012 はじめて魔法を知った日
――はじめて魔法を知った日――
街道の向こうを見つめていた。
狼の脚には傷がある。
その傷は、誰かが置いた罠によるものかもしれない。
けれど、まだ何も分からない。
父親たちは夕方になれば町長たちと話をするという。
しばらく考えてから、隣にいる父親を見上げた。
そして。
きゅっ。
また、その服を握った。
「つぎは、ぼくもつれてって」
「……またか」
父親の顔が少し険しくなる。
つい先ほども、同じようなことを言ったばかりだ。
狼を探しに行く自分たちについていきたい、と。
そのときは当然、断られた。
けれど。
今度は、さっきとは少し違う考えがあった。
「こんどは、ちかづかない」
父親は何も言わなかった。
続きを待っている。
「オオカミさんにパンおいてく」
手にしていた、ハンカチに包まれたパンを見る。
「パンおいたら、バイバイしてかえる」
狼のところまで行って、触るのではない。
追いかけるのでもない。
パンだけを置く。
そして、自分は帰る。
さらに。
「いつか、オオカミさんからちかづいてくれるの、まつ」
「…………」
父親は、すぐには駄目だと言わなかった。
数日前。
狼を見つけると、自分から近づいた。
狼が唸っても。
牙を見せても。
その意味を知らず、手を伸ばした。
けれど今は。
狼が自分を怖がっていた可能性を知っている。
自分が仲良くしたいと思っているだけでは駄目だということも、少しずつ分かってきた。
だから近づかない。
食べ物だけを置いて離れる。
狼が来るかどうかは、狼に決めてもらう。
一度失敗したやり方を、そのまま繰り返すつもりはなかった。
父親にも、それは伝わったようだった。
「……考えたんだな」
父親を見る。
しかし。
「それでも連れてはいけない」
「……どうして?」
今度は、ただ駄目と言われただけでは納得できなかった。
近づかない。
触らない。
パンを置いたら帰る。
前に駄目だったところを変えたはずなのに。
父親は目の前にしゃがんだ。
「二つある」
そう言って、人差し指を立てる。
「まず、お前はまだ三つだ」
「みっつ」
「そうだ。狼がいるかもしれない場所へ連れていくには、小さすぎる」
「…………」
これは。
近づかないようにしても、どうにもならないことだった。
狼以外にも危険はある。
転ぶかもしれない。
何か別の獣がいるかもしれない。
突然、狼がこちらへ向かってくることだってある。
大人なら何とかできることでも、自分にはできないことがある。
父親は二本目の指を立てた。
「それから、パンのことだ」
首を傾げる。
「ちかづかないよ?」
「ああ。それは分かってる」
父親は、その考え方そのものを否定しなかった。
「一度だけなら、それで何か変わるかは父さんにも分からん」
そう言ってから続ける。
「でも、何度も置いたらどうなる?」
「…………」
「狼からしたら、そこに行けば食べ物が見つかるようになるだろ?」
どこかで聞いた話だった。
昨日。
母親から教えてもらった。
狼にご飯をあげれば。
『ここに来ればご飯がある』
そう覚えて、また町へ来るかもしれない。
「何度もやったら、人間の近くには食べ物があるって覚えるかもしれない」
手の中のパンを見る。
狼へ近づかない。
それは前よりもよくなった。
けれど。
一つ直せば、全部が大丈夫になるわけではないらしい。
「それにな」
父親もパンを見る。
「そのパンを狼に食わせていいのか、父さんは知らん」
「…………」
黙り込む。
知らない。
自分も知らない。
ロッカが食べようとしたから、犬はパンを食べるのだと思っていた。
けれど狼にも食べさせていいのか。
それは分からない。
知らないことが、また一つ増えた。
「ただ」
声を挟んだのは、弓を持った男だった。
「この子の考え方自体は悪くないぞ」
父親が振り向く。
「何がだ?」
「自分から近づかず、向こうに選ばせるってところだ」
男はこちらを見る。
「動物を相手にするときには、大事なことだ」
男を見る。
自分から近づかない。
相手が来るのを待つ。
それなら間違いではなかったらしい。
ただし。
「だから狼に会いに行っていい、って意味じゃないぞ」
すぐに付け加えられた。
少しだけ肩を落とした。
◇ ◇ ◇
それなら。
どうすればいいのだろう。
