第五部:灯の言えない事情 第十七話:一本の電話
その夜、出勤前の灯の携帯電話に、一本の着信が入った。表示されていたのは、実家の母からの番号だった。
「もしもし、灯? ちょっと、いい?」
母の声には、普段とは違う、緊張が滲んでいた。
「お父さんが、今日の検診で、少し、良くない数値が出たみたいで。来週、詳しい検査を受けることになったの」
「……そう、なんだ」
灯の父は、数年前に大きな病を患い、今は寛解しているものの、定期的な検診を続けている身だった。今回の知らせに、灯の胸に、不安が広がった。
「大丈夫だとは思うけど、一応、伝えておこうと思って」
「うん、教えてくれて、ありがとう。何か分かったら、また連絡して」
電話を切った後も、灯は、しばらく、その場から動けずにいた。仕事に、集中できるだろうか。そんな不安を抱えたまま、灯は、いつも通り、ホテルへと向かった。
「結城さん、今日は、少し、顔色が優れないようだが」
フロントに立った灯の様子に、いち早く気づいたのは、桐生だった。
「……分かりますか」
「長年、この仕事をしていればな。何か、あったのか」
灯は、少し躊躇いながらも、正直に事情を打ち明けることにした。
「実は、父の、検診の結果が、あまり良くなかったようで。来週、詳しい検査を受けることになりました」
桐生は、静かに灯の話を聞いた後、労わるように言った。
「無理をする必要はない。今日は、早めに上がっても構わないが」
「いえ、大丈夫です。仕事は、きちんとこなします」
灯は、努めて気丈に答えたが、その夜、いつものような、丁寧な観察や、客への配慮が、どこか、上の空になっていることに、自分自身、気づいていた。
深夜、フロントを訪れた一人の男性客が、灯の様子に、ふと目を留めた。
「あの、フロントの方。何か、心配事でも、おありですか」
思いがけない問いかけに、灯は、はっとした。
「い、いえ、申し訳ございません。何か、失礼な対応がございましたでしょうか」
「いえ、そういうわけでは。ただ、いつもと、少し様子が違うように見えたので」
男性客は、穏やかな笑みを浮かべながら続けた。
「実は、私も、以前、大切な家族の病気で、随分と、思い悩んだ時期がありましてね。その時の自分と、少し重なって見えたものですから」
その言葉に、灯は、思わず、目を潤ませそうになった。
「……お恥ずかしいところを、お見せしてしまいました」
「いえ、いつも、お客様の心情に、丁寧に寄り添ってくださる、あなたのような方にも、そういう瞬間があるのだと分かって、なんだか、少し、安心しました」
男性客の言葉に、灯は、静かに頭を下げた。
「ありがとうございます。少し、気持ちを、切り替えられそうです」
男性客が去った後、桐生が、静かに近づいてきた。
「今の、あの客のような視点も、大事だな。踏み込みすぎず、見過ごさない――それは、俺たちだけじゃなく、お客様の側から、俺たちに向けられることも、あるということだ」
その言葉に、灯は、深く頷いた。誰かに寄り添うことばかりを考えていたが、自分もまた、時に、誰かに支えられる側になることがある。その当たり前の事実に、灯は、改めて気づかされた。




