010 こわかったのは、どっち?
――こわかったのは、どっち?――
父親たちを見送ったあとも、しばらくその場に立っていた。
頭の中には、父親から言われたことが残っている。
――お前が狼を傷つけるつもりがなくても、狼にはそれが分からない。
包帯の巻かれた右手を見る。
「…………」
まだ傷は完全には治っていない。
触れれば痛む。
狼の牙が当たった瞬間のことも覚えている。
突然だった。
怖かった。
痛かった。
血も出た。
けれど――。
少し考える。
あの狼は、大きかった。
自分よりずっと大きくて、鋭い牙も持っていた。
もし。
もし本当に――。
あの狼が自分を食べようとしていたのなら。
「…………」
もう一度、右手を見る。
これだけで終わったのだろうか。
「威嚇」なんて言葉は知らない。
相手を追い払うための攻撃と、獲物を仕留めるための攻撃が違うことも知らない。
ただ、自分に起きたことなら覚えている。
狼は最初から襲ってきたわけではなかった。
こちらを見ていた。
自分が近づいた。
狼は身体を低くした。
唸った。
牙を見せた。
それでも近づいたあとで、初めて飛び出してきた。
そして。
右手を傷つけたあと、追いかけてはこなかった。
父親から教わった。
あの唸り声は――。
『来るな』
という意味だったかもしれない。
なら。
「あのオオカミさん……」
ぽつりと呟く。
「ぼくが、こわかったのかも」
正しいのかは分からない。
確かめることもできない。
けれど、それまで別々だったことが、少しだけつながった。
自分は狼を怖がらせるつもりなんてなかった。
でも、狼には分からなかった。
だから。
怖くて「来るな」と言った。
それでも近づいたから、追い払おうとした。
――のかもしれない。
「…………」
そう考えると、ますます伝えたくなった。
自分は怖くない。
傷つけたりしない。
そして、お腹が空いているなら、ご飯も分けてあげたい。
けれど。
自分で狼のところへ行ってはいけない。
それも、もう知っている。
少し考える。
やがて、あることを思いつき、家へ戻っていった。
◇ ◇ ◇
手に持ってきたのは、朝食でもらったパンの残りだった。
それから、自分のハンカチ。
二つを持って、家の外へ出る。
向かった先には、あの茶色い犬がいた。
数日前までなら、そのまま近づいて手を伸ばしていただろう。
けれど、今日は違った。
少し手前で止まる。
そして犬の様子を見る。
唸っていない。
牙も見せていない。
身体を低くしているわけでもない。
それを確かめてから、犬の前にしゃがんだ。
「いぬさん」
犬が顔を上げる。
「これ、オオカミさんにとどけて」
「…………」
茶色い犬がこちらを見る。
ハンカチを広げ、その中にパンを置いた。
包む。
いつも使っているハンカチだ。
自分の匂いがついている。
これなら。
狼に届けば、自分からだと分かってくれるかもしれない。
そう考えた。
「オオカミさんに、あげて」
犬の前へ差し出す。
すると。
犬が立ち上がった。
「…………!」
少し目を見開く。
伝わったのだろうか。
犬が鼻先を近づける。
くん。
くんくん。
ハンカチの匂いを嗅いでいる。
そして――。
そのままパンへ口を伸ばした。
「あっ」
慌てて手を引っ込める。
犬の口が空を切った。
「だめ。これはオオカミさんの」
当然、犬には分からない。
この犬は、荷物を運ぶための訓練など受けていない。
ましてや。
数日前に草原へ現れた特定の狼を探し出し、そこまでパンを届ける。
そんなことができるはずもなかった。
犬にとっては。
目の前に、おいしそうな匂いのするパンがある。
ただ、それだけだった。
「何してるんだ?」
突然、声をかけられた。
振り返る。
そこにいたのは、この犬の飼い主だった。
町で粉挽きをしている男だ。
男は手に持っているパンと、犬を交互に見る。
「このパン、オオカミさんに……」
「狼に?」
こくんと頷く。
そして少し考えてから、思いついたことも話した。
「あのオオカミさん、ぼくがこわかったんだとおもう」
男の視線が、包帯の巻かれた右手へ落ちた。
さっきまでの軽い表情が、少しだけ真面目になる。
「……どうしてそう思った?」
自分の右手を見る。
うまく説明できる言葉を探す。
「ほんきだったら……」
少し考えて。
「これだけじゃなかったとおもう」
男は黙った。
言葉は拙い。
けれど、何を言いたいのかは伝わったようだった。
狼が本気で襲おうとしていたのなら。
あれだけ大きな身体と牙があったのだから、右手の傷だけでは済まなかったのではないか。
だから。
