表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
瀬戸内カラー  作者: 秋澄しえる


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
10/26

第2章「残された線」 Scene10

 牛窓には、海がある。


 それは分かっていた。分かっていたはずなのに、備前福岡の市場小路を歩いたあとでは、少しずるいくらい分かりやすく思える。

 道の向こうで光るもの。風の中に混じる潮の匂い。坂を下りるにつれて、町全体が海の方へ傾いていくような感覚。牛窓は、こちらが説明する前に、海を見せてくる。


 紬と予定が合ったのは、さらに数日後だった。彼女は牛窓方面で、別件のデザイン案件の下見があるらしい。詳しくは聞かなかった。聞いても、守秘義務です、と返される気がしたし、実際たぶん返される。


『午前中に牛窓で一件見ます。昼前後なら合流できます』


 そうメッセージが来た時、私は少し安心した。こちらの調査のためだけに紬を呼び出すのではない。紬の仕事の時間の隙間に、こちらの用件を差し込む。それでも甘えていることに変わりはないが、少なくとも、少しはましだ。


 黒田さんに牛窓支所と周辺の公開資料確認へ行くことを伝えると、黒田さんはすぐに言った。


「椎名さんは?」

「牛窓方面の別件下見のついでに、昼前後から合流予定です」

「ついで、か」

「はい」

「なら、こちらの都合で拘束しすぎるな」

「分かっています」

「あと、支所では範囲を間違えるな」

「公開資料と必要な照会だけにします」

「森下さんには?」

「先日の件のお礼も兼ねて、立ち寄るつもりです。不在かもしれませんが」

「それが筋じゃな」


 筋。黒田さんが言うと、その一文字がやけに重くなる。


 森下さんは、社会教育課の人だ。牛窓支所を拠点にしながら、本庁にも席があるため、両方を行き来している。


「ただし、森下さんを便利な窓口扱いするなよ」

「はい」

「専門の人は、親切だから時間を取ってくれる。でも、親切は無限じゃない」

「…はい」


 牛窓支所に着いた時、空は薄く白かった。六月の光は強いが、真夏のように攻めてくるほどではない。支所の建物の前に立つと、私は少しだけ足を止めた。

 ここは、今は牛窓支所だ。けれど、資料の中では牛窓町役場だった。ポスターの裏にあった鉛筆の文字も、図書館で見つけた活字も、そこには「牛窓町役場」とあった。合併して名前が変わっても、紙の中では古い名前のまま時間が止まっている。

 山本健治がここにいたかは、まだ分からない。でも、「牛窓町役場観光係」という肩書きは、もうこの場所の空気と切り離せなかった。


「こんにちは」


 支所の中へ入り、窓口で名乗る。用件を簡単に伝えると、対応してくれた職員の方が奥へ確認に行ってくれた。内部の資料を見たいわけではない。

 旧牛窓町時代の公開可能な観光資料の所在と、社会教育課の森下さんが本庁に来てくれた件のお礼を伝えたい。それから、観光協会や関連窓口で確認すべきことがあれば教えてもらいたい。

 そう言うと、自分でもずいぶん用件が多いと思う。調査は、行けば行くほど枝分かれする。


 しばらくして、奥から森下さんが出てきた。


「宮地さん」

「森下さん。先日はありがとうございました」

「いえ。こちらこそ、資料を整理して送っていただけたので助かりました」


 森下さんは、今日も落ち着いた声だった。手には薄いファイルを持っている。こちらへ来る途中だったのか、こちらのために持ってきてくれたのかは分からない。たぶん、聞くべきではない。


「すみません。突然来てしまって」

「いえ。お礼だけなら受け取ります。相談なら、内容によります」


 笑っているのに、線は引かれている。文化財担当の人は、笑顔でも台帳のように正確だ。


「今日は、旧牛窓町時代の古い観光資料について、公開分で確認できる範囲をあたりに来ました」

「先日の石造物の件ですか?」

「それも含めて、です。図書館で昭和五十七年頃の資料を見ていたら、『広域観光素材』という言葉がありまして。支所にも関連するものがないか確かめたくて」

「なるほど。直接関係するかは分からないけれど、周辺も確認しておくわけですね」

「はい」

「よろしい」


 褒められたのか、試されたのか分からない。


「それで、牛窓支所に古い観光資料はありますでしょうか」

「支所に残っているものは限られます。古い行政文書は本庁や所管課、文化財関係は社会教育、観光協会関係は別にあたる必要があります」

「やはり、そうですよね」

「ただ、昔の観光パンフレットの一部なら、閲覧用に複製したものがあります。見られる範囲でなら」

「助かります」


 そこで、私のスマートフォンが震えた。紬からだった。


『終わりました。支所近くまで行けます』


 私は森下さんに断って、短く返信する。


『牛窓支所にいます。公開資料確認中』

『部署内には入りません』


 返事が早い。そして正しい。私は少し笑いそうになった。


「椎名さんですか」


 森下さんが言った。


「はい。別件の下見が終わって、合流できるそうです」

「公開資料の確認なら、同席しても構いませんよ」

「ありがとうございます」


 少しして、紬が支所に入ってきた。外の光を連れてきたように見えた。牛窓の道を歩いたからか、資料室や図書館で見た時より、服の白が少しだけ明るい。彼女は私の隣まで来ると、まず森下さんに頭を下げた。


「椎名です。先日はありがとうございました」

「こちらこそ。『整えたら消えてしまうもの』を拾える人ですね」

「デザイナーとしては、少し複雑な覚えられ方です。本当はきれいに整えるのが仕事なので」

「文化財の視点から言えば、とてもいい覚えられ方です」


 森下さんはそう言って、閲覧用の複製資料を机に置いた。古い牛窓の観光パンフレット。観光案内図。写真の複製。どれも、原本ではない。印刷されたものをさらに複製した、少し薄い資料だ。それでも、紙面の中には、牛窓がいくつもあった。

 港。ヨット。海水浴場。オリーブ。細い通り。古い家並み。ローマ字で書かれたUSHIMADO。私はその文字で目を止めた。


「USHIMADO」


 紬が先に声に出した。


「この表記、多いですね」

「観光資料だからかな」

「ポスターは日本語の印象が強かったのに」

「昭和五十七年のサマーキャンペーン」

「でも、こっちの資料ではローマ字が前に出ています」


 紬は複製資料の余白を見ている。


「先輩が福岡で言っていたこと、分かります」

「福岡で?」

「海は強いって言ってたじゃないですか。青くて、広くて、ポスターにしやすいって」

「ああ、言ったな」

「こっちの資料を見ると、本当にずるいくらい強いですね」


 同じことを考えていたので、少し驚いた。

 牛窓は、見せやすい。

 青い海、白い船、坂道、港町。もちろん本当はそれだけではない。けれど、一枚の紙に載せる時、入口が分かりやすい。備前福岡は歩かないと分からなかった。牛窓は、まず見えてしまう。


「ただ」


 紬は資料を見ながら言った。


「見えすぎるものも、難しいですね」

「どういうこと?」

「きれいな海を見せると、それ以外が背景になります。通りとか、暮らしとか、働いている人とか、役場の人とか」


 役場の人。その言葉が、胸に少し残った。


 森下さんは、私たちの会話を邪魔せず、少し離れたところで資料を見ていた。ふと顔を上げて言う。


「この当時の観光資料がどう作られたか、あるいは誰が関わっていたかについては、支所だけでは追いきれません」

「はい」

「当時の関係者の記憶や、より詳しい記録をたどるなら、観光協会の方が近い可能性がありますね」

「分かりました」

「それから」


 森下さんは、古い観光案内図を指した。


「この頃の観光資料は、町単独で閉じていない場合があります。牛窓を入口にして、周辺へ広げる見せ方をすることもある」

「広域観光素材」

「その言葉が出ているなら、気にしておいた方がいいですね。ただし、まだ言葉だけです」

「はい」

「言葉は、便利です。便利な言葉ほど、実体を確認してください」

「…はい」


 森下さんらしい釘だった。

 その釘は止めるためだけのものではない。紙が勝手に広がらないよう、端を留めるためのものでもあった。


 森下さんは別件の時間が近いと言い、資料の閲覧範囲と問い合わせ先を簡単に教えてくれたあと、席を外した。


「では、私はこれで」

「ありがとうございました」

「椎名さんも、また面白い端っこを見つけたら教えてください」

「はい」

「でも、たまには私たちが一生懸命整えた、中心の文字も読んでくださいね」

「気をつけます」


 森下さんが去ったあと、私たちは複製資料をもう少しだけ見た。

 山本健治の名前は、そこには出てこなかった。牛窓道標らしき石造物に直接つながるものもない。成果としては薄い。けれど、牛窓町役場観光係という肩書きが、この支所の空気と少し結びついた。それだけでも、来た意味はあったと思う。思いたい。


「次、歩きますか」


 紬が言った。


「支所の中より、外の方が見えそうです」

「デザイナーの勘?」

「下見で少し歩いたので」

「仕事の勘じゃな」

「便利です」


 私たちは支所を出て、しおまち唐琴通りの方へ歩いた。

 牛窓の道は、海へ近づくほど、少しずつ音を変える。車の音に、船の音が混じる。風に潮の匂いが混じる。店先の影、古い建物の格子、白い壁、細い路地。観光地として見せる顔と、暮らしの顔が、きれいに分かれているわけではない。重なっている。

 備前福岡の市場小路とは違う種類の重なり方だった。市場小路は、曲がり角の奥に時間が隠れていた。牛窓の通りは、海の光の中に時間が混じっている。


「ポスターの牛窓、きれいすぎますね」


 紬が言った。


「悪口?」

「違います。観光ポスターとしては正しいです」

「じゃあ現実は?」

「余白に生活が入ります」


 紬らしい言い方だった。


「ポスターの海は、余白がきれいです。青が広くて、白いヨットがあって、見る場所が分かりやすい」

「うん」

「でも、実際の牛窓は、余白にロープとか、車とか、洗濯物とか、店の張り紙とか、人の声とかが入ります」

「ノイズ?」

「はい。でも、嫌なノイズではないです」


 その言葉に、私は少し笑った。


「変わったな」

「何がですか」

「前はノイズ嫌いじゃった」

「今も嫌いです。整理されていないものは、基本的に嫌です」

「そこは変わらんの」

「でも、消していいものと、消したら駄目なものがある気がしてきました」


 通りの先に、海が見えた。ポスターのような青ではない。もっと鈍く、もっと揺れている。

 白く反射した光の中を、小さな船がゆっくり進んでいる。海は、紙の上では止まっていた。ここでは当たり前だが、動いている。


 私は立ち止まった。昭和五十七年のポスターに描かれていた牛窓。

 図書館の冊子に活字で載っていた山本健治。

 支所の空気。

 今目の前にある海。

 それらが、少しずつ同じ面に乗り始めている。

 線ではなく、面で見る。またその言葉が浮かんだ。まだ調査資料には書かない。けれど、今日は少しだけ近く感じた。


「先輩」


 紬が言った。


「今、いい感じのこと考えてます?」

「少しだけ」

「資料用には冷ましてください」

「分かっとる」


 私は調査資料を開き、短く書いた。

 牛窓支所。旧牛窓町役場の時間の継続。

 観光協会関係資料、確認要検討。

 当時関係者聞き取り、要否検討。

 牛窓のポスター表現と現地の生活感の差。USHIMADO表記、複数資料に確認。


「USHIMADO」


 紬が覗き込んで読んだ。


「英字にすると、急に観光地っぽいですね」

「そうじゃな」

「BIZEN FUKUOKAとは、また違います」

「うん」

「でも、どちらも同じ市なんですよね」

「今はな」

「今は」


 その「今は」が、少しだけ重かった。


 牛窓、長船、邑久。今は一つの市だ。けれど、資料の中では別々の町で、暮らしの中にもまだ少しずつ線が残っている。私たちはその線を、消すのではなく、どうつなぐかを探しているのかもしれない。


 いや。また言いすぎた。私は調査資料に「かもしれない」と書きそうになって、やめた。今日のところは、そこまで書かなくていい。


「次は、観光協会ですね」


 紬が言った。


「行く前に、聞くことを冷やす」

「熱いうちに行かないんですね」

「熱いうちに行くと、たぶん余計なことを言う」

「それは見たいですけど、止めます」


 港の向こうで、白い船がゆっくり向きを変えた。ポスターの中では止まっていた牛窓が、少しずつ動き始めていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