第2章「残された線」 Scene7
本庁に戻ると、海の青も、市場小路の曲がり角も、いったん照明の下で平らになった。
現地で見た道の曲がり、湿った六月の風、家と家の間に落ちていた影。
そういうものは、庁舎に入った途端、少し遠くなる。
市役所の床は、土地の凹凸を持ち込まない。どこを歩いてきても、靴音は同じように響く。
紬は一階のロビーで立ち止まった。
「私は、どこまで入っていいですか」
その聞き方が、もう昨日とは違っていた。
「小会議室まで」
「部署の中は?」
「入らん方がいい」
「ですよね」
紬は少しだけ頷いた。
残念そうではなかった。
むしろ、その線が引かれていることに安心したようにも見えた。
私も同じだった。
執務室に外部の人を入れる、という選択肢は最初からなかった。
庁内端末も、共有フォルダも、紙の資料も、外の人にそのまま見せていいものではない。
黒田さんの声が、まだ頭の中にいる。
曖昧なまま進めると、あとで全員が困る。
職員も、外の人も、資料もじゃ。
「少し待ってて。公開資料として出せるものだけ、小会議室に持ってくる」
「はい」
「退屈かもしれんけど」
「大丈夫です。スマホがあります」
「現代っこ」
「先輩もでしょ」
それはそうだ。
私は紬を小会議室に案内してから、観光文化戦略課へ戻った。
自席に座ると、さっきまで歩いていた市場小路が、急に遠い場所になる。
机の上には昨日からの調査資料、付箋、課内の回覧、未処理のメール。
現地は黙っていたが、仕事は黙ってくれない。
まず、今日のメモを整理した。
事実。
長船町福岡を現地確認。市場小路周辺を歩行。
現地で海は見えない。
観光地として整備された大型案内は限定的。
生活道路としての利用あり。
推測。
牛窓ポスターのBIZEN FUKUOKAとの関連は未確認。
市場小路の道の曲がりと、ポスター上の視線誘導に類似した印象あり。
椎名所見。
紙面・現地ともに、視線がまっすぐ流れない。
道は、見せるより入ってもらう設計が必要。
要確認。
牛窓との道・街道関係。
市場・港の関係。
道標・石碑・案内物。
昭和五十七年前後の観光資料。
項目に分けると、調査は仕事の形をしてくれる。
けれど、形が整っただけで、中身まで静かになるわけではない。
私の中では、青い海と、備前福岡の道と、白いヨットと、山本健治という名前が、まだ落ち着きなく動いている。
線を引きたがっている。
私はそれを、無理やり表の中へ戻した。
次に、庁内の共有フォルダを開いた。
市役所の調査は、歩いて終わりではない。
歩いたものを、検索できる言葉に直さなければならない。
検索窓に、備前福岡、と入れる。
思ったより出た。
観光パンフレット
イベント資料
文化財関係の案内
まち歩きルート
過去のチラシ
写真データ
広報用の原稿案
備前福岡は、調べる側に優しくない。
情報が少ないのではなく、多い。
多すぎる。
歴史好きには楽園だが、担当者には少し厄介だ。
私は検索語を変えた。
市場小路
石碑
道標
長船 福岡 案内
牛窓
牛窓、と入れた瞬間、関係のない資料が一気に増えた。
牛窓の観光資料、海水浴、オリーブ、宿泊、夕陽、フェリー。
画面の中に、また海が戻ってくる。
「違う違う」
小さく呟いて、検索条件を絞る。
牛窓 福岡
牛窓 道標
長船 牛窓
街道 牛窓
市場小路 道標
それらしいものは、すぐには出てこない。
市役所の共有フォルダは万能ではない。
誰かが保存した名前でしか探せないし、誰かが分類した場所にしか資料はない。
検索できないものは、存在しないのではない。
ただ、今の私に見つけられないだけだ。
私は深呼吸して、紙の資料に移った。
公開済みの観光パンフレット。
過去のまち歩き資料。
市民向けに配布された地域案内。
図書館に置かれていたものと同じ版の控え。
小会議室へ持っていける範囲の資料を選び、付箋を貼る。
持ち出すのではない。庁内で、公開資料として確認する。
