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真夜中ホテルの、言えない事情  作者: わがままな饅頭


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第一話:真夜中のチェックイン

深夜零時、ホテル・ノクターンのロビーは、昼間の喧騒が嘘のように静まり返る。


結城灯は、フロントカウンターの内側で、届いたばかりの夜間業務日誌に目を通していた。入社してまだ二ヶ月。大学を出たばかりの新人が、あえて"夜勤専門"のコンシェルジュ職を志望したことを、面接官は不思議がっていたものだ。


「夜のホテルには、夜にしか来ないお客様がいますから」


そう答えた自分の言葉を、灯は今でも、そこそこ気に入っている。


「結城さん、そろそろチェックインのお客様が」


先輩コンシェルジュの桐生が、静かに声をかけてきた。桐生は、この夜間フロントを五年以上守ってきた、いわば深夜の主のような存在だ。物腰は柔らかいが、目つきだけは、いつも鋭い。


「はい」


ロビーの回転扉から現れたのは、疲れた様子のスーツ姿の男性だった。片手にキャリーケース、もう片方の手には、皺だらけの書類鞄を抱えている。


「チェックインを、お願いします」


「かしこまりました。ご予約名をお伺いできますでしょうか」


「……田中です」


男性の声は、どこか上の空だった。灯は、予約リストを確認しながら、さりげなく男性の様子を観察する。革靴の先には、乾いた泥がこびりつき、ワイシャツの襟元には、僅かに乱れた跡がある。何より、キャリーケースにしては、随分と軽そうな持ち方をしていた。


「田中様、お部屋は最上階の角部屋をご用意しております。ご朝食は、何時頃にご用意いたしましょうか」


「……朝食は、結構です。多分、朝早くに、出発しますので」


「かしこまりました」


チェックインの手続きを終え、部屋の鍵を渡す段になって、灯は、ふと違和感を覚えた。田中と名乗った男性の左手薬指に、日焼けの跡――結婚指輪をしていたと思われる、僅かな痕跡があったのだ。だが、今その指に、指輪はない。


「田中様、お荷物、お運びいたしましょうか」


「い、いえ、大丈夫です。自分で」


明らかに、他人との接触を避けたがっている様子だった。灯は、それ以上深追いすることなく、部屋の案内だけを丁寧に済ませた。


男性が部屋へと消えた後、桐生が、静かに口を開いた。


「気づいたか、結城さん」


「はい。多分、あの方、何か思い詰めていらっしゃいます」


「ほう。理由は?」


「革靴の泥、それから、指輪の跡です。もしかしたら、家を出てきたばかりなのかもしれません」


灯の観察に、桐生は僅かに目を細めた。


「悪くない着眼点だ。ただし」


「ただし?」


「気づいたことを、どう扱うかが、この仕事の難しいところだ。踏み込みすぎれば、余計なお世話になる。かといって、見て見ぬふりをすれば、取り返しのつかないことになる場合もある」


その言葉の重みに、灯は思わず息を呑んだ。


深夜二時を過ぎた頃、フロントの内線が鳴った。田中の部屋からだった。


「あの……すみません、少し、話し相手になってもらえませんか。夜食でも、頼めればと思って」


震える声に、灯は迷わず頷いた。


「かしこまりました。すぐにお持ちいたします」


夜食のトレイを手に、灯が部屋を訪れると、田中は、窓の外の夜景を、ぼんやりと眺めていた。


「すみません、こんな時間に」


「いえ、お気になさらず。何か、お困りごとでしょうか」


その問いかけに、田中は、しばらく黙り込んでいたが、やがて、ぽつりぽつりと語り始めた。


「今日、妻と、大喧嘩をしましてね。……いや、喧嘩というより、一方的に、私が責められただけなんですが」


「何があったんですか」


「仕事にかまけて、家族との時間を、ずっと疎かにしてきたんです。今日、娘の誕生日を、うっかり忘れていて。妻に、指輪を投げつけられました」


田中は、力なく笑いながら、左手を見つめた。


「頭を冷やそうと、飛び出してきたはいいものの……正直、どうすればいいのか、分からなくなってしまって」


灯は、静かに耳を傾けながら、夜食のトレイをテーブルに置いた。


「田中様は、ご家族のこと、大切に思っていらっしゃいますか」


「もちろんです。だからこそ、こんな不甲斐ない自分に、嫌気が差しているんです」


「でしたら」


灯は、努めて優しい声で続けた。


「今夜は、ゆっくり休んで、頭を整理する時間になさってください。そして、もし気持ちが固まったら――謝るための言葉を、一つだけでいいので、考えてみてください」


「言葉、ですか」


「はい。誕生日を忘れたことへの謝罪じゃなく、これから、どう向き合っていきたいか、という言葉を」


田中は、しばらく灯の言葉を噛み締めるように黙っていたが、やがて、小さく頷いた。


「……そうですね。少し、考えてみます」


翌朝、田中はチェックアウトの際、憑き物が落ちたような、すっきりとした表情をしていた。


「昨夜は、ありがとうございました。おかげで、少し、腹が決まりました」


「お気をつけて、お帰りください」


見送りながら、灯は、桐生の言葉を思い出していた。踏み込みすぎず、見過ごさない。その塩梅を、少しずつ、掴んでいけたらいいと思った。

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