狼のところへ行ってはいけない。
何度も食べ物を置くのもいけない。
自分から近づいてはいけない。
でも。
狼が何を考えているのか知りたい。
本当に自分が怖かったのか。
脚は痛いのか。
お腹は空いているのか。
そして何より。
自分は傷つけようとして近づいたのではなかったと伝えたい。
しばらく考える。
「じゃあ……」
父親を見上げる。
「オオカミさんとは、ずっとおはなしできない?」
「話すって言ってもな……」
父親が困ったように頭を掻く。
「狼は人間の言葉を――」
そこで。
弓を持った男が、不意に黙った。
「…………」
父親が気づく。
「どうした?」
「いや……」
男は何かを思い出すように考えていた。
やがて、ゆっくり口を開く。
「人間の言葉で、は無理だろうけど……」
「?」
首を傾げる。
「獣語魔法なら別だ」
聞いたことのない言葉だった。
じゅうご。
そして。
魔法。
「まほう?」
その言葉だけは、聞いたことがあった。
この世界には、魔法がある。
火を灯すことができる。
傷を治せる者もいる。
戦いに使う者もいる。
けれど。
それはずっと、自分とは関係のないものだった。
父親も母親も魔法を使わない。
町にも、きちんと魔法を教えられる者はいない。
魔法があることは知っている。
でも。
どうやって使うのかは知らない。
「じゅうごまほう?」
「俺も使えんぞ」
男は先にそう断った。
「昔、町で使ってる奴を見たことがあるだけだ」
「オオカミさんと、おはなしできる?」
「人間同士みたいに話すのとは、ちょっと違う」
男は少し考えてから説明する。
「動物が怖がってるとか、嫌がってるとか。何かしてほしいとか。そういうのが、普通より分かりやすくなる魔法があるんだ」
「きもち?」
「ああ。それで、こっちがどうしたいのかも伝える」
「…………」
怖い。
嫌だ。
来るな。
こっちへ来て。
そんなことが分かるのだろうか。
あのとき。
狼が何を思っていたのかも。
「上手い奴なら、頭のいい動物とはもっといろいろ分かるらしいけどな。俺も詳しくは知らん」
男を見つめる。
「ぼくもできる?」
「今は無理だ」
即答だった。
「…………」
男は笑わなかった。
できないことを、できるとは言わない。
「まず、自分の魔力を感じられなきゃ話にならん」
「まりょく?」
「そこからか」
男は少し困ったように頭を掻いた。
「まあ、そうだよな」
魔力を感じる。
魔力を動かす。
魔法の使い方を覚える。
そして獣語魔法なら、魔法だけではなく動物のことも知らなければならない。
聞けば聞くほど、知らないことが増えていく。
ただ。
すぐにはできない。
それだけは分かった。
「どれくらい?」
男は首を振る。
「知らん。俺は魔法使いじゃないからな」
一日。
二日。
そんな短い話ではないらしい。
何度も練習して。
勉強して。
それでも使えるようになるまで、どれほどかかるのか分からない。
そもそも、自分にできるのかどうかさえ分からない。
けれど。
「…………」
獣語魔法。
もう一度。
その聞き慣れない言葉を、頭の中で繰り返す。
今まで。
魔法を使いたいと思ったことなどなかった。
火を出したいわけでもない。
誰かと戦いたいわけでもない。
強くなりたいわけでもない。
ただ。
あの狼と話してみたい。
怖かったのか聞いてみたい。
脚が痛いのか聞いてみたい。
そして。
自分は怖くないと、今度こそちゃんと伝えてみたい。
そのために魔法が必要なら。
「まほう……」
小さく呟いた。
それまで遠いものだった魔法が。
初めて。
自分にも関係のあるものになった。
◇ ◇ ◇
やがて父親たちは、それぞれの家や仕事へ戻っていった。
夕方には、町長たちと狼について話し合うことになっている。
狼をどうするのか。
脚の傷は本当に罠によるものなのか。
誰が罠を置いたのか。
まだ何も決まっていない。
自分にできることも、今はない。
けれど。
頭の中には、先ほど聞いた言葉が残り続けていた。
魔法。
魔力。
そして。
獣語魔法。
「…………」
魔法を覚えたら。
いつか。
あの狼が何を思っているのか、分かるのだろうか。
怖くないと、伝えられるのだろうか。
知りたい。
やってみたい。
そう思った。
けれど、この町には。
魔法をきちんと教えられる者はいなかった。




