第1章「昭和五十七年の青」 Scene4
資料室を出る時、紬はノートを胸の前で抱えた。
「怒られますかね」
珍しく、少しだけ声が低い。
「たぶん」
「そこは否定してください」
「怒られはせんと思う」
「では何ですか」
「正しいことを言われる」
「怒られるより嫌な時がありますね、それ」
分かる。
黒田さんは声を荒らげない。
机を叩かない。
威圧もしない。
だからこそ逃げ道が少ない。
怒られるなら、怒られる側にも少しだけ被害者になれる余地がある。
正しいことを静かに言われると、自分で自分の逃げ道を塞ぐしかない。
私はポスターを筒状に巻き、紬からノートを受け取り一緒に抱えた。
資料室の外は、いつもの市役所の空気に戻っている。
廊下の向こうから電話の音が聞こえ、どこかの課でプリンターが紙を吐き出している。窓口の方では、来庁者の声が小さく混じる。
行政は、だいたいいつも同時進行だ。
古いポスターが何を隠していようと、住民票は発行されるし、電話は鳴るし、会議は始まる。
私が今、四十四年前の牛窓の海から長船の地名を見つけて少し浮ついていることなど、この建物の大半には関係がない。
それが、少しありがたくもあり、少し寂しくもある。
黒田さんに指定されたのは、資料室ではなく、小会議室だった。
外部の人に話を聞くならそこを使え、と短く言われた。
言い方はいつも通りだったが、そこに含まれている意味は分かる。
資料室は職員の場所だ。資料のある場所だ。
外の人間を入れるなら、場所を選べ。
そういうことだ。
小会議室の扉の前で、紬が立ち止まった。
「私、何と言えばいいですか」
「見たままを言えばええ」
「一番困る指示です」
「デザイナーとして」
「それは分かります。ただ、先輩の高校の後輩として呼ばれた感じも残ってます」
「そこは消して」
「消せるものなら」
私は返す言葉を探して、見つからなかった。
自分で思っていたより、その関係に甘えていたのかもしれない。
紬なら来てくれる。
紬なら見てくれる。
紬なら分かってくれる。
そういう見込みの中には、業務上の判断と、昔からの距離感が混ざっている。
混ざっているものは、紬にはたぶん見える。
「ごめん」
私が言うと、紬は少しだけ目を細めた。
「謝るほどではないです」
「でも、立場を曖昧にした」
「はい」
「そこは否定して」
「事実なので」
ノックをすると、中から「どうぞ」と声がした。
小会議室には、黒田さんがすでに座っていた。
机の上には手帳とボールペンだけ。余計な資料はない。
こういうところが黒田さんらしい。
話を聞く時に、聞くための場所だけを作る。
「失礼します」
私が先に入り、紬が少し後ろから続く。
「こちらは椎名紬さんです。フリーのデザイナーで、公開前提の観光ポスターについて、視覚的な違和感の確認をしてもらいました」
言い終えてから、少しだけ息を吐いた。
高校の後輩、とは言わなかった。
言わなかっただけで、その関係が消えたわけではない。でも、少なくとも業務上の説明としては、今はこちらの方が正しい。
黒田さんは紬を見たあと、私を見た。
「今の説明なら分かる」
短い言葉だったが、少しだけ肩の力が抜けた。
「椎名さん」
「はい」
「宮地が無理を言ったんじゃないですか」
「多少は」
「そこは否定してほしかった」
「事実なので」
黒田さんの口元が、ほんの少しだけ動いた。
「分かりました。今日は正式な委託ではありません。資料の持ち出しなし、個人情報なし、公開前提の広報物についての意見聴取。そこまではいいですね」
「はい」
「報酬も出ません」
「そこは最初から期待していません」
「それはそれで、宮地が甘えとるという話になる」
「…はい」
今度は私が答えた。
紬がこちらを見る。
責める目ではない。
ただ、さっき会議室の前で言いかけたことを、黒田さんが代わりに言った、という顔だ。
「責めとるわけじゃない」
黒田さんはペンを指で一度転がした。
「曖昧なまま進めると、あとで全員が困る。職員も、外の人も、資料もじゃ」
「はい」
「そこを分けた上で、話を聞かせてください」
紬が小さく頭を下げた。
「分かりました」
私は巻いていたポスターを机の上に広げた。
紙が戻ろうとするので、会議室の備品のマグネットと、私の手帳で端を押さえた。資料室の文鎮ほど頼りにはならないが、今はこれで足りる。
青い海が机の上に現れる。
「昭和五十七年の牛窓サマーキャンペーンポスターです。牛窓町観光協会の表記があります。裏面に、鉛筆で『牛窓町役場 山本健治』とありました」
裏面を見せて、また戻した。
「ただし、この人が制作者なのか、担当者なのか、保管者なのかは分かりません」
「分かっとることと、分からんことを先に分けたのはええ」
それだけで、少し救われる。
だが、救われた直後に、黒田さんは続けた。
「で、何が問題なんじゃ」
「問題というか、違和感です」
「違和感は、そのままでは仕事にならん」
「はい」
私は紬のノートを開いた。
点と三角形。帆の向き。写し取られたヨット。BIZEN FUKUOKAの文字。
その紙面を、黒田さんの前に置く。
「椎名さんが、ヨットの配置と帆の向きに規則性がある可能性を見つけました」
「可能性か」
「はい。断定はできません」
私はノートの文字を指した。
「現時点では、BIZEN FUKUOKAと読める可能性があります。備前福岡、つまり長船町福岡です」
