第三部:気難しい常連 第十一話:完璧主義の客
秋も深まったある夜、フロントに、一人の女性が、足早に現れた。仕立ての良いスーツに身を包み、隙のない佇まいから、只者ではない雰囲気が漂っている。
「チェックインを」
「かしこまりました。ご予約名を、お伺いできますでしょうか」
「城崎です。それと」
女性――城崎は、鋭い視線を灯に向けた。
「以前泊まった時、部屋の空調の効きが甘かった。今回は、事前にきちんと調整しておいてもらえますか」
「かしこまりました。すぐに、確認いたします」
有無を言わせぬ口調に、灯は、内心で身構えながらも、丁寧に対応した。だが、城崎の要求は、それだけでは終わらなかった。
「それと、朝食のパンは、焼き加減が甘かった。次は、もう少し、しっかり焼いてもらえますか」
「承知いたしました。厨房に、申し伝えます」
「あと、部屋のアメニティの配置も、以前は左右が逆でした。細かいことかもしれませんが、こういう積み重ねが、ホテルの質を表すと思っています」
矢継ぎ早に告げられる要求に、灯は、一つ一つ丁寧にメモを取りながら対応した。城崎が部屋へと去った後、灯は、思わず小さくため息をついた。
「……随分と、細かいお客様ですね」
「ああ、城崎様は、月に数度、ご利用いただいている常連の方でな」
桐生が、静かに補足した。
「毎回、ああして、細かい指摘をされる。中には、理不尽に思えるものもあるが……全て、対応してきた」
「大変じゃないですか、そういうお客様への対応」
「大変だ。だが」
桐生は、少し考えるように続けた。
「城崎様の指摘は、いつも的確でな。実際、空調の調整も、パンの焼き加減も、指摘された通り、改善の余地があった。決して、理不尽な言いがかりではないんだ」
その言葉に、灯は、少し考え込んだ。
「では、なぜ、あんなにも、細かく指摘されるんでしょうか」
「さあな。そこまでは、俺にも分からない」
その夜、城崎からの内線が、フロントに入った。
「アメニティの件、確認しましたか」
「はい、ただいま、係の者が向かっております」
「それと、もう一つ。部屋の窓から見える景色について、少し、意見を言わせてもらいたいのですが」
灯は、内心で身構えながらも、丁寧に対応した。
「かしこまりました。伺います」
部屋を訪れると、城崎は、窓の外を見つめながら、静かに口を開いた。
「この部屋、以前は、もう少し、隣のビルの明かりが眩しくなかったように思うのですが。カーテンの遮光性が、落ちているのではありませんか」
指摘を受け、灯は、カーテンを確認した。確かに、経年劣化からか、以前よりも、僅かに光を通しやすくなっているようだった。
「ご指摘、ありがとうございます。すぐに、交換の手配をいたします」
「……いつも、そうやって、素直に対応してくれるんですね」
城崎の言葉に、灯は、少し意外に思いながら顔を上げた。
「以前泊まったホテルでは、細かい指摘をすると、露骨に嫌な顔をされたものです。あなたたちは、いつも、真摯に対応してくれる」
その言葉には、これまでの高圧的な態度とは違う、僅かな柔らかさが滲んでいた。
「城崎様は、こうしたお仕事を、されているのでしょうか。細部への、目の配り方が」
灯の何気ない問いに、城崎は、少し驚いたように目を見開いた後、静かに頷いた。
「……ホテル評論の仕事を、しています。今は、あまり、大きな声では言えませんが」
「そうだったんですね」
「毎回、こうして細かく指摘するのは、職業病のようなものです。ですが」
城崎は、窓の外を見つめながら、続けた。
「正直なところ、このホテルには、いつも、感心させられています。私の指摘に、一つ一つ、真摯に向き合ってくれるので」
その言葉に、灯は、静かな喜びを覚えた。
「ありがとうございます。今後とも、ご指摘いただけますと、幸いです」
「ええ、そうさせてもらいます」
城崎が、初めて、僅かに笑みを見せた。灯は、その変化に、密かな手応えを感じていた。