食べようとしたのではなく、近づいてきた自分を追い払おうとしたのではないか。
「なるほどな」
男は頷いた。
けれど。
「そうだったかもしれない」
そこで言葉を区切る。
「でも、本当のところは狼にしか分からん」
「…………」
男を見る。
違うのだろうか。
「お前の考えが間違ってるって意味じゃないぞ。ただ、本当にそうだったかは分からないってことだ」
男は茶色い犬を指した。
「こいつだって同じだ」
犬はまだパンを見ている。
「尻尾を振ってるから絶対に噛まない――なんて決めつけちゃいけない」
犬を見る。
動物の気持ちは、その動きを見れば少し分かる。
けれど。
全部分かるわけではないらしい。
「それとな」
男は手元を見る。
「こいつに狼までパンを届けてもらうのは無理だ」
「できない?」
「ああ。教えてないからな」
「…………」
それが少し不思議だった。
犬なのだから、匂いを嗅げば狼を探せるのではないか。
ハンカチに自分の匂いもつけた。
あとは持っていってもらえばいい。
そう思っていた。
けれど。
犬だからできるわけではない。
できるようになるには、教えなければならない。
男はハンカチを見る。
「でも……匂いを使おうと思ったのは面白いな」
「におい?」
「ああ。犬は人間よりずっと鼻が利くんだ」
男は自分の鼻を指差した。
「人間じゃ分からないような匂いも分かる。それを使って、匂いを追わせるように教えることもできる」
犬を見る。
そんなことができるとは知らなかった。
すると男が犬へ声をかけた。
「ロッカ」
ぴくり。
茶色い犬がすぐに飼い主を見る。
「…………」
つられて犬を見る。
ロッカ。
それが、この犬の名前らしい。
「座れ」
男が言った。
すると。
ストン。
ロッカがその場に座った。
「…………!」
思わず目を丸くする。
言葉を聞いた。
そして座った。
偶然ではない。
飼い主が言ったから、座ったのだ。
「すごい」
男が笑う。
「最初からできたんじゃないぞ」
「さいしょから?」
「ああ。何度も教えたんだ」
「なんども?」
「そうだ」
一回言えば覚えるわけではない。
何度も。
何度も。
同じことを教える。
そうして初めて、犬は人間が何をしてほしいのか覚えていく。
男はロッカの頭を軽く撫でた。
「動物に何かしてほしいなら、まず人間の方が動物のことを知らないとな」
その言葉を聞きながら、ロッカを見る。
狼と仲良くしたい。
怖くないと伝えたい。
ご飯を届けたい。
自分がしたいことばかり考えていた。
けれど。
そのためにはまず、相手のことを知らなければならないらしい。
狼だけではない。
犬のことだって、ほとんど知らない。
名前を呼べばこちらを見ること。
教えれば「座れ」ができるようになること。
鼻が人間よりずっと利くこと。
どれも、今日初めて知った。
知らないことが、まだたくさんある。
◇ ◇ ◇
粉挽き職人は仕事へ戻ろうとして、ふと足を止めた。
「そんなに興味があるなら」
こちらを見る。
「母ちゃんがいいって言った日に、ロッカの世話を手伝ってみるか?」
「おせわ?」
「ああ。まずは飯をやったり、水を替えたりな」
男は笑う。
「俺と一緒なら、毛を梳かすのもやらせてやる」
ロッカを見る。
いきなり難しいことを教えるわけではない。
まして狼を探させるわけでもない。
まずは、ご飯。
水。
そして飼い主と一緒に身体に触れる。
動物のことを知るところから始める。
初めて、そんなことを教えてもらえることになった。
そのときだった。
男がふと街道の方を見る。
「……ん?」
つられて振り返る。
遠くに人影があった。
一人。
二人。
三人。
四人。
朝、町を出ていった男たちだった。
その中には父親もいる。
「…………?」
まだ、それほど時間は経っていない。
もっと長く調べてくるものだと思っていた。
けれど四人は、もう戻ってきている。
しかも。
ただ歩いているのではない。
何かを話しながら、急ぎ足で町へ向かっていた。
笑っているようには見えなかった。
父親が何かを言う。
弓を持った男が答える。
あの日助けてくれた近所のおじさんも、時折後ろを振り返っている。
まだ何を話しているのか聞こえない。
ただ――。
予定よりずっと早く帰ってきた。
そのことだけは分かる。
粉挽き職人も仕事へ戻るのをやめ、四人の姿を見ていた。
「……何かあったか」
その呟きに。
ハンカチに包んだままのパンを、きゅっと握る。
狼のところへ行った父親たちが帰ってきた。
どうして、こんなに早く戻ってきたのだろう。
「…………」
遠くから近づいてくる父親たちを、じっと見つめていた。