「牛窓のポスターから、長船の地名か」
黒田さんの声が少しだけ低くなった。
驚いたのか、警戒したのかは分からない。
「椎名さん」
「はい」
黒田さんは紬を見た。
「これは、どの程度信用できるものですか」
「まだ弱いです」
紬が即答したことに、少しだけ驚いた。
自分で見つけたものを、ここまで早く弱いと言える人間はあまり多くないと思う。
「点の位置だけでは読めません。帆の向きや、同じ処理の繰り返しを合わせると、その文字列に近づきます。ただ、どのヨットを拾うか、どの情報を読みに使うかの基準を整理しないと、見たいものを見ている可能性が残ります」
「つまり」
「読める可能性はあります。でも、読めたとはまだ言えません」
黒田さんは小さく頷いた。
ペン先が手帳の上で止まる。
「宮地」
「はい」
「今の椎名さんの言い方を、そのまま使え」
「そのまま?」
「読める可能性がある。読めたとはまだ言えない。そこを崩すな」
黒田さんは手帳に短く何かを書いた。
「それから、山本健治さんの扱いも同じじゃ。裏に名前がある。それ以上はまだ言うな。人の名前は、物語にしやすい。だから危ない」
「…はい」
その言葉は、少し痛かった。
私はもう、心のどこかで山本健治という人に役割を与えかけていたのかもしれない。
四十四年前に何かを隠した人。
誰かに見つけてほしかった人。
そういう物語の中に、名前だけを残した人を勝手に入れかけていた。
それは、たぶん危ない。
「だが」
黒田さんは、そこでポスターへ視線を落とした。
「面白くないとは言わん」
私は思わず顔を上げた。
「面白いものほど、扱いを間違えるな。調べるなら、調査資料を作れ」
「調査資料ですか」
「事実、推測、意見を分ける。資料の出どころを書く。写真を撮るなら記録を残す。椎名さんの意見は、外部者の視覚的所見として扱う。業務上必要な範囲で」
私は慌ててメモを取った。
紬も横でノートを開いている。
「BIZEN FUKUOKAが仮に正しいとして」
「はい」
「なぜ牛窓のポスターに長船の地名があるのか。それが分からんと、ただの遊びで終わる」
「そこを調べます」
「調べる前に、何を調べるかを決めろ。そうだな、まずは三つでええ」
三つ。
黒田さんは、時々こういう数字を出す。
多すぎる好奇心を、仕事の大きさに切るための数字だ。
「一つ、ポスターそのものの確認。制作年、発行者、保存経緯」
「二つ、山本健治さんの名前が他の資料に出るか」
「三つ、備前福岡という地名が当時の牛窓観光とどう関係するか」
書きながら、私は胸の奥が少し熱くなるのを感じていた。
問いが、仕事の形になっていく。
面白さが、紙に乗せられる大きさに切られていく。
同時に、少し寂しくもあった。
見つけた時の熱が、行政の項目に分けられていく。
でも、たぶんそれでいい。
熱いままでは、人に渡せない。
「現地へ行く必要はありますか」
私は聞いた。
「行きたいんじゃろ」
黒田さんはすぐ言った。
返事に詰まる。
「顔に出てますか」
「出とるな」
「…顔が守秘義務の対象外すぎる」
「何の話じゃ」
「こちらの話です」
紬が少しだけ横を向いた。笑いをこらえている。
やめてほしい。小会議室で味方がいない。
「行くなら、業務としての目的を持て」
「備前福岡が、実際にどういう場所なのかを確認します」
「観光地としてか」
「はい。それと、牛窓のポスターから出てきた地名を、土地として確認するために」
「言い方を直せ」
「はい?」
「後半が浮いとる」
痛い。
黒田さんは手帳を閉じずに、私を見る。
「土地として確認はええ。でも、ポスターから出てきたから行きます、では弱い。旧三町をつなぐ観光の可能性を考えるために、備前福岡の現況と観光資源を確認する。そういう言い方にしろ」
「はい」
「椎名さんは?」
「私は、同行してもいいんでしょうか」
紬が聞いた。
その声は、少し慎重だった。
「今日は、公開資料への意見聴取です。今後、現地を見るだけなら一般の範囲です。ただし、宮地の業務に同行するなら、立場を曖昧にせん方がいい」
「はい」
「正式に依頼するかどうかは、今後の事業次第です。そこを混ぜないように」
「分かりました」
紬はまっすぐ答えた。
その横顔を見て、私は少しだけ恥ずかしくなった。
呼んだのは私だ。
でも、線を引かれて少し安心しているのは、たぶん紬の方でもある。
「それから、ポスターは資料室へ戻すこと。写真を撮るなら、記録用として必要な範囲で。共有先も書く」
「はい」
「椎名さんのノートは、原本を持っていかない」
「え」
「宮地」
黒田さんが私を見る。
「それは椎名さんの作業ノートじゃ。必要なら、椎名さんの了解を得て、内容を整理して調査資料に転記する。勝手に業務資料にするな」
「…はい」
また一つ、線を引かれた。
その言葉が、まだ言われる前からそこにあった。
紬はノートを軽く押さえた。
「必要な部分は、私が整理して出します」
「助かります」
「ただし、先輩」
「はい」
「私のメモを、そのまま企画っぽい言葉にしないでください」
「信用がない」
「あります。だから先に言ってます」
「それは信用なん?」
「ぎりぎりです」
黒田さんが、ほんの少しだけ笑ったように見えた。
「いい関係じゃな」
「仕事上です」
紬が即答した。
あまりに早かったので、私だけ少し傷ついた。
「今のところは、そういうことにしておきます」
黒田さんの言い方には、からかいではなく、