第八部:非常ベルの鳴る夜 第二十六話:緊急事態
その夜は、いつもと変わらぬ、静かな深夜のはずだった。
「結城さん、少し、休憩を」
三笠にそう声をかけようとした、その時――フロント脇の内線が、けたたましく鳴り響いた。
「はい、フロントです」
「た、大変です! 七階の廊下で、お客様が、倒れていて!」
清掃スタッフの、切迫した声に、灯は、一瞬で緊張が走るのを感じた。
「すぐに向かいます! 三笠さん、救急車の手配と、桐生さんへの連絡をお願いします!」
「わ、分かりました!」
灯は、非常用の救急セットを掴むと、階段を駆け上がった。七階の廊下では、初老の男性客が、壁に寄りかかるようにして、座り込んでいた。顔色は青白く、額には、脂汗が滲んでいる。
「お客様、大丈夫ですか! お名前、分かりますか!」
「……胸が、少し、苦しくて」
途切れ途切れの声に、灯は、努めて冷静に対応した。以前、研修で学んだ、応急対応の手順を、頭の中で、素早く反芻する。
「楽な姿勢を、取っていただけますか。今、すぐに、救急車を呼んでいますので」
灯は、男性の呼吸を確認しながら、そっと、寄り添うように、声をかけ続けた。
「大丈夫です、落ち着いて、深呼吸をしてください。すぐに、助けが来ますから」
「……すまない、な。せっかくの、旅行だったのに」
「そんなこと、気にしないでください。今は、ご自身のことだけ、考えてください」
しばらくして、桐生が、駆けつけてきた。
「結城さん、状況は」
「胸の痛みを訴えられています。呼吸は、なんとか、安定していますが」
桐生は、すぐさま、状況を確認し、周囲の宿泊客への配慮も、手際よく指示していった。
「他のお客様には、心配をかけないよう、静かに、対応を進めよう」
数分後、救急隊員が到着し、男性は、慎重に、担架へと運ばれていった。
「あの、あなたたちの、対応のおかげで、助かりました。本当に、ありがとうございます」
男性に付き添っていた妻と思われる女性が、涙ぐみながら、深く頭を下げた。
「どうか、ご主人様の、ご無事を、心よりお祈りしております」
救急車が、夜の街へと走り去っていくのを見送りながら、灯は、ようやく、詰めていた息を吐き出した。
「結城さん、大丈夫か」
桐生の問いに、灯は、少し震える声で答えた。
「はい……ただ、少し、緊張しました」
「よくやった。落ち着いた対応だった」
その言葉に、灯は、ようやく、肩の力を抜くことができた。




