011 狼の傷
――狼の傷――
街道の向こうから戻ってくる四人の姿を見つけた瞬間。
ロッカのことも、手に持っていたパンのことも、一旦頭から消えた。
「おとうさん!」
父親へ向かって駆け出す。
まだ右手には包帯が巻かれている。
転んでまた傷を開かないように――なんて、そこまで上手には考えられない。
それでも、怪我をしてから何度も「走るな」「転ぶな」と言われていたからか、いつもより少しだけ慎重な足取りになった。
父親もこちらに気づく。
「おっと、走るな。転ぶぞ」
言われて速度を落とし、その前までやってきた。
聞きたいことは一つだった。
「オオカミさん、いた?」
その言葉に。
父親たちの表情が、ほんの少し変わった。
父親が答える。
「……いたぞ」
「いた!」
ぱっと顔が明るくなる。
「あのオオカミさん?」
「たぶんな」
父親は、そう答えるだけに留めた。
同じ狼のようには見えても、はっきりそうだとは言い切れないらしい。
「お前が会った狼と同じくらいの大きさだった。毛の色も同じだった。それに――」
そこで、隣にいた近所のおじさんが言った。
「右の後ろ脚を怪我してた」
「けが?」
「ああ」
瞬きをする。
父親がその場にしゃがみ、目線を合わせた。
「だから、痩せてたのかもしれない」
「…………」
父親の言葉を聞きながら、自分の右手を見る。
包帯が巻かれている。
怪我をしていると、いろいろなことができなくなる。
今だって右手は自由に使えない。
遊ぶときにも困る。
物を持つときにも困る。
狼は、脚を怪我していた。
走るための脚を。
脚が痛ければ、きっと走りにくい。
走りにくければ、食べ物を見つけるのも大変なのかもしれない。
だから、あんなに細かったのだろうか。
「でも、本当にそれが理由かは分からないぞ」
父親はそう付け加えた。
脚を怪我していた。
身体も痩せていた。
二つはつながっているように思える。
けれど。
そう見えることと、本当にそうだったことは同じではない。
それはさっき、ロッカの飼い主からも教わったばかりだった。
父親たちは、森の手前まで調べてきたらしい。
地面に残っていた足跡。
草が倒れている場所。
獣が通ったらしい跡。
そうしたものを見ながら、周辺を調べたという。
そこで確認できた狼らしい足跡は、ほとんど一匹分だけだった。
少なくとも、何匹もの狼がまとまって町の近くまで来ているような跡は見つからなかったらしい。
そして。
実際に狼そのものも見つけた。
四人の姿に気づいた狼は、近づいてはこなかった。
離れたところから大人たちを警戒していた。
こちらが近づけば、距離を取る。
さらに近づこうとすると、逃げていった。
襲ってくる様子はなかったという。
「じゃあ……」
もう一度、自分の右手を見る。
自分は手を怪我している。
狼は脚を怪我している。
あの日。
狼は自分を見ていた。
近づくと唸った。
牙を見せた。
それでも近づいたから、飛びかかってきた。
けれど、自分をどこかへ引っ張っていこうとはしなかった。
そして大人が来ると逃げた。
父親が言った。
「お前が言ってたこと、当たってたかもしれないな」
顔を上げる。
「ぼくがこわかった?」
「怪我して弱ってるところに人間が近づいてきたから、怖がった可能性はある」
隣で近所のおじさんも頷いた。
「あのときも、坊主が近づくまでは襲ってこなかったからな」
あの日のことを思い出すように続ける。
「噛みついたあとも、お前を引きずっていこうとはしなかった。俺たちが近づいたら逃げた」
「…………」
やっぱり。
あの狼は、自分を食べようとしたのではなかったのかもしれない。
自分が怖かった。
だから「来るな」と言った。
それでも自分が近づいたから――。
「でもな」
父親の手が肩に置かれた。
「だからって、近づいていいわけじゃないぞ」
父親の表情は真剣だった。
「怖がってる動物ほど、近づいてきた相手を攻撃することがある」
「こわいのに?」
少し不思議だった。
怖ければ逃げる。
自分なら、そうするかもしれない。
なのに。
怖いから攻撃する。
父親は頷く。
「逃げられないって思ったらな」
逃げられない。
そう思ったら、逃げる代わりに向かってくることもあるらしい。
怖くないから攻撃するとは限らない。
怖いから攻撃することもある。
全部はまだ分からない。
けれど。
怖いときにすることは、「逃げる」だけではない。
それは覚えた。
◇ ◇ ◇
四人が持ち帰った荷物を見る。
出かけたときと、大きく変わっていない。
鉈。
短槍。
弓。
縄。
そこに狼はいなかった。
捕まえてきたわけではない。
もちろん、仕留めて持ち帰ったわけでもなかった。
「オオカミさん、どうするの?」
「うーん……」
父親が少し困ったような顔をした。
どうやら、説明に困っているだけではないらしい。
大人たちも、まだどうするのか決めていないようだった。
今のところ、町で家畜が襲われたという話はない。
人が怪我をしたのは一度だけ。
自分の右手だ。
しかも、狼が町へ入ってきて突然襲ったわけではない。
自分から近づいた。
狼はその前に唸り、牙を見せていた。
それでも近づき続けた結果だった。
だからといって、このままでいいのかは分からない。
狼は痩せている。
脚も怪我している。
このまま食べ物を見つけられなければ、また町の近くまで来るかもしれない。
家畜を襲うかもしれない。
だからといって食べ物をあげれば、今度は町の近くへ来れば食べ物があると覚えるかもしれない。
なら、捕まえて怪我を治せばいい。
そう思っても、それも簡単ではないらしい。
傷ついた野生の狼を安全に捕まえ、治療できる者は、この町にはいなかった。
「夕方に、町長たちと相談する」
父親はそう答えた。
「…………」
お腹が空いているなら、ご飯をあげたい。
怪我をしているなら、治してあげたい。
それだけなら、とても簡単に思える。
けれど。
助けようとしたことで、別の誰かが危なくなることもある。
助けたくても、その方法がないこともある。
大人でも、すぐには決められないことがあるらしい。
その横で。
弓を持った男が、何かを考えるように腕を組んでいた。
「……ただ、あの後ろ脚の傷は気になるな」
父親が男を見る。
つられて顔を上げた。
「なにかわかったの?」
男はこちらを見る。
「いや。遠くからしか見てないから、はっきりとは分からん」
狼は警戒していた。
怪我を詳しく確認できるほど近づけば、逃げる。
無理に追えば、今度はこちらを襲うかもしれない。
だから四人も、離れた場所から見ることしかできなかった。
「ただ――」
男の表情が少し険しくなる。
「自然にできた傷には見えなかった」
父親も眉をひそめた。
「俺もそう思った」
「…………?」
意味が分からない。
自然にできる怪我。
自然にできない怪我。
何が違うのだろう。
弓を持った男は、少し考えてから口を開いた。
「もしかしたら、あの狼――」
わずかに間を置く。
「誰かが置いた罠にかかったのかもしれない」
「わな?」
また一つ。
知らない言葉が出てきた。
狼がどうして一匹でいたのか。
どうして脚を怪我しているのか。
どうしてあれほど痩せていたのか。
まだ、本当のことは何も分かっていない。
最初に気づいたのは、たった一つ。
――あの狼は、細い。
それだけだった。
けれど今は。
狼が怪我をしていることを知った。
その怪我が、どうしてできたのかは分からない。
「…………」
包帯の巻かれた自分の右手を見る。
それから。
父親たちが戻ってきた街道の、そのさらに向こうへ目を向けた。




