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瀬戸内カラー  作者: 秋澄しえる


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第3章「言えることから、積む」 Scene11

 観光センター「瀬戸内きらり館」は、静かではなかった。それだけで、私は少し救われた。


 資料室の静けさでも、図書館の静けさでも、支所の静けさでもない。パンフレットを手に取る音、土産物の袋がこすれる音、フェリーの時間を尋ねる声、誰かが笑う声。入口の自動ドアが開くたびに、外の光と潮の匂いが少しだけ入ってくる。ここでは、観光が現在進行形で動いていた。


 昭和五十七年のポスターも、古い冊子のクレジットも、支所の複製資料も、どこかで時間を止めていたけれど、ここでは時間が止まっていない。

 パンフレットは減るし、スタッフの人は補充するし、観光客はフェリーに乗り遅れないように時計を見る。牛窓は、資料の中だけではなく、今日も誰かの目的地だった。


「前島行きですか? はいはい、乗り場は出て右手です。時間だけよう見とってくださいね。島でのんびりしすぎたら帰りに焦るけぇ。いや、帰れんことはないですよ。焦るだけです」


 カウンターの向こうで、よく通る声がした。声の主は、五十代くらいの女性だった。明るい色のカーディガンを羽織り、首から名札を下げている。声が大きいのに、押しつけがましくない。観光客の不安を、笑いながらほどくのがうまい人だと思った。


 その人は、前島へ行くらしい夫婦にフェリー時刻表を渡し、ついでに別の棚からパンフレットを一枚抜いた。


「こっちも持って行かれぇ。歩くなら日陰少ないけぇ、水分忘れんように。はい、楽しんできてください」


 夫婦が礼を言って出ていくと、女性はこちらを見た。


「はい、お待たせしました。観光ですか、調査ですか、迷子ですか」


 紬が隣で小さく笑った。


「瀬戸内市役所観光文化戦略課の宮地と申します」

「ああ、市役所の方。宮地さんじゃな。聞いとります」

「あ、もしかして森下さんから」

「そうそう。森下さんから、古い観光資料を探しとる人が行くけぇ、頼むわって」


 早い。資料より、人の口の方が速いことがある。


「小野寺です。ここで案内をしとります。瀬戸内市観光協会の方も少し。まあ、細かい所属を言うと長くなるんで、牛窓の案内所の人、でええです」

「椎名紬です」


 紬が頭を下げた。


「外部のデザイナーです。今日は一般利用者として同行しています」

「きっちりしとるなあ。ええことです。最近はそこ、大事じゃけぇ」


 小野寺さんは頷きながら、カウンターの内側から出てきた。


「で、何を探しとるん?」

「昭和五十七年頃の観光資料についてです。資料上では『牛窓町観光協会』という名前が出てくるのですが」

「ああ、昔の名前じゃな」


 小野寺さんは、あっさり言った。


「今はそのままの形ではないです。瀬戸内市になって、観光の組織もまとまっとる。けど、お客さんは今でも『牛窓の観光案内所はどこですか』って言います。そっちの方が通じるんよ。入口は、名前より分かりやすさじゃけぇ」


 その言い方に、少しだけ胸を突かれた。組織の名前は変わる。けれど、道を尋ねる人の口の中では、土地の名前が残る。


「昭和五十七年の資料で、山本健治という名前を見つけました。牛窓町役場観光係、写真提供・協力欄です」


「山本健治さん?」


 小野寺さんは、そこで目を細めた。記憶を探す顔、というより、人の名前が入っている引き出しを勢いよく開けている顔だった。


「ああ、聞いたことあるで。役場の山本さんじゃろ」

「ご存じですか」

「直接は知らんのよ。私がここに入った時には、もうおられんかったと思う。でも名前は出る。昔の写真の話になるとな、山本さんの名前がひょいっと出るんよ」

「写真の関係で名前が出るんですか」

「そう。写真の人、いう感じで」


 写真の人。私は調査資料を開くのを思いとどまった。ここで紙を先に出すと、小野寺さんの言葉の勢いを止めてしまう気がした。資料を開く前に、人の声を聞く。調査が新しいフェーズに入ったのだと、自分に言い聞かせる。


