔法について書かれた本も、普通の本よりずっと高価だ。


仮に本を手に入れられたとしても。


もっと手前に、大きな問題があった。


「でも、あなた……」


母親はこちらを見る。


「まだ文字が読めないでしょう?」


「もじ?」


「そう」


本はまだ、中身を読むものではなかった。


紙の上に、意味の分からない形がたくさん並んでいるもの。


今はまだ、それくらいにしか見えない。


この町には魔法を教えてくれる人がいない。


なら、本から学ぼうとしても。


そこに何が書いてあるのか読むことすらできない。


母親は少し考えてから言った。


「だったら、まず文字を覚えないとね」


「もじ?」


「本を読むためのものよ」


母親は紙を一枚用意した。


それから、炭を手に取る。


さらさらと紙の上を動かすと、黒い線が一つの形を作った。


この地方で使われている文字の中でも、最初に教わることの多い、ごく基本的な一文字。


紙を覗き込む。


「これが文字」


「…………」


分からない。


曲がった線。


短い線。


それらが組み合わさった、ただの形にしか見えない。


母親にとっては意味のあるもの。


けれど。


今の自分には、ただの模様とほとんど変わらなかった。


ふと。


頭に浮かんだものがあった。


町の外で見つけた、古い石の祠。


表面に刻まれていた、意味の分からない形。


あれも。


もしかすると、文字だったのだろうか。


「まほうのほんにも、こういうのいっぱいある?」


「そうよ」


「いっぱい?」


「いっぱい」


もう一度、紙を見る。


狼と話したい。


そのためには獣語魔法を覚える。


獣語魔法を覚えるには、まず魔法について知らなければならない。


でも、この町には教えてくれる人がいない。


本から知ろうとするなら。


まず、この不思議な線の意味を覚えなければならない。


その先には。


魔力というものを感じる方法を知って。


それを扱う練習をして。


魔法についてもっと知って。


そして、魔法だけではなく動物のことも知らなければならない。


狼と話すという目的は。


思っていたより、ずっと遠いところにあった。


今日始めて。


明日にはできる。


そんなものではない。


けれど。


母親は炭を目の前へ置いた。


「やってみる?」


紙を見る。


そこには、たった一つ。


今まで何の意味も持たなかった形が書かれている。


これを覚える。


まずは、それから。


そっと炭へ手を伸ばした。


右手には、まだ包帯が巻かれている。


だから。


左手で炭を持つ。


「…………」


狼と話す方法は、まだ分からない。


魔法の使い方だって分からない。


今できることは。


まず、この一文字を覚えることだった。

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ここまで読んでいただき、ありがとうございます☺️ 少しでも「続きが気になる」「この子をもう少し見守ってみたい」と思っていただけましたら、ブックマークや評価で応援していただけると、とても嬉しいです。 皆さまからの応援を励みに、これからも小さな主人公の物語を大切に書いていきます。 次のお話も楽しんでいただけますように。
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