第2章「残された線」 Scene9
数日空いた。
その間、世界は当然のように進んでいた。私の机には別件の照会が来て、会議資料の修正が入り、来年度事業の概算要求に関するメールが増えた。市場小路も、石柱状のものも、山本健治という名前も、こちらが見ない間に消えてしまうわけではない。けれど、見ないでいると、少しずつ机の端へ追いやられる。仕事は、謎に遠慮してくれない。
紬からも、翌週まで連絡はなかった。こちらからも送らなかった。
フリーのデザイナーに、役所の好奇心でいつまでも付き合ってもらうわけにはいかない。紬には紬の仕事がある。締切、修正、請求書、クライアントの曖昧な「いい感じ」。そういうものと戦っているはずだ。
そう思っていた夕方、紬から短いメッセージが来た。
『明日の午後なら少し動けます』
少し、というところが紬らしい。私はすぐに返した。
『図書館に行きたい』
既読がつくまで、妙に長く感じた。
『市役所ではなく?』
『図書館』
『それなら私は一般利用者ですね』
『それが安全』
『了解です』
そのあと、少し間が空いて、もう一通来た。
『先輩、楽しみにしてますね』
何を、と聞く前に次が来た。
『資料に沈む顔』
翌日、黒田さんに図書館での公開資料確認を伝えると、黒田さんは書類から目を上げずに言った。
「探すものを三つに絞れ」
「三つまで削りますか」
「三つでも多い」
「かなり絞った方です」
「歴史好きの基準で言うな」
何も言い返せない。
私は調査資料の端に、改めて三つ書いた。牛窓往来。石柱状のもの。山本健治。黒田さんはそれを見て、少しだけ眉を動かした。
「山本健治も入れるんか」
「はい。ポスター裏面以外の資料に名前が出るか確認します」
「同姓同名の可能性」
「あります」
「役割の誤認」
「そこも残ります」
「名前が出ても、ポスター担当とは限らん」
「分かっています」
「分かっとる顔はしとる」
聞き覚えのある言い方だった。
「ただし」
「はい」
「分かっとるだけでは足りん」
「…はい」
やはり続きも同じだった。
「図書館は公開資料だ。椎名さんが一緒でも問題は少ない。ただ、業務として動いているのはお前じゃ。そこは曖昧にするな」
「はい」
「あと、楽しむなとは言わん」
「はい」
「楽しさに流されるな」
「…はい」
かなり見透かされている。
瀬戸内市民図書館は、市役所より静かだった。
ただし、静けさの種類が違う。市役所の静けさは、電話が鳴る前の静けさだ。
図書館の静けさは、読む人の静けさだ。本のページをめくる音。椅子を引く小さな音。誰かが棚の前で立ち止まる気配。大きな声ではないのに、そこには人がいる。
紬は入口で立ち止まり、少しだけ周囲を見た。
「市役所より、余白がありますね」
「図書館じゃからな」
「空いている、という意味ではないです」
「分かっとる」
「本当ですか」
「たぶん」
「そのたぶんは、怪しいです」
私たちは郷土資料のある一角へ向かった。瀬戸内市の歴史や文化を紹介する資料が並び、展示ケースには土地に関わるものが置かれている。本の隣に、土地から来たものがある。文字だけではなく、形のあるものも一緒に置かれている。
本庁の資料室とは違う。資料室の資料は、こちらを待っているというより、置き去りにされている感じがある。図書館の資料は、誰かに読まれることを前提に、少しだけ姿勢を正しているように見えた。
「先輩」
紬が言った。
「顔」
「まだ何も言ってない」
「言いそうです」
「図書館では小声で言う」
「言わない選択肢は」
「努力する」
紬は諦めたように、郷土資料の棚を見た。
私は調査資料を開いた。
「今日探すのは三つ」
「牛窓往来、石柱状のもの、山本健治」
「覚えとるん」
「昨日、送ってきたじゃないですか」
「そうじゃった」
「三つでも多いです」
「黒田さんにも言われた」
まず、牛窓往来から当たった。郷土史の本、町史の索引、古い道に関する冊子。牛窓という文字は出る。往来という文字も出る。けれど、二つがこちらの望む形で並ぶとは限らない。