「写真を撮っていた方、という意味でしょうか」

「そこがなあ、はっきりせんのよ。撮った人なんか、集めた人なんか、役場で整理しとった人なんか。人によって言い方が違うんじゃと思う」

「なるほど」

「昔の観光の写真って、誰が撮ったかより、誰が持っとるかの方が大事な時がありますからね。『あの写真は山本さんに聞け』みたいな」


 小野寺さんは、カウンターの上に置いてあった牛窓のマップを指で軽く叩いた。


「観光って、地図より人の名前で動くことがあるんよ」


 その言葉は、森下さんの言葉とは違う方向から、同じ場所に刺さった。資料も、人間が作るもの。そして観光は、人間が運ぶもの。


「もう一つ伺いたいことがあります。昭和五十七年頃の資料に、『広域観光素材』という言葉がありました」

「広域観光素材?」


 小野寺さんは、はっきり顔をしかめた。


「固ぇ名前じゃなあ」

「資料にはそうありました」

「資料は固ぇこと言うけぇな。人の口に出る時は、だいたい柔らかくなるんよ」

「人の口では、どう変わるんですか」

「広域観光ルートとか」


 紬が、横で少し姿勢を変えた。私は胸の中で、何かが音を立てるのを感じた。


「聞いたことはあります。牛窓だけじゃのうて、あっちもこっちも回ってもらおう、いう話。昔も今も、観光は一か所だけじゃ弱いんよ」

「それは、牛窓以外の地域も含む話ですか」

「そうじゃった気がする。けど、どこまで本気で進んだ話かは分からん。資料で見たんか、人から聞いたんかも、ちょっと混ざっとる」


 小野寺さんは、自分で笑った。


「ほら、もう揺れとるじゃろ」

「はい」

「人の記憶はこうです。困るけど、これしか残っとらんこともある」


 明るく言う。それが、ありがたかった。同じことを静かに言われたら、たぶん少し重くなる。けれど小野寺さんが言うと、記憶の揺れまで含めて、海辺の風みたいに感じられる。頼りないのに、前へ押してくる。


