第2章「残された線」 Scene8
文化財担当に電話をする前に、私は確認事項をもう一度見直した。
一、写真の撮影場所。
二、石柱状のものの名称・性格。
三、現存状況。
四、撤去・移設・破損等の記録有無。
五、観光資料として扱う場合の注意点。
私の中では、牛窓の海と、備前福岡の市場小路と、古い写真の端に写った小さな石柱が、まだ落ち着きなく動いている。
私はそれを、無理やり紙の上に戻した。
「電話しますか」
紬が聞いた。
「する」
「私はいていいんですか」
「最初は私が外で話す」
「分かりました」
「内容によっては、先方に小会議室に来てもらう」
「はい」
昨日より、こういう確認が早い。
いいことなのだろう。たぶん。
私は小会議室を出て、自席に戻り、教育委員会側の文化財担当に電話をかけた。
内線番号は庁内一覧にある。
こういう時、役所の内線表は少し頼もしい。
数回の呼び出し音のあと、落ち着いた女性の声が出た。
「社会教育課、森下です」
「観光文化戦略課の宮地です。お忙しいところすみません」
「はい。宮地さん、どうされました?」
「長船町福岡、市場小路周辺の石造物について、少し確認したいことがありまして」
「石造物」
森下さんの声が、そこで少しだけ変わった。
警戒ではない。
面倒そうでもない。
どちらかと言えば、机の上でペンを持ち直したような声だった。
「石碑ですか、道標ですか」
「まだ、どちらとも言えません。古い観光パンフレットの写真の端に、石柱状のものが写っています」
「現地では確認されました?」
「今日、該当しそうな場所を歩きましたが、少なくとも撮影した写真には写っていませんでした」
「現存未確認、ということですね」
「はい」
早い。
私が言いたかった言葉を、森下さんは何のためらいもなく使った。
「写真には文字が見えますか」
「不鮮明ですが、『牛窓』に見える可能性があります。ただし、こちらがそう読みたいだけの可能性もあります」
「いいですね」
「いい、ですか」
「今の言い方です。読める、ではなく、読める可能性がある。大事です」
文化財担当にも黒田さんがいる。
いや、黒田さんとは違う。
声の温度が違う。
黒田さんは仕事の外枠を引く。
森下さんは、ものの輪郭をなぞっている感覚がある。
「写真、見た方がよさそうですね」
「メールで送ってもいいでしょうか」
「送ってください。ただ、画面で見るより現物も見たいです。今日、私、本庁に行く用事があります」
「本庁に?」
「はい。別件の打ち合わせで。三十分後くらいなら寄れます」
「ありがとうございます。では、お待ちしております」
私は礼を言って電話を切った。
それから、必要な写真だけを選び、古いパンフレットの該当部分をスキャンした画像と一緒に森下さんへ送った。
件名は迷った末に、こうした。
長船町福岡・市場小路周辺の石造物確認について
面白くはない。
でも、面白い件名は仕事には向かない。
送信してから、小会議室へ戻った。
紬は私の顔を見た。
「来てもらえるんですか」
「三十分後くらいに」
「文化財担当の人って、怖いですか」
「人による」
「森下さんは?」
「怖くはない。でも、雑なことを言うと静かに正される感じがした」
「先輩の周り、静かに正す人が多くないですか」
「私の周り?」
「はい。そういう星の下なんでしょうね」
「めっちゃ効くからやめて」
紬は少し笑った。
三十分後、森下さんは小会議室に来てくれた。
紺色のカーディガンに、動きやすそうな靴。
年齢は黒田さんより少し下だろうか。髪は低い位置でまとめてあり、手には薄いファイルと、A4のクリップボードを持っている。
派手さはないが、入ってきた瞬間に、資料を扱う人だと分かる。
「お待たせしました。社会教育課の森下です」
「観光文化戦略課の宮地です。御足労いただき、ありがとうございます」
「椎名紬です。外部で、公開資料の視覚確認をしています」
紬が先に自分の立場を言った。
森下さんは頷いた。
「分かりました。未公開の台帳や内部資料は出しません。今日は、いただいた写真と、公開資料の範囲で見ます」
「はい」
「それで十分です」
紬は少しだけ肩の力を抜いた。
森下さんは席に着くと、まず印刷した写真を見た。
古いパンフレットから拡大した写真。
今日撮った比較写真。
私の調査資料。
森下さんは、すぐには話さなかった。
写真を一枚見て、次を見て、また最初に戻る。
指で何かをなぞることもしない。
赤ペンも持たない。
ただ、距離を少しずつ変えながら見る。
紬の見る沈黙とは違う。
紬は配置を見る。
森下さんは、ものが何であるかを急いで決めないために見ているよう。
「まず」
森下さんが言った。
「これは、現時点では道標ではありません」
「はい」
分かっていたつもりだった。
でも、言葉にされると、少しだけ胸の奥が沈んだ。
「道標かもしれないものが写った写真です」
「はい」
「石碑かもしれない。境界標かもしれない。別の用途の石柱かもしれない。そもそも石造物ではなく、写り込みや別の構造物の一部かもしれない」
「はい」
「文字も、まだ読めません」
「『牛窓』に見える余地は」
「あります。ただし、今言えるのはそこまでです」
森下さんの言葉は、淡々としていた。
冷たいわけではない。
むしろ、ものを雑に扱わないために温度を下げているように聞こえる。
「読めるかどうかより、読んだことにしてしまう時が一番危ないです」
森下さんは写真を机に置いた。
「人は、見たい字を読みます。特に、先に物語ができている時は」
「…はい」
痛かった。
痛いが、正しい。
なぜ備前福岡を調査したかの理由を告げ、これまでの経緯も説明した。
