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瀬戸内カラー  作者: 秋澄しえる


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9/26

第2章「残された線」 Scene9

 数日空いた。

 その間、世界は当然のように進んでいた。私の机には別件の照会が来て、会議資料の修正が入り、来年度事業の概算要求に関するメールが増えた。市場小路も、石柱状のものも、山本健治という名前も、こちらが見ない間に消えてしまうわけではない。けれど、見ないでいると、少しずつ机の端へ追いやられる。仕事は、謎に遠慮してくれない。


 紬からも、翌週まで連絡はなかった。こちらからも送らなかった。

 フリーのデザイナーに、役所の好奇心でいつまでも付き合ってもらうわけにはいかない。紬には紬の仕事がある。締切、修正、請求書、クライアントの曖昧な「いい感じ」。そういうものと戦っているはずだ。

 そう思っていた夕方、紬から短いメッセージが来た。


『明日の午後なら少し動けます』


 少し、というところが紬らしい。私はすぐに返した。


『図書館に行きたい』


 既読がつくまで、妙に長く感じた。


『市役所ではなく?』

『図書館』

『それなら私は一般利用者ですね』

『それが安全』

『了解です』


 そのあと、少し間が空いて、もう一通来た。


『先輩、楽しみにしてますね』


 何を、と聞く前に次が来た。


『資料に沈む顔』


 翌日、黒田さんに図書館での公開資料確認を伝えると、黒田さんは書類から目を上げずに言った。


「探すものを三つに絞れ」

「三つまで削りますか」

「三つでも多い」

「かなり絞った方です」

「歴史好きの基準で言うな」


 何も言い返せない。


 私は調査資料の端に、改めて三つ書いた。牛窓往来。石柱状のもの。山本健治。黒田さんはそれを見て、少しだけ眉を動かした。


「山本健治も入れるんか」

「はい。ポスター裏面以外の資料に名前が出るか確認します」

「同姓同名の可能性」

「あります」

「役割の誤認」

「そこも残ります」

「名前が出ても、ポスター担当とは限らん」

「分かっています」

「分かっとる顔はしとる」


 聞き覚えのある言い方だった。


「ただし」

「はい」

「分かっとるだけでは足りん」

「…はい」


 やはり続きも同じだった。


「図書館は公開資料だ。椎名さんが一緒でも問題は少ない。ただ、業務として動いているのはお前じゃ。そこは曖昧にするな」

「はい」

「あと、楽しむなとは言わん」

「はい」

「楽しさに流されるな」

「…はい」


 かなり見透かされている。


 瀬戸内市民図書館は、市役所より静かだった。

 ただし、静けさの種類が違う。市役所の静けさは、電話が鳴る前の静けさだ。

 図書館の静けさは、読む人の静けさだ。本のページをめくる音。椅子を引く小さな音。誰かが棚の前で立ち止まる気配。大きな声ではないのに、そこには人がいる。

 紬は入口で立ち止まり、少しだけ周囲を見た。


「市役所より、余白がありますね」

「図書館じゃからな」

「空いている、という意味ではないです」

「分かっとる」

「本当ですか」

「たぶん」

「そのたぶんは、怪しいです」


 私たちは郷土資料のある一角へ向かった。瀬戸内市の歴史や文化を紹介する資料が並び、展示ケースには土地に関わるものが置かれている。本の隣に、土地から来たものがある。文字だけではなく、形のあるものも一緒に置かれている。

 本庁の資料室とは違う。資料室の資料は、こちらを待っているというより、置き去りにされている感じがある。図書館の資料は、誰かに読まれることを前提に、少しだけ姿勢を正しているように見えた。


「先輩」


 紬が言った。


「顔」

「まだ何も言ってない」

「言いそうです」

「図書館では小声で言う」

「言わない選択肢は」

「努力する」


 紬は諦めたように、郷土資料の棚を見た。

 私は調査資料を開いた。


「今日探すのは三つ」

「牛窓往来、石柱状のもの、山本健治」

「覚えとるん」

「昨日、送ってきたじゃないですか」

「そうじゃった」

「三つでも多いです」

「黒田さんにも言われた」


 まず、牛窓往来から当たった。郷土史の本、町史の索引、古い道に関する冊子。牛窓という文字は出る。往来という文字も出る。けれど、二つがこちらの望む形で並ぶとは限らない。

