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瀬戸内カラー  作者: 秋澄しえる


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第2章「残された線」 Scene5

 備前福岡には、海がない。


 当たり前のことだ。

 地図を見れば分かる。長船町福岡は内陸にある。牛窓のように、道の向こうで急に海が光る場所ではない。

 けれど、牛窓のポスターからここへ来ると、その当たり前が少しだけ不思議に思える。


 青い海の上に浮かんでいた白いヨット。

 そこから出てきた地名が、ここだった。


 六月の平日の午後、長船町福岡の道は静かだった。

 本庁を出る時には白く強かった陽射しが、ここでは少しだけ柔らかく見える。空気には湿り気がある。夏になる前の、けれど春ではもうない、岡山の六月の空気だ。


 紬は歩きながら、道の先を見ていた。


 今日は資料室ではない。

 服装は相変わらず整っているが、ここでは少しだけ紬の輪郭が町に馴染んで見える。長船で生まれた人間が長船にいる、というだけのことなのに、資料室で見た時とは違う収まり方をしている。


「海、ないですね」


 紬が言った。


「そりゃな」

「分かってます」

「じゃあ、なんで言ったん」

「牛窓のポスターから来たので」


 それは分かる。

 私たちは、まだ青い海を少し引きずっている。


 ポスターは資料室へ戻した。持ち出しはしていない。

 代わりに、記録用として許可を取って撮影した画像と、私が作った調査メモと、紬が整理した視覚所見を持ってきた。

 正確には、紬のノートそのものではない。必要な部分だけを、彼女の了解を得て、業務資料として転記したものだ。


 事実。

 推測。

 視覚的所見。

 要確認事項。


 黒田さんに言われた通り分類した。

 分類すると、仕事の顔にはなるが、鞄に入れた紙の重さは、まだ落ち着いていなかった。


「先輩」


 紬が言った。


「はい」

「歩き方が浮いてます」

「歩き方に出る?」

「出ます」

「顔だけじゃないんじゃな」

「全身です」


 困る。

 行政職員として、顔だけでなく全身で情報漏洩するのはかなり困る。


「仕事として来とる」

「分かってます」

「備前福岡の現況と、旧三町をつなぐ観光資源としての可能性を確認する」

「言い方は仕事ですね」

「中身も仕事です」

「今のところ、半分くらいは」


 紬は容赦がない。


 私は少しだけ息を吐いた。

 確かに、浮いている。

 牛窓のポスターから読めたかもしれない地名の上を、実際に歩いている。そのことが、どうしても足元を軽くしてしまう。

 けれど、軽い足で歩いた場所は、あとで資料に戻す時に危ない。

 見たいものだけを拾ってしまうから。


 備前福岡。


 歴史の本や観光案内で見ると、そこには中世の商都とか、市場町とか、そういう言葉が並ぶ。


 言葉は便利だ。

 便利だが、便利すぎる。


 ここを歩いた人たちは、自分たちが「中世の商都」に住んでいるなどと思っていなかったはずだ。

 魚を売り、米を運び、刀を買い、雨を避け、子どもを叱り、道で立ち話をした。

 ただの毎日が、あとから歴史になる。


 それは、役所の資料にも似ている。

 作っている時には、未来の誰かが読むとは思っていない。けれど、残れば、読まれる。

 四十四年前のポスターだって、たぶん作った人は、令和の市職員とデザイナーにヨットの位置を数えられるとは思っていなかっただろう。


「ここを、牛窓のポスターに入れたかったんでしょうか」


 紬が言った。


 私はすぐには答えなかった。


 牛窓の海から、長船の福岡へ。

 紙の上では、白いヨットの向きと位置がそれをつないでいた。

 だが、現実の道に立つと、そこには別の距離がある。


 海の町と、市場の町。

 観光ポスターに載る青い場所と、観光ポスターでは一枚にしにくい静かな場所。


「分からん」

「ですよね」

「ただ」


 私は市場小路の方を見た。


「ここは、見せにくい場所じゃなと思う」

