第2章「残された線」 Scene6
紬が黙った時は、だいたい何かを見ている。
話を聞いていないのではない。
こちらと違う場所を見ているだけだ。
高校の頃からそうだった。
美術室でこちらが絵の具の話をしている横で、紬は紙の端の余白を見ていた。文化祭のポスターを作っている時も、タイトルより先に、人の視線がどこで止まるかを気にしていた。
今もそうだ。
市場小路の曲がり角を前にして、紬はスマートフォンの画面を見たまま動かない。
画面には、牛窓のポスターを撮影した記録画像が表示されている。
青い海。白いヨット。資料室では紙の上にあったものが、今は手の中の光になっている。
「何か見えた?」
私が聞くと、紬はすぐには答えなかった。
かわりに、画面を指で少し拡大する。ヨットの一つが大きくなり、帆の白が画面いっぱいに近づく。
さらに指を滑らせる。
別のヨット。
そのまた別のヨット。
私は黙って待った。
急ぐと、見落とす。
黒田さんの声が、こういう時ほどよく聞こえる。
「先輩」
紬がようやく言った。
「はい」
「これ、文字だけじゃないかもしれません」
「また嫌な言い方をする」
「嫌なものを見つけたので」
紬はスマートフォンをこちらに向けた。
そこには、私たちが資料室で何度も見たヨットの配置がある。
そこからBIZEN FUKUOKAという文字列を読んだ。
正確には、読める可能性を見つけた。
帆の向き。
ふくらみ方。
点の位置。
同じ処理には同じ情報がある。
紬の言葉を借りれば、そういう作り方をした人の痕跡だった。
「新しい文字?」
「違います」
「違うん」
「たぶん、文字を増やすと破綻します」
「どう破綻するん?」
「BIZEN FUKUOKAを読むのに使った情報と、別の文字列を読む情報が同じ場所に混ざると、どちらが正しいか分からなくなります」
「まあ、そうじゃな」
「同じヨットから別の意味を読むのも危ないです。都合が良くなりすぎる」
「黒田さんが二人おる」
「正しいことは真似していいので」
紬はそう言って、ポスター画像を少し引いた。
ヨットが点として見える程度の大きさになる。
「でも、気になるんです」
「何が」
「読む順番です」
「順番?」
「はい」
紬は画面の上で、ヨットを指でなぞった。
「資料室では、文字として拾えるところに集中しました。でも、実際にはこのポスター、視線がまっすぐ進まないんです」
「左から右じゃない?」
「はい。普通の紙面なら、目立つものから順に視線を流します。大きいもの、明るいもの、文字、余白。そういう流れがあります。でも、このポスターは、ヨットがそれを少し邪魔しています」
「邪魔」
「いい意味で、です。目が海の上をまっすぐ滑らず、ところどころで止まる」
「それが、さっき言ってた道と似とる?」
「はい」
紬は市場小路の曲がり角を見た。
私もつられて見る。
道は少し曲がり、家並みの間へ消えている。奥まで全部は見えない。けれど、見えないからこそ、足が少し前へ出る。
「この道も、まっすぐ全部は見せません」
「だから入ってみたくなる?」
「人によります」
「急に冷静」
「観光は、人によります」
それも正しい。
誰もが市場小路を歩きたいわけではない。
海だけ見て帰りたい人もいる。刀だけ見たい人もいる。そもそも歴史に興味のない人もいる。
それでも、ここへ足を向けてもらうには、入口が要る。
「牛窓のポスターの中で、目を止めるためにヨットを置いた」
「まだ仮説です」
「それが備前福岡の文字にもなっている」
「それも、まだ」
「で、実際の備前福岡には、目を止める道がある」
「それは、いま見たことです」
紬は、可能性と、見えていることを分けた。
分けられると、こちらの頭も少し整理される。
私はノートに書いた。
ポスター、視線が海を滑らない。
市場小路、道が奥を全部見せない。
共通点は、まっすぐ見せない入口。
書いてから、少しだけ首をかしげる。
これは、調査資料に書く言葉だろうか。
それとも、もう少し後で企画書に戻ってくる言葉だろうか。
