第四話:無言のクレーム
ある晩、フロントに、一本の内線が入った。相手は、三階に宿泊している中年の男性客だった。
「隣の部屋が、うるさくて眠れない。何とかしてくれ」
苛立った声に、灯は、すぐさま該当の部屋を確認した。だが、記録を見る限り、隣室に宿泊している客からは、これまで一切の苦情も、不審な様子も報告されていない。
「かしこまりました。至急、確認いたします」
内線を切った後、灯は、桐生に事情を伝えた。
「隣室は、確か……」
「二週間前から、長期でご宿泊されている、若い女性のお客様ですね」
長期滞在の客というのは、深夜のホテルでは珍しい。灯は、記録を辿りながら、その女性客について、これまでの様子を思い返した。チェックインの時から、ずっと俯きがちで、必要最低限の会話しか交わしたことがなかった。
「一応、様子を見に行きましょう」
灯は、桐生と共に、三階へと向かった。問題の部屋の前に立つと、確かに、中から、微かな物音が聞こえてくる。だが、それは、苦情にあったような、騒音というほどのものではなかった。
小さく、規則的な物音――まるで、何かを、繰り返し繰り返し、叩きつけているような。
「……失礼いたします」
灯が控えめにノックすると、しばらくして、扉がゆっくりと開いた。現れたのは、青白い顔をした、あの長期滞在の女性だった。目の下には、濃い隈が浮かんでいる。
「すみません、隣のお部屋から、物音についてご連絡がありまして」
「……ああ、すみません。うるさかったですよね」
女性は、力なく謝りながら、視線を落とした。灯は、部屋の中を、それとなく見渡した。テーブルの上には、何冊もの参考書と、大量のメモ用紙が、乱雑に積み上げられている。
「もしや、資格試験か何かの、勉強をされていますか」
「……はい。国家資格の、試験があって。もう、後がないんです」
女性は、疲れきった声で続けた。
「何度も落ちていて。今度こそ受からないと、実家に帰らされてしまうので」
その口ぶりから、切実な事情が滲み出ていた。灯は、先ほどの物音の正体を、なんとなく察した。
「先ほどの物音は、もしや」
「机に、頭を打ち付けていました。覚えられないことに、苛立ってしまって……本当に、すみません」
自らを追い詰めるような様子に、灯は、思わず心配になった。
「東條様……ではなく、失礼、お客様。少し、休憩なさってはいかがでしょうか。今、温かいお茶をお持ちいたします」
「お気遣いなく。時間が、惜しいので」
「時間が惜しいからこそ、少しの休憩が、後々効いてくることもあります」
灯の言葉に、女性は、少し驚いたような表情を見せた。
数分後、灯は、温かいハーブティーを手に、再び部屋を訪れた。
「よろしければ、少しだけ、お話し相手になります。息抜きも、必要かと思いますので」
女性は、しばらく躊躇っていたが、やがて、小さく椅子を勧めてくれた。
「実は……この試験、もう三回目の挑戦なんです。周りは、とっくに次のステップに進んでいるのに、私だけ、ずっとここで足踏みしていて」
「焦る気持ち、分かる気がします」
「分かりますか」
「私も、就職活動の時、思うようにいかず、随分と落ち込んだ時期がありました」
灯の言葉に、女性は、少しだけ表情を和らげた。
「結局、何が転機になったんですか」
「……誰かに、話を聞いてもらったことです。一人で抱え込んでいる時は、悪いことばかり考えてしまって、視野が狭くなっていたんだと、後になって気づきました」
その言葉に、女性は、しばらく黙り込んだ後、ぽつりと呟いた。
「今、まさに、それだったのかもしれません。誰にも相談できず、一人で、ずっと机に向かっていて」
「もしよろしければ、これからも、勉強の息抜きに、フロントにいらしてください。話し相手くらいには、なれると思いますので」
「……ありがとうございます」
その夜以来、女性は、時折、深夜のフロントに顔を出しては、灯と他愛のない会話を交わすようになった。物音の苦情は、それきり届かなくなった。
数週間後、女性は、晴れやかな表情で、灯の元を訪れた。
「結城さん、試験、無事に合格しました」
「おめでとうございます!」
「結城さんに、話を聞いてもらえたおかげです。本当に、ありがとうございました」
深々と頭を下げる女性を見送りながら、灯は、静かな達成感を噛み締めていた。ただの騒音クレームの裏に隠れていた、切実な事情。それに気づき、寄り添えたことが、何よりの喜びだった。