 古い道筋の話は、思ったより広い。港、街道、山道、舟運。読めば読むほど面白い。面白いが、目的から外れていく。

 私は途中で、調査資料の端に書いた。脱線注意。紬が覗き込む。


「また書いてる」

「必要」

「効果あります?」

「少し」

「少しなんですね」


 石造物関係の小冊子も見た。道標、地蔵、石仏、記念碑。似た形のものはある。けれど、市場小路の曲がり角に、牛窓と読める石柱があった、という記述は見つからない。見つからない。それは、ないという意味ではない。載っていないという意味でしかない。そう分かっていても、空振りが続くと、紙の上の文字が少し冷たく見えてくる。


「見つからないことも情報、って言いそうですね」


 紬が言った。


「言おうとした」

「慰めですか」

「半分」

「残り半分は?」

「本当に情報でもある」

「便利ですね」


 便利だが、万能ではない。見つからないことを情報にするには、どこをどれだけ探したかを残さなければならない。探していない場所があるなら、それはただの未確認だ。私は確認した資料名を一つずつ書いた。

 牛窓往来。関連記述あり。石造物との接続未確認。

 市場小路周辺道標。該当記述確認できず。

 石造物調査資料。要追加確認。

 書けば書くほど、答えから遠ざかっているような気がする。


「山本健治、行きますか」


 紬が言った。


「行く」


 山本健治。ポスターの裏に残っていた鉛筆の名前。

 私はその名前を検索端末で調べ、郷土資料の索引を確認し、古い広報紙の縮刷版をめくった。個人名は、思ったより見つけにくい。大きな功績を残した人ならともかく、役場職員の名前は本文に出ないことが多い。出るとしても、担当欄、写真提供、編集後記、協力者一覧。本文ではなく、端だ。

 端。紬の領域。


「先輩」


 案の定、紬が言った。


「本文じゃなくて、クレジットです」

「クレジット?」

「誰が写真を出したか、誰が協力したか。こういう資料、そこに作った人の癖が出ます」


 紬は古い観光協会だよりらしき冊子を見ていた。

 薄い冊子で、紙が少し黄ばんでいる。表紙には牛窓の海の写真。中にはイベントの案内、観光客向けの短い文章、町の写真が並んでいる。


「これ、昭和五十七年の夏前です」


 紬がページの下を指した。私は身を乗り出した。そこには、小さな文字で発行年月が入っている。昭和五十七年六月。ポスターと同じ年だ。それだけで胸が少し騒ぐ。騒ぐな、と自分に言いきかせる。


「ここ」


 紬がページの最下部を指した。

 写真提供・協力 牛窓町役場観光係 山本健治


 活字だった。鉛筆ではない。誰かが紙の裏に残した、保管のための文字ではない。印刷された、ほかの読者にも見える場所にある名前。山本健治。私はしばらく、その四文字を見ていた。


「先輩」


 紬が小さく呼んだ。


「戻ってきてください」

「…戻った」

「たぶん戻ってません」

「少し待って」


 私は息を一つ吐いた。山本健治。牛窓町役場観光係。同姓同名の可能性はある。あるが、牛窓町役場という一致がある。観光係という部署も、ポスターと近い。昭和五十七年という時期も重なる。近い。近すぎる。だからこそ、危ない。


「同じ人と見ていいんですか」


 紬が聞いた。


「まだ駄目」

「ですよね」

「でも、同一人物の可能性は高くなった」

「役割は?」

「写真提供・協力。ポスター担当とは限らん」

「そこは大事ですね」

「大事」


 私は調査資料に書いた。昭和五十七年六月発行資料。写真提供・協力:牛窓町役場観光係 山本健治。ポスター裏面鉛筆書きの山本健治と同一人物の可能性。役割未確認。ポスター担当とは断定不可。