「宮地さんたちは、牛窓のポスターから備前福岡という読み取りをしたわけですね」
「はい。ただし、それも読める可能性です」
「その慎重さは必要です。そこへさらに、この写真の石柱状のものを重ねると、見る側は一気に『牛窓と福岡をつなぐ道標があった』と受け取ります」
森下さんは、私の言外の気持ちを静かに受け止めてくれた。
「言えないことを、言える形に見せてはいけません」
小会議室が、少し静かになった。
私は写真を見た。
使いたい。
そう思っている自分がいる。
この写真があれば、説明が早い。
牛窓のポスターから備前福岡が出てきたこと。
備前福岡と牛窓が、道でつながるかもしれないこと。
全部が、一枚の写真で強くなる。
でも、強いものほど危ない。
「では、今は外向きの資料には載せない方がいいですね」
紬が言った。
私が言うより早かった。
紬の声は落ち着いていた。
「はい」
森下さんが頷く。
「少なくとも、根拠としては載せない方がいいです。内部調査メモとして残すことはできます。写真の出典、確認した範囲、現存未確認であること、文化財担当として現時点では道標と判断できないこと。それらを記録してください」
「使わないことは、なかったことにすることではない」
「そうです」
森下さんは、そこで少しだけ表情を緩めた。
「残し方を決めるのも、仕事です」
私はノートに書いた。
石柱状のもの。
外向き資料には使用しない。
内部調査メモとして残す。
現存未確認。
道標とは判断できない。
継続確認。
書きながら、少しだけ息を吐いた。
石を諦めることは、道を諦めることではない。
道標が一つあれば、そこに目が集まる。
でも、道というものは本来、一つの石ではなく、人や物が動いた積み重ねだ。
市場に集まる人。
港へ向かう荷。
職人の手。
町から町へ移る言葉。
そういうものの方が、ずっと道に近い。
「宮地さん」
森下さんが言った。
「はい」
「この判断は、悪いことではありません」
「そうでしょうか」
「未確認のものを中心から外すことで、企画全体の信頼性は上がります。文化財担当としても、根拠が整理されている企画なら協力しやすいです」
紬も頷いた。
「デザインでも同じです。何でも載せると、結局何も伝わりません。見せないものを決めるのも、設計です」
見せないものを決める。
それは、削ることとは少し違う気がした。
削る、という言葉には、いらないものを捨てる響きがある。
でもこれは違う。
まだ前に出せないものを、無理に見せない。
奥に置く。
次の確認のために残す。
使わないことは、捨てることではない。
まだ言えないものを、言えるもののふりで前に出さないこと。
それも、資料に対する礼儀なのだと思った。
「それから」
森下さんは、古いパンフレットの本文へ目を移した。
「道標そのものとは別に、備前福岡が市場町であること、街道や港との関係を考えることはできます。そこは文化財や地域史の公開資料から追えます」
「牛窓との関係も?」
「可能性としては。ただし、言葉だけでつなげないでください」
「実体を確認する?」
「はい。便利な言葉ほど、実体を確認してください」
また一つ、釘を刺された。
釘の数だけ、調査資料は丈夫になる。
そう思うことにする。
「図書館の郷土資料も見た方がいいですね」
森下さんが言った。
「市の図書館ですか」
「はい。公開資料で確認できるものがあります。牛窓往来、備前福岡、市場関係、旧町の観光資料。まずはそこからで十分です」
「探すもの、多いですね」
「多いです。だから絞ってください」
森下さんはさらりと言った。
黒田さんと同じ種類のことを、違う声で言う。
私は少し笑いそうになったが、笑う場面ではなかったので、真面目な顔で頷いた。
「三つにします」
「いいですね」
「牛窓往来。石柱状のもの。山本健治」
「山本健治さんは、人探しではなく、資料上の名前として確認してください」
「はい」
人の名前は、物語にしやすい。
黒田さんの言葉が戻ってくる。
私はノートに書いた。
図書館確認。
一、牛窓往来。
二、石柱状のもの。
三、山本健治。
森下さんは、それを見て小さく頷いた。
「それで十分です。三つでも多いくらいですが」
「そこまで黒田さんと同じことを言いますか」
「黒田さん?黒田課長補佐?」
「はい」
「では、正しいですね」
森下さんは平然と言った。
確認が終わると、森下さんは別件の打ち合わせへ向かった。
小会議室には、私と紬と、古い写真と、少し重くなった調査メモが残った。
「先輩」
紬が言った。
「何」
「ちょっと残念そうです」
「出とる?」
「出てます」
「使いたかったんじゃろうな」
「石柱を?」
「うん。すごく分かりやすいから」
「でも、使わない方が強くなることもあります」
「紬はそれ、さっきから自然に言えるな」
「仕事なので」
その言い方は、静かだった。
でも、少しだけ頼もしかった。
私は写真をクリアファイルに入れた。
付箋には、さっきよりも少し丁寧に書く。
石柱状のもの。
道標とは断定不可。
外向き使用なし。
内部調査継続。
その文字は、小さい。
けれど、さっきよりも落ち着いて見えた。
小会議室の窓から見えるのは、海ではない。
それでも、今日歩いた備前福岡の道と、資料室の青い海は、私の中でまだゆっくりつながろうとしている。
ただし、まだ線にはしない。
私はノートを閉じた。
「数日、置こう」
「いいんですか」
「たぶん、今すぐ動くと危ない」
「成長しましたね」
「鍛えられとるだけじゃと思う」
紬は少しだけ笑った。
面白いものを見つけた時ほど、急ぐな。
急ぐと、見落とす。
四十四年前の夏は、まだ遠い。
でも、こちらの足元は、少しだけ固くなった気がした。