「見せにくい?」

「海みたいに一目で分かりやすくない」

「写真映えしにくいってことですか」

「それもある。でも、そういうことだけじゃなくて」


 言いながら、私は言葉を探す。


 ポスターにするには、しやすいものと、しにくいものがある。

 海は強い。青い。広い。誰が見てもきれいだと言いやすい。

 刀も強い。形がある。物語がある。


 けれど、道の曲がりや、市場の記憶や、地元の人が昔から「そこにある」と思ってきたものは、紙の上に乗せる時に少し難しい。

 見せようとした瞬間、こぼれるものがある。


「先輩」


 紬は少し先の道を見たまま言った。


「はい」

「見せにくいものを、見せやすいものに無理やり寄せると、壊れます」

「壊れる?」

「はい。道を、海みたいに扱うのはたぶん違います」

「道は道として見せろと」

「まだ、そう言えるほど見えてません」


 紬は一度立ち止まった。

 道はまっすぐではない。少し曲がり、家並みの間へ入っていく。奥まで見えるようで、全部は見えない。

 観光ポスターの海のように、一枚で気持ちよく開ける景色ではなかった。

 でも、その分、歩かなければ分からないものがある。


「ここ、ポスターのヨットと少し似てます」

「道が?」

「はい」

「どう似とるん」

「まっすぐ目を進ませないところです」


 私は道を見た。

 紬は続ける。


「ポスターでは、ヨットが目をまっすぐ流さなかった。ここも、道がまっすぐ見えない。先が分かるようで、少し隠れる」

「それは、デザインの話?」

「歩く人の視線の話です」


 紙面と土地。

 ポスターの中のヨットと、市場小路の曲がり。

 全然違うもののはずなのに、紬の言葉を聞くと、同じ種類のものに見えてくる。


 目が進む。

 止まる。

 戻る。

 奥へ誘われる。


 観光は、見ることから始まる。

 けれど、見えすぎるものだけが観光になるわけではない。


「じゃあ、ここは」


 私は言った。


「見せるというより、入ってもらう場所なんかもしれん」

「はい」

「入口が要るんじゃな」

「たぶん」


 私たちは市場小路へ入った。

 店先には静かな影が落ちている。家の前に置かれた鉢植えの葉が、湿った風で少し揺れる。車が一台、ゆっくり通り過ぎていく。

 観光地のように整えられた賑わいはない。

 けれど、人がいない町ではない。

 暮らしが声を低くして続いている。


 私はノートを開いた。


 備前福岡。

 市場小路。

 牛窓のポスターから読める可能性。

 現地は海ではなく道。

 写真では伝わりにくい。

 歩くと視線が変わる。


 そこまで書いて、少し迷ってから、下に小さく書いた。


 浮つき注意。


「自分に言ってますね」


 紬が横から覗いた。


「見んでいい」

「見えます」

「これも風景?」

「資料の風景です」


 紬は平然と言った。

 その言い方が少しおかしくて、私は笑いそうになった。


 笑いそうになった時、道の奥から自転車に乗った年配の女性がゆっくり近づいてきた。

 私たちは少し端へ寄る。

 女性は軽く会釈して通り過ぎた。

 観光の謎も、昭和五十七年のポスターも、BIZEN FUKUOKAも、その人にはたぶん関係がない。

 でも、ここはその人の道だった。


 その当たり前が、少しだけ胸に残った。

 誰かが暮らしている場所を、私たちは観光資源と呼ぼうとしている。

 そのことを、忘れてはいけない。


「先輩」


 紬が言った。


「何」

「今の、書いた方がいいです」

「何を」

「人が通る道、ということです」

「当たり前じゃろ」

「当たり前のことほど、企画書から抜けます」


 なるほど。

 私はノートに書き足した。


 道は、観光客のためだけの線ではない。

 生活の中を通る。


 書き終えると、紙の上の文字が、少しだけ重く見えた。

 重くなったのは、謎が深まったからではない。

 ここが、誰かの毎日だったからだ。

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