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ちいさなぼくのまもるもの  作者: 星乃いりす


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009 やさしいだけでは伝わらない

――やさしいだけでは伝わらない――


父親が靴を履き終え、立ち上がる。


外では三人の男たちが待っていた。


これから狼が現れた草原と、その周辺を調べに行くのだ。


父親が玄関を出ようとした、そのとき。


きゅっ。


服の裾が、小さく引っ張られた。


「ん?」


父親が振り返る。


その服の裾を、小さな手が掴んでいた。


「あのね」


父親を見上げる。


「ぼくも、いっしょにいきたい」


「…………」


父親の眉がわずかに動いた。


「あのオオカミさんに、ごはんあげる」


そう言って、包帯の巻かれた右手を見せた。


数日前、狼に傷つけられた手。


まだ完全には治っていない。


「ぼくはあぶなくないよって、つたえたい」


「…………」


父親はすぐには答えなかった。


ただ駄目だと言うのではなく、何を考えているのか理解しようとしているようだった。


やがて、その場にしゃがむ。


父と子の視線の高さが近くなった。


「あの狼に、怖がらなくていいって教えてやりたいのか?」


こくん。


頷く。


「だから、ご飯をあげたい?」


もう一度。


こくん。


父親は少し考えた。


そして。


「気持ちは分かった。でも、一緒には連れていけない」


答えは変わらなかった。


どれだけ行きたがっても、今日は連れていかない。


これから向かうのは、狼が現れた場所だ。


同じ狼がまだいるかもしれない。


別の狼がいるかもしれない。


そもそも何が起きているのか、それを調べるために大人たちは武器まで持って出かけようとしている。


そんな場所へ、三歳になったばかりの我が子を連れていくことはできなかった。


父親は包帯の巻かれた右手を指した。


「お前が狼を傷つけるつもりがなくても、狼にはそれが分からない」


「…………?」


「この前だってそうだろ?」


右手を見る。


「あの狼は、お前が撫でようとしてるなんて知らなかった」


父親は、できるだけ簡単な言葉を選んで話す。


「お前は『いい子だから撫でてあげよう』って思ってた。でも狼から見たら、どうだったと思う?」


「…………」


分からない。


黙ったまま父親を見る。


「『人間が近づいてきた』としか思わなかったかもしれない」


少し考える。


狼を傷つけるつもりなんてなかった。


怖がらせるつもりもなかった。


ただ撫でたかった。


優しく触ろうとしていただけだ。


でも。


狼は唸った。


『ウゥゥ……』


――来るな。


今なら、あの声の意味を知っている。


それでも近づいた。


だから狼は、自分を傷つけた。


何をするつもりだったのか。


狼には分からなかった。


「それにな」


父親が続ける。


「ご飯を持っていけば安全になるとも限らない」


「……?」


「お腹が空いてる動物の近くに食べ物を持っていったら、もっと欲しがって飛びついてくることだってある」


「…………」


昨日、母親からも教えられた。


ご飯をあげれば助けられる。


けれど、それだけでは終わらないことがある。


食べ物を覚えて、また町へ来るかもしれない。


そして今度は父親から、ご飯を持っていることそのものが危なくなる場合もあると教えられた。


思っていたよりも、動物にご飯をあげるということは簡単ではないらしい。


「だから今日は、大人が調べてくる」


父親の大きな手が、ぽん、と頭に乗った。


「帰ってきたら、狼がどうしてたか教えてやる。それじゃダメか?」


父親を見つめる。


これは、行ってもいいかどうかを相談しているわけではない。


嫌だと言っても。


泣いて頼んでも。


今日、一緒についていくことはできない。


それだけは、父親の声から何となく分かった。


そのやり取りを、外で待っていた男の一人が聞いていた。


弓を持った男だった。


「しかし、この子……」


男が少し面白そうにこちらを見る。


「狼と仲良くしたいのか?」


父親が立ち上がる。


「そうらしい」


「噛まれたのにな」


男はこちらを見る。


こちらも見返す。


「坊主。野生の狼と仲良くなるのは簡単じゃないぞ」


「やせい……?」


聞き慣れない言葉だった。


男は少し考える。


どう説明すれば分かるのか、迷ったのだろう。


やがて、町の中へ視線を向けた。


「あれ見てみろ」


少し離れた場所。


以前から何度か見かけている茶色い犬が、今日も地面に寝そべっていた。


「犬と狼は似てるけど、違うんだ」


犬を見る。


それから、数日前に見た狼を思い出す。


確かに似ていた。


だから自分も、狼を大きな犬のように思った。


「犬はな、ずっと昔から人間と一緒に暮らしてきたんだ」


男は続ける。


「でも狼は、人間と一緒に暮らす動物じゃない」


「…………」


すべてを理解するには、まだ難しい。


けれど。


犬と狼は似ている。


でも同じではない。


それくらいなら覚えられる。


男は茶色い犬を指差した。


「あいつなら、飼い主に頼んで触らせてもらうところから勉強できるけどな」


もう一度、犬を見る。


その瞬間。


父親が嫌そうな顔で男を見た。


「余計なこと教えるな。また何か始めるぞ」


「ははは」


男が笑う。


けれど、こちらは笑っていなかった。


じっと犬を見ていた。


動物には、触られたくないときがある。


唸っていたら近づいてはいけない。


牙を見せているときも。


身体を低くしているときも。


そして。


自分が「怖くないよ」と思っていても、それだけでは相手には伝わらない。


なら――。


どうすれば伝わるのだろう。


どうすれば、触ってもいいのか分かるのだろう。


どうすれば、動物を怖がらせずに近づけるのだろう。


「…………」


また一つ、知らないことが増えた。


          ◇ ◇ ◇


やがて、四人の男たちは町を出ていった。


父親。


あの日助けてくれた近所のおじさん。


弓を持った男。


そして、もう一人。


その姿が遠ざかっていく。


追いかけなかった。


今日は大きな木より向こうへ行ってはいけない。


それに父親から、連れていけないとはっきり言われた。


だから。


家の前から、その背中を見送った。


「…………」


父親たちの姿が見えなくなる。


しばらく、その方向を見つめていた。


狼はどうしているのだろう。


本当にお腹が空いていたのだろうか。


父親が帰ってきたら教えてくれる。


それまで待つしかない。


ふと。


別の方向を見る。


茶色い犬がいた。


今日も同じ場所にいる。


地面に身体を横たえ、のんびりと休んでいた。


この犬は、町の粉挽き職人が飼っている。


名前はまだ知らない。


少し離れたところでは、その飼い主が仕事をしていた。


こちらが見ていることに気づいたのか、犬がゆっくり顔を上げる。


目が合った。


「…………」


立ち止まったまま、犬を見る。


犬は唸らない。


牙も見せない。


身体を低く構えることもしない。


けれど。


だから触ってもいい――とは、まだ教わっていない。


数日前なら、きっとそのまま近づいていただろう。


いい子。


そう言いながら手を伸ばしていたかもしれない。


でも今は違った。


包帯の巻かれた右手がある。


狼から教わった痛みがある。


父親と母親から教わったことがある。


そして、さっき聞いたばかりの言葉もある。


――飼い主に頼んで、触らせてもらう。


犬を見る。


それから、その飼い主を見る。


動物と仲良くしたい。


その気持ちは、狼に傷つけられたあとも変わらなかった。


けれど。


自分が仲良くしたいと思うだけでは足りない。


相手がどう思っているのかも、知らなければいけない。


「…………」


まだ、それをうまく言葉にはできない。


ただ静かに。


茶色い犬を見つめていた。

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ここまで読んでいただき、ありがとうございます☺️ 少しでも「続きが気になる」「この子をもう少し見守ってみたい」と思っていただけましたら、ブックマークや評価で応援していただけると、とても嬉しいです。 皆さまからの応援を励みに、これからも小さな主人公の物語を大切に書いていきます。 次のお話も楽しんでいただけますように。
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