第六話:チェックアウトできない客
第一部の出来事から、しばらく経ったある夜のことだった。
深夜三時を過ぎた頃、フロントの前に、一人の老婦人が、所在なさげに立っていた。既にチェックアウトの手続きを済ませているはずの客だったが、なぜか、ロビーから動こうとしない。
「お客様、何か、お忘れ物でしょうか」
灯が声をかけると、老婦人は、はっとしたように顔を上げた。
「いえ……その、少し、タクシーを待っているだけなんです」
「かしこまりました。よろしければ、こちらのソファで、お待ちください」
老婦人は、礼を言いながらも、どこか落ち着かない様子で、ロビーの時計を、何度も見つめていた。灯は、それとなく様子を伺いながら、桐生に小声で相談した。
「桐生さん、あちらのお客様、様子が気になりませんか」
「ああ。実は、俺も気づいていた」
桐生は、静かに頷きながら続けた。
「あの方、確か、今日でホテルのご利用が、最後になるはずだ」
「最後、というと」
「長年、月に一度、このホテルを利用されてきた常連の方でな。今日、ご家族から、施設に入所される旨のご連絡があったと聞いている」
その説明に、灯は、老婦人の様子に、合点がいった。単なるタクシー待ちにしては、あまりにも、名残惜しそうな視線を、ロビーのあちこちに向けている。
「少し、お話を伺ってきます」
灯は、温かいお茶を用意すると、老婦人の元へと向かった。
「お待たせして申し訳ありません。よろしければ、こちら、温かいお茶です」
「あら、ご丁寧に。ありがとう」
老婦人は、嬉しそうにお茶を受け取ると、ふと、ロビーの装飾を見上げた。
「このホテル、随分と長く、お世話になりました」
「そうなんですか」
「ええ。夫が生きていた頃から、毎月、ここで食事をするのが、私たちの習慣でしてね。夫が亡くなってからも、その習慣だけは、続けていたんです」
老婦人は、懐かしそうに目を細めた。
「今日で、最後になります。来月から、施設で暮らすことになりましたので」
「そうでしたか……寂しくなりますね」
「ええ、正直なところ。でも」
老婦人は、静かに微笑んだ。
「歳には勝てませんからね。娘にも、随分と心配をかけてしまいましたし、そろそろ、潮時だと思っています」
灯は、老婦人の言葉に、静かに耳を傾けながら、ふと、一つの提案を思いついた。
「あの、もしよろしければ、なのですが」
「なんでしょう」
「最後に、このロビーの写真を、お撮りしましょうか。思い出として、お持ち帰りいただけたらと思いまして」
老婦人は、驚いたように目を見開いた後、嬉しそうに頷いた。
「まあ、それは、素敵な提案ね。お願いできますか」
灯は、フロントのカメラを借りると、老婦人と、ロビーの装飾――老婦人が特に気に入っているという、大きなシャンデリアを背景に、丁寧に写真を撮った。
「ありがとう、結城さん、でしたっけ」
「はい」
「あなたのような、気の利く方がいてくれて、このホテルも、安泰ですね」
その言葉に、灯は、少し照れくさそうに笑った。
しばらくして、タクシーが到着し、老婦人は、名残惜しそうにしながらも、席を立った。
「本当に、長い間、お世話になりました」
「こちらこそ、たくさんの素敵な思い出を、ありがとうございました。どうか、お元気で」
老婦人が去った後、桐生が、静かに口を開いた。
「良い見送り方だったな」
「差し出がましかったでしょうか」
「いや。踏み込みすぎず、見過ごさない――今回は、特に、良い塩梅だった」
その評価に、灯は、静かに頷いた。
ホテル・ノクターンには、今夜も、様々な事情を抱えた人々が訪れる。出会いもあれば、こうした、静かな別れもある。その一つ一つに、丁寧に向き合っていくことこそが、灯にとっての、夜間コンシェルジュという仕事の、本当の意味なのかもしれなかった。
窓の外、夜明けの空が、今日も静かに、白み始めていた。
(つづく)