古い道筋の話は、思ったより広い。港、街道、山道、舟運。読めば読むほど面白い。面白いが、目的から外れていく。
私は途中で、調査資料の端に書いた。脱線注意。紬が覗き込む。
「また書いてる」
「必要」
「効果あります?」
「少し」
「少しなんですね」
石造物関係の小冊子も見た。道標、地蔵、石仏、記念碑。似た形のものはある。けれど、市場小路の曲がり角に、牛窓と読める石柱があった、という記述は見つからない。見つからない。それは、ないという意味ではない。載っていないという意味でしかない。そう分かっていても、空振りが続くと、紙の上の文字が少し冷たく見えてくる。
「見つからないことも情報、って言いそうですね」
紬が言った。
「言おうとした」
「慰めですか」
「半分」
「残り半分は?」
「本当に情報でもある」
「便利ですね」
便利だが、万能ではない。見つからないことを情報にするには、どこをどれだけ探したかを残さなければならない。探していない場所があるなら、それはただの未確認だ。私は確認した資料名を一つずつ書いた。
牛窓往来。関連記述あり。石造物との接続未確認。
市場小路周辺道標。該当記述確認できず。
石造物調査資料。要追加確認。
書けば書くほど、答えから遠ざかっているような気がする。
「山本健治、行きますか」
紬が言った。
「行く」
山本健治。ポスターの裏に残っていた鉛筆の名前。
私はその名前を検索端末で調べ、郷土資料の索引を確認し、古い広報紙の縮刷版をめくった。個人名は、思ったより見つけにくい。大きな功績を残した人ならともかく、役場職員の名前は本文に出ないことが多い。出るとしても、担当欄、写真提供、編集後記、協力者一覧。本文ではなく、端だ。
端。紬の領域。
「先輩」
案の定、紬が言った。
「本文じゃなくて、クレジットです」
「クレジット?」
「誰が写真を出したか、誰が協力したか。こういう資料、そこに作った人の癖が出ます」
紬は古い観光協会だよりらしき冊子を見ていた。
薄い冊子で、紙が少し黄ばんでいる。表紙には牛窓の海の写真。中にはイベントの案内、観光客向けの短い文章、町の写真が並んでいる。
「これ、昭和五十七年の夏前です」
紬がページの下を指した。私は身を乗り出した。そこには、小さな文字で発行年月が入っている。昭和五十七年六月。ポスターと同じ年だ。それだけで胸が少し騒ぐ。騒ぐな、と自分に言いきかせる。
「ここ」
紬がページの最下部を指した。
写真提供・協力 牛窓町役場観光係 山本健治
活字だった。鉛筆ではない。誰かが紙の裏に残した、保管のための文字ではない。印刷された、ほかの読者にも見える場所にある名前。山本健治。私はしばらく、その四文字を見ていた。
「先輩」
紬が小さく呼んだ。
「戻ってきてください」
「…戻った」
「たぶん戻ってません」
「少し待って」
私は息を一つ吐いた。山本健治。牛窓町役場観光係。同姓同名の可能性はある。あるが、牛窓町役場という一致がある。観光係という部署も、ポスターと近い。昭和五十七年という時期も重なる。近い。近すぎる。だからこそ、危ない。
「同じ人と見ていいんですか」
紬が聞いた。
「まだ駄目」
「ですよね」
「でも、同一人物の可能性は高くなった」
「役割は?」
「写真提供・協力。ポスター担当とは限らん」
「そこは大事ですね」
「大事」
私は調査資料に書いた。昭和五十七年六月発行資料。写真提供・協力:牛窓町役場観光係 山本健治。ポスター裏面鉛筆書きの山本健治と同一人物の可能性。役割未確認。ポスター担当とは断定不可。
断定不可。この四文字が、少し頼もしく見えた。
「名前が、活字になりましたね」
紬が言った。私は頷いた。
「うん」
「それだけで人になるわけではないですけど」
「でも、少し近づいた」
ポスター裏面の鉛筆書きは、誰かが残した印。今見ている活字は、公に出た名前だ。