自分に言い聞かせる必要があるあたり、まだ少し危ない。
小会議室に戻ると、紬はスマートフォンを見ていた。
ただし、画面に映っていたのはSNSではなく、さっき撮った市場小路の写真だった。
「待たせた」
「大丈夫です」
「公開資料だけ」
「はい」
私は机に資料を並べた。
紬は本文より先に、紙面全体を見た。
写真の位置、余白、キャプションの入り方、図版の切り取られ方。
私が説明文を読んでいる横で、紬はページの端から端へ視線を移している。
「先輩」
「何」
「本文じゃなくて、端です」
「端?」
紬が指したのは、古い観光パンフレットの一ページだった。
大きく載っているのは、市場小路の町並み写真だ。
道が少し曲がり、家並みが奥へ続いている。
よくある町歩き用の写真に見える。
本文には、備前福岡の町並みや市場の歴史について、短い説明がある。
私なら、本文を読む。
紬は、写真の端を見ていた。
「ここ」
ページの右端。
道の曲がり角の少し手前。
家の影に半分隠れるように、小さな石柱のようなものが写っている。
「石?」
「たぶん」
「道標?」
言った瞬間、私は自分の声が少し浮いたのを感じた。
紬もすぐにそれを拾う。
「先輩、今のは速いです」
「速い?」
「石を見て、道標まで行くのが速い」
「…はい」
私は言い直した。
「石柱状のもの。文字があるかは不明。名称・性格は未確認」
「よくできました」
紬は頷いた。
正しいことを言われる前に、自分で修正できると少しだけ成長した気がする。
ただし、その成長が嬉しいかどうかは別である。
私は写真を拡大した。
印刷が粗い。
石柱のように見えるものは、確かにある。
縦に細く、表面に何かが刻まれているようにも見える。
しかし、文字までは読めない。
読める気もするし、読めない気もする。
こういうものが、一番危ない。
「牛窓って書いてあるように見えませんか」
紬が言った。
私は画面に近づいた。
確かに、そう見える気がした。
牛。
窓。
いや、そう見たいだけかもしれない。
「言わんで」
「すみません」
「いや、言ってもいい。でも、資料にはまだ書けん」
「可能性、ですか」
「うん」
私はメモに書いた。
古い観光パンフレット写真端。
市場小路周辺と見られる場所。
石柱状のもの。
文字らしきものあり。
「牛窓」と読める可能性あり。ただし不鮮明。
現存未確認。
要文化財担当確認。
書き終えてから、付箋を貼る。
牛窓と読める可能性のある石柱状のもの。
現存未確認。
要再確認。
付箋の文字は、小さいのに妙に目立った。
「仕事になるということは」
私は言った。
「面白いだけでは済まなくなるということじゃな」
紬は写真を見たまま頷いた。
「これ、本当に牛窓って書いてあったら、どういう意味なんですか」
「分からん」
「ですよね」
「備前福岡の市場小路に、牛窓と読める道標らしきものが写っている。今言えるのはそこまで」
「かなり我慢していますね」
「すごく」
我慢している。
頭の中ではもう、線が引かれ始めている。
牛窓の海。
備前福岡の市場小路。
白いヨット。
山本健治。
牛窓道標らしき石。
けれど、線は引けばいいというものではない。
引いた線が間違っていれば、見えるはずのものを見落とす。
線ではなく、面で見る。
私はそう書きかけて、やめた。
それは調査資料に書く言葉ではない。
たぶん、もう少し後で自分に戻ってくる言葉だ。
代わりに、資料の端に小さく書いた。
断定不可。
「文化財担当に聞くべきですね」
紬が言った。
「うん」
「私は同席していいんですか」
「最初は私が確認する。内容によって、小会議室に来てもらえるか聞く」
「はい」
紬の返事は早かった。
その早さに、少し寂しいような気もする。
でも、それは私が甘えていただけだ。
私は写真を印刷し、資料の該当箇所を控え、確認事項を別紙にまとめた。
面白くなってきた、と言いたい気持ちはあった。
けれど、口には出さなかった。