「先輩、今それ、資料に書くか迷ってますね」
「読まんで」
「ペンは正直です」
「行政職員として困る」
紬は少し笑った。
「調査資料には、事実としては書けません」
「じゃあ、消す?」
「消さなくていいです。別枠です」
「別枠?」
「観察メモ。まだ根拠ではないけど、あとで設計に使うかもしれない」
「それ、仕事の資料としてあり?」
「ありです。ただし、根拠欄に置いたら駄目です」
「紬もずいぶん黒田さん化してきたな」
「必要な進化です」
私はノートの端に線を引き、そこに観察メモと書いた。
その下へ、さっきの言葉を移す。
紙面と道。
視線を止める。
入口。
書き直すと、不思議と落ち着いた。
場所を与えると、言葉は少し暴れなくなる。
私たちは市場小路をさらに歩いた。
道は細すぎるわけではない。けれど、大きな観光バスが似合う道でもない。
家の軒先に、古い木の色が残っている。新しいものと古いものが混ざっている。看板は控えめで、説明板も、観光地のように主張してはいない。
歴史がある、と言われればある。
でも、知らない人には、普通の道にも見える。
「普通に見えるって、難しいですね」
紬が言った。
「観光地っぽくないってこと?」
「はい。でも、観光地っぽく整えすぎると、たぶんここの良さが消えます」
「何もせんと、分からんまま通り過ぎる」
「そうです」
「難しいな」
「難しいです。だから設計が要ります」
紬は立ち止まり、スマートフォンで道の曲がりを一枚撮った。
記録用として、位置情報も残す。
撮る前に、通行人や車が入らないことを確認していた。
資料室で線を引かれてから、紬の動きも少し変わった気がする。
それは距離が遠くなったというより、ちゃんと並んで歩くための距離になったように見えた。
「ここから牛窓って、昔はどうつながっとったんじゃろ」
言ってから、すぐに自分で止める。
「いや、今のは推測」
「でも、調べる価値はあります」
「街道とか、市場とか、港とか」
「言葉だけなら、つながります」
「便利な言葉ほど、実体を確認せんといけん」
「黒田さんですか」
「黒田さんです」
「いいですね。だんだん脳内に住んできましたね」
「困る」
私はノートに、要確認事項を書いた。
牛窓との道。
市場と港の関係。
古い観光資料。
街道・道標・案内物。
道標、と書いたところで、少しだけ手が止まった。
「道標があったら、分かりやすいですね」
紬に分かられた。便利だが怖い。
「うん」
「牛窓へ、とか書いてあったら」
「めちゃくちゃ分かりやすい」
「分かりやすいものほど、使いたくなりますね」
「だから危ない」
道標があれば強い。
牛窓と備前福岡が、道でつながっていたことを一つの石で示せる。
読者にも、観光客にも、庁内にも説明しやすい。
説明しやすいものは、使いたくなる。
けれど、まだない。
今ここで見つけたわけでもない。
私たちは、道を歩きながら、道標があったらいいと思っただけだ。
私はノートに書いた。
道標の有無。未確認。
現地では確認できず。
資料確認が必要。
「えらい」
紬が言った。
「褒められた?」
「はい。今、先輩は見たいものを見つけたことにしませんでした」
「かなり我慢しとる」
「かなり」
市場小路を抜ける頃、空は少し白く曇ってきた。
湿った風が、道の奥からゆっくり来る。
牛窓の海の風とは違う。
潮の匂いはしない。
けれど、ここにも動いてきたものの気配がある。
人、物、言葉、道。
それらは、海のように一目で光らない。
だからこそ、紙の上に戻す時には注意がいる。
私はノートを閉じた。
「帰ろうか」
「資料を探しますか」
「うん。現地で見えたものを、資料で確認する」
「現地で見たいものを見たかもしれないから?」
「そう」
紬は少しだけ頷いた。
「いい順番です」
いい順番。
その言葉が、少し嬉しかった。
ポスターの読み順も、道の歩き順も、仕事の順番も。
間違えると、見えるものが変わる。
そのことだけは、少し分かってきた。