山本健治という人が、少なくとも昭和五十七年の牛窓町役場観光係として、観光資料の周辺にいた。まだ声は聞こえない。でも、立っていた場所が少し見えた。
「これ、写真提供ってことは、写真を撮った人なんですか」
紬が聞いた。
「提供者であって、撮影者とは限らん」
「またですか」
「またです」
「役所の資料、限らんことが多いですね」
「多い」
「でも、それを限らんって書くのは大事なんですね」
「かなり」
紬は冊子をもう一度見た。
「この写真、牛窓だけじゃないですね」
「え」
私はページを見直した。確かに、海の写真だけではない。港、路地、丘、古い家並み、祭りの準備らしい風景。牛窓の観光資料だから当然牛窓が中心だが、写真の中には、町境を越えた素材のように見えるものも混じっている。キャプションは短い。近隣の歴史散策。備前路の初夏。広域観光素材。
私はその言葉で止まった。
「広域観光素材」
声に出すと、紬が顔を上げた。
「何ですか」
「分からん。でも、気になる」
「気になる顔です」
「かなり」
昭和五十七年。牛窓町役場観光係。山本健治。広域観光素材。線が引きたがる。
私はペンを握ったまま、少しだけ目を閉じた。分かっていないものを、分かったように話すな。会ったことのない人間ほど、丁寧に扱え。資料も、人間が作るものなので。頭の中で、黒田さんと森下さんが交互に言う。会議室どころか、そろそろ委員会が開けそうだ。
「先輩」
「何」
「今、かなり遠くまで行きましたね」
「戻った」
「早めに戻ってきてください」
「はい」
私は調査資料に書いた。同資料内に、広域観光素材の語。山本健治との関係は未確認。牛窓町単独観光資料内に、周辺素材らしき写真あり。要精査。
「要精査」
紬が読んだ。
「要確認より強そうですね」
「少し強い」
「祈りにも段階が」
「ある」
「行政職員の祈り、体系化できますね」
「しなくていい」
紬は少し笑った。
私は冊子を丁寧に閉じた。古い紙は、思ったより軽い。軽いのに、そこに載っている名前は重い。山本健治。牛窓町役場観光係。まだ本人の声はない。何を考えていたのかも分からない。ポスターを作ったのか、写真を集めたのか、ただ資料提供をしたのか、それすら分からない。でも、名前はもう、裏面の鉛筆書きだけではなかった。
「これ、黒田さんに報告ですか」
紬が聞いた。
「報告する」
「喜びますか」
「喜ぶというより、正しい質問をされる」
「同じ人か」
「役割は何か」
「広域観光素材とは何か」
「ポスターとの関係は」
「市民に何のメリットがある」
「最後は黒田さん本人ですね」
私は笑いそうになって、図書館なのでこらえた。
調査資料の最後に、今日の発見を書き足す。
山本健治の名を、昭和五十七年六月発行の牛窓町観光資料に確認。
肩書き:牛窓町役場観光係。写真提供・協力欄。ポスター裏面の人物との同一性、要確認。
広域観光素材との関連、要精査。
文字にすると、冷える。でも、今日の冷え方は悪くない。熱のまま持って帰れば、私はたぶん間違える。冷やして、分けて、確かめる。そのための文字だ。
紬は、ページの端をもう一度見ていた。
「何かある?」
私が聞くと、紬は首を振った。
「いえ。ただ、名前って、端にあるんだなと思って」
「端?」
「作った人とか、関わった人とか、だいたい最後か、下の方に小さく載ります」
「そうじゃな」
「でも、そこを見ないと、誰がいたか分からない」
「うん」
「中心に載っているものだけ見ても、足りないんですね」
紬がそれを言うのが、少し嬉しかった。余白や端は、見えないものを隠す場所ではない。そこにしか残らないものもある。
私は冊子のページをそっと撫でた。もちろん、撫でたところで過去に触れるわけではない。けれど、紙の向こうに人がいたことだけは、さっきより少し信じられた。
鉛筆書きだった名前が、活字になった。それだけで、人になったわけではない。けれど、山本健治はもう、ポスターの裏だけにいる人ではなかった。




