第三話:常連客の沈黙
ホテル・ノクターンには、月に一度、決まって深夜に訪れる常連客がいた。初老の紳士で、名を東條という。いつも一人で、静かにバーカウンターで一杯だけ酒を飲み、そのまま部屋に戻っていく。
「東條様、いつもの、お願いします」
灯が声をかけると、東條は、いつものように、静かに頷くだけだった。多くを語らない客だったが、その物腰には、どこか品のある寂しさが漂っていた。
「今夜も、お一人ですか」
何気ない灯の問いに、東條は、珍しく、少しだけ表情を緩めた。
「ああ。もっとも、今夜で、この習慣も終わりになりそうだが」
「終わり、と仰いますと」
東條は、グラスの中の酒を、静かに揺らしながら、ぽつりと語り始めた。
「このホテルには、亡くなった妻と、よく訪れていてね。月命日の度に、こうして立ち寄って、当時を偲んでいたんだが……そろそろ、区切りをつけようと思ってな」
その言葉に、灯は、胸を突かれる思いがした。
「区切り、というのは」
「息子が、結婚することになってな。新しい家族を、ちゃんと迎え入れるためにも、いつまでも、過去に囚われているわけにはいかない、と思ったんだ」
東條は、グラスを飲み干すと、静かに立ち上がった。
「今夜が、最後の月命日参りだ。長年、付き合ってくれて、ありがとう」
「……こちらこそ、貴重なお話を、ありがとうございました」
灯は、深く頭を下げながら、ふと、思いついたことを口にした。
「東條様。もし、よろしければ、ですが」
「なんだね」
「最後に、奥様との思い出の品を、何か一つだけ、私にお聞かせいただけませんか。お聞きするだけで恐縮ですが、記憶に留めておきたく思いまして」
東條は、意外そうな顔をした後、懐かしそうに目を細めた。
「そうだな……このホテルのバーで、初めて二人で飲んだ夜、妻が、随分と酔っ払っていてね。ここのカクテル、名前がなんだったか……」
「もしや、当店オリジナルの、"ノクターン・スター"でしょうか」
「そうだ、それだ。星空みたいな色をした、あのカクテルだ」
灯は、微笑みながら、バーテンダーに合図を送った。
「では、最後に、奥様との思い出に、もう一杯だけ、いかがですか。本日は、当店からのサービスとさせていただきます」
東條は、しばらく驚いたように灯を見つめていたが、やがて、静かに頷いた。
「……ありがとう。いただこう」
星空を思わせる深い青色のカクテルを前に、東條は、静かに目を閉じた。
「妻も、きっと、喜んでいるはずだ」
「これからも、時々、思い出話をしに、いらしてください。月命日でなくても」
その言葉に、東條は、初めて、はっきりとした笑みを浮かべた。
「ああ、そうさせてもらうよ」
東條が帰った後、桐生が、静かに口を開いた。
「結城さん、良い提案だったな」
「差し出がましかったでしょうか」
「いや。踏み込みすぎず、見過ごさない――今のは、その、ちょうどいい塩梅だった」
その言葉に、灯は、少し誇らしい気持ちで、フロントの窓の外を見つめた。
夜明け前の空が、少しずつ、白み始めていた。今夜もまた、一つの物語が、静かに幕を閉じた。深夜のホテルには、今日も、様々な事情を抱えた人々が訪れる。そのすべてに、丁寧に寄り添っていくことこそが、灯にとっての、この仕事の醍醐味になっていた。




