第二話:忘れ物のスーツケース
数日後の深夜、フロントに、慌てた様子の若い女性が駆け込んできた。
「すみません、忘れ物をしてしまって! 昨日、こちらに宿泊していたはずなんですが」
「かしこまりました。お名前とお部屋番号を、お伺いできますでしょうか」
女性は、緊張した面持ちで、名前と部屋番号を告げた。灯は、忘れ物管理台帳を確認しながら、該当する部屋の清掃記録に目を通す。
「……申し訳ございません。お客様の仰る品物は、清掃時に見つかっていないようです」
「そんな! 大事な書類が入ったスーツケースなんです、絶対にあの部屋に置いてきたはずで」
女性の声には、隠しきれない焦りが滲んでいた。灯は、記録をもう一度確認しながら、慎重に尋ねた。
「差し支えなければ、その書類について、詳しくお伺いしても?」
「……就職activities関連の、大事な書類なんです。明日の面接に、どうしても必要で」
その言葉に、灯は、記憶を辿った。確か、昨夜の清掃担当は、桐生だったはずだ。
「少々、お待ちください」
内線で桐生を呼び出すと、彼はすぐにフロントへとやってきた。事情を説明すると、桐生は、何かを思い出したように、目を細めた。
「もしや、黒い、小さめのキャリーケースではないですか」
「はい、そうです!」
「それでしたら」
桐生は、フロント奥の保管庫から、該当する荷物を取り出してきた。
「実は、清掃時に、クローゼットの奥に紛れ込んでいたのを見つけましてね。お客様の忘れ物とは思わず、前泊のお客様のものかと勘違いして、別の場所に保管してしまっていました」
「あ、ありがとうございます、本当に!」
安堵の表情を浮かべる女性に、灯は、ふと気になったことを尋ねた。
「差し支えなければ、なぜ、そんなに慌てて取りに来られたのか、伺っても? もう少し早い時間でも、対応できたはずですが」
女性は、少し恥ずかしそうに、俯いた。
「実は……今日の面接、緊張しすぎて、書類を忘れたことに、深夜まで気づかなかったんです。気づいてから、いても立ってもいられなくて」
その言葉に、灯は、思わず共感の笑みを浮かべた。
「緊張、なさっているんですね」
「はい。実は、この面接、ずっと憧れていた会社なんです。今回が、最後のチャンスで」
灯は、荷物を丁寧に手渡しながら、静かに言葉を添えた。
「書類が見つかって、本当に良かったです。明日の面接、うまくいくことを、お祈りしております」
「ありがとうございます……! おかげで、少し落ち着きました」
女性が帰った後、桐生が、感心したように口を開いた。
「結城さん、随分と話を引き出すのが上手くなったな」
「そうでしょうか」
「ああ。最初の頃は、事務的な受け答えばかりだったが、最近は、お客様の"言葉にならない部分"を、自然に汲み取っている」
その評価に、灯は、少しくすぐったい気持ちになった。
「桐生さんの受け売りです。踏み込みすぎず、見過ごさない、というやつ」
「よく覚えているじゃないか」
「大事な言葉ですから」
窓の外、夜明けの気配が、少しずつ近づいてきていた。深夜のホテルには、今夜も、様々な事情を抱えた人々が訪れる。その一つ一つに、丁寧に向き合っていくことが、灯にとっての、夜間コンシェルジュとしての矜持になりつつあった。