 断定不可。この四文字が、少し頼もしく見えた。


「名前が、活字になりましたね」


 紬が言った。私は頷いた。


「うん」

「それだけで人になるわけではないですけど」

「でも、少し近づいた」


 ポスター裏面の鉛筆書きは、誰かが残した印。今見ている活字は、公に出た名前だ。

 山本健治という人が、少なくとも昭和五十七年の牛窓町役場観光係として、観光資料の周辺にいた。まだ声は聞こえない。でも、立っていた場所が少し見えた。


「これ、写真提供ってことは、写真を撮った人なんですか」


 紬が聞いた。


「提供者であって、撮影者とは限らん」

「またですか」

「またです」

「役所の資料、限らんことが多いですね」

「多い」

「でも、それを限らんって書くのは大事なんですね」

「かなり」


 紬は冊子をもう一度見た。


「この写真、牛窓だけじゃないですね」

「え」


 私はページを見直した。確かに、海の写真だけではない。港、路地、丘、古い家並み、祭りの準備らしい風景。牛窓の観光資料だから当然牛窓が中心だが、写真の中には、町境を越えた素材のように見えるものも混じっている。キャプションは短い。近隣の歴史散策。備前路の初夏。広域観光素材。

 私はその言葉で止まった。


「広域観光素材」


 声に出すと、紬が顔を上げた。


「何ですか」

「分からん。でも、気になる」

「気になる顔です」

「かなり」


 昭和五十七年。牛窓町役場観光係。山本健治。広域観光素材。線が引きたがる。

 私はペンを握ったまま、少しだけ目を閉じた。分かっていないものを、分かったように話すな。会ったことのない人間ほど、丁寧に扱え。資料も、人間が作るものなので。頭の中で、黒田さんと森下さんが交互に言う。会議室どころか、そろそろ委員会が開けそうだ。


「先輩」

「何」

「今、かなり遠くまで行きましたね」

「戻った」

「早めに戻ってきてください」

「はい」


 私は調査資料に書いた。同資料内に、広域観光素材の語。山本健治との関係は未確認。牛窓町単独観光資料内に、周辺素材らしき写真あり。要精査。


「要精査」


 紬が読んだ。


「要確認より強そうですね」

「少し強い」

「祈りにも段階が」

「ある」

「行政職員の祈り、体系化できますね」

「しなくていい」


 紬は少し笑った。


 私は冊子を丁寧に閉じた。古い紙は、思ったより軽い。軽いのに、そこに載っている名前は重い。山本健治。牛窓町役場観光係。まだ本人の声はない。何を考えていたのかも分からない。ポスターを作ったのか、写真を集めたのか、ただ資料提供をしたのか、それすら分からない。でも、名前はもう、裏面の鉛筆書きだけではなかった。


「これ、黒田さんに報告ですか」


 紬が聞いた。


「報告する」

「喜びますか」

「喜ぶというより、正しい質問をされる」

「同じ人か」

「役割は何か」

「広域観光素材とは何か」

「ポスターとの関係は」

「市民に何のメリットがある」

「最後は黒田さん本人ですね」


 私は笑いそうになって、図書館なのでこらえた。


 調査資料の最後に、今日の発見を書き足す。

 山本健治の名を、昭和五十七年六月発行の牛窓町観光資料に確認。

 肩書き:牛窓町役場観光係。写真提供・協力欄。ポスター裏面の人物との同一性、要確認。

 広域観光素材との関連、要精査。

 文字にすると、冷える。でも、今日の冷え方は悪くない。熱のまま持って帰れば、私はたぶん間違える。冷やして、分けて、確かめる。そのための文字だ。


 紬は、ページの端をもう一度見ていた。


「何かある?」


 私が聞くと、紬は首を振った。


「いえ。ただ、名前って、端にあるんだなと思って」

「端?」

「作った人とか、関わった人とか、だいたい最後か、下の方に小さく載ります」

「そうじゃな」

「でも、そこを見ないと、誰がいたか分からない」

「うん」

「中心に載っているものだけ見ても、足りないんですね」


 紬がそれを言うのが、少し嬉しかった。余白や端は、見えないものを隠す場所ではない。そこにしか残らないものもある。

 私は冊子のページをそっと撫でた。もちろん、撫でたところで過去に触れるわけではない。けれど、紙の向こうに人がいたことだけは、さっきより少し信じられた。


 鉛筆書きだった名前が、活字になった。それだけで、人になったわけではない。けれど、山本健治はもう、ポスターの裏だけにいる人ではなかった。

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