「島も絡んどったような気がするんよなあ」


 小野寺さんから、ふと思い出したような言葉がでた。


「島、ですか」

「いや、そこは混ざっとるかもしれん。牛窓は島の話が多いけぇ。今の観光の話と、昔の話と、私の頭の中で同じ棚に入っとる可能性がある」

「同じ棚?」

「整理が悪いんよ、私の頭の中は」


 紬が笑った。


「でも、見出しは付いてそうです」

「見出しだけは派手なんよ」


 小野寺さんは楽しそうに言った。


 私は調査資料に書きたい衝動をこらえた。島。広域観光ルート。山本健治。写真の人。どれも書きたい。けれど今は、言葉の順番を壊したくなかった。

 小野寺さんは、急に手を打った。


「そうそう、田原さんじゃ」

「田原さん?」

「田原悟さん。昔、観光協会の手伝いをようしとった人。写真も船も道も、なんでも知っとる。いや、知っとるというか、話してくれる」

「山本さんのことも」

「聞いたことあるはずじゃと思う。山本さんの名前を出す人の中に、田原さんがおった気がするんよ」

「お会いできますか」

「いきなり行ったらおえん」


 小野寺さんは、そこだけ急にきっぱり言った。豪快だけれど、雑ではない。


「昔の話を聞く時は、こっちの都合だけで行ったら駄目なんよ。相手にも生活があるし、話したい日と話したくない日がある」

「はい」

「私から声かける。田原さん、話し出したら長ぇけぇ、こっちも段取りせんと」

「どのくらい長いんですか」

「三十分で済む話が、二時間になります」

「それは」

「でもな」


 小野寺さんは、にっと笑った。


「長い話の中に、たまに宝物が落ちとるんよ」


 紬が、その言葉を聞いて少し目を細めた。デザイナーが、散らかった机の上から必要な一枚を見つける時の顔だった。


「田原さんは、ここへ来られる方ですか」

「来ます。来るけど、呼んだら来る人ではないなあ。こっちが行った方が早いかもしれん」

「では、日を改めて」

「うーん」


 小野寺さんは、腕を組んだ。考えている時間は短かった。


「今、近くにおるかもしれん」

「今ですか」

「午前中に船の話で寄っとったんよ。まだ港の方におるかも。顔が見えたら運がええくらいで」


 急に場が動いた。私は思わず調査資料を閉じた。


「でも、業務中では」

「私はちょっと抜けるだけです。田原さんがおるか確認するだけ。おらんかったら戻る」

「いいんですか」

「よくはないけど、できる範囲ならできる」


 小野寺さんはカウンターの奥に向かって声を張った。


「高橋さん!」


 奥から、若い男性の声が返ってきた。


「はい」

「私、ちょっと外出てくるけぇ、あと頼むわ。フェリーの時間は白い紙、オリーブ園は緑のパンフ、前島のこと聞かれたら地図の右下! 分からんかったら戻るまで待ってもらって!」

「小野寺さんの『ちょっと』は信用してませんよ」

「今日は信用して!」

「何分ですか」

「十五分」

「三十分ですね」

「二十分にまけて!」


 店内にいた観光客が、くすっと笑った。高橋さんは慣れているらしく、奥から「行ってらっしゃい」とだけ返した。小野寺さんは、こちらを振り向いた。


「ほんなら行こうか。田原さんの話は、机の前で待っとっても来んけぇな」


 紬が私を見た。私は小さく頷いた。


 こういう時、いつもの私は、資料を整えてから動きたがる。聞くことを三つに絞り、確認事項を書き、関係先に連絡し、段取りを決める。もちろん、それは大事だ。でも、人の記憶は、たぶんこちらの段取りどおりには並んでくれない。


 小野寺さんは、きらり館を出ると、迷わず港の方へ歩き出した。歩き方が速い。観光客に道を聞かれたら、そのまま案内しながら目的地まで連れていきそうな歩き方だった。


 外は明るかった。フェリー乗り場の方から、人の声と、短い汽笛のような音が聞こえる。海は近い。支所から歩いた時とはまた違う、観光の入口としての牛窓がそこにあった。


「宮地さん」


 小野寺さんが、歩きながら言った。


「はい」

「山本さんのこと、すぐ答えが出ると思わん方がええよ」

「分かっています」

「分かっとるならええ。けど、忘れんように。人の話は、まっすぐ出てこん。横から出たり、笑い話に混じったり、関係ない昔話の最後にぽろっと出たりする」

「はい」

「そこを拾うんは、あんたらの仕事じゃ」


 あんたら。その言い方が、妙に嬉しかった。市役所の職員としてだけではなく、資料を追う変わった二人としてだけでもなく、いま同じ方向へ歩いている人間として呼ばれた感じがした。

 紬が、少し後ろから言った。


「小野寺さん」

「何?」

「さっき、山本さんの呼び方が変わりました」

「呼び方?」

「最初は山本健治さんでした。次に役場の山本さん。それから、写真の人」

「ああ、そうかもしれん」

「名前が、資料から人に近づいた感じがしました」


 小野寺さんは振り返って、ぱっと笑った。


「椎名さん、ええこと言うなあ」

「仕事柄、呼び方は気になります」

「ほんなら覚えとって。地元で名前を聞く時は、正式名称だけじゃ足りんよ。山本健治で知らん人が、山本さんなら知っとるかもしれん。役場の山本さんなら、もっと近づくかもしれん。写真の山本さんなら、ぽんと出てくるかもしれん」

「検索語みたいですね」


 紬が言った。


「人間の検索語! 確かにそうじゃな!」


 小野寺さんは、豪快に笑った。私はそこで、ようやく調査資料を開いた。歩きながら書くのは少し難しい。それでも、今書かないと、言葉の温度が逃げる気がした。


 山本健治。役場の山本さん。

 写真の人。

 広域観光素材 → 広域観光ルート?

 島の話、混線可能性あり。田原悟。


 最後に、迷ってから一行足した。


 人間の検索語。


 正式な調査資料には向かない。黒田さんに見せたら、たぶん眉が動く。森下さんなら、意味は分かりますが別紙に、と言うかもしれない。でも、今は消したくなかった。


 瀬戸内きらり館を出て、まだ数分しか経っていない。それなのに、活字だった山本健治は、誰かの口の中で少しだけ揺れた。

 山本健治さん。役場の山本さん。写真の人。

 その揺れを、私はまだ資料とは呼べない。けれど、入口なら、たしかに開いていた。

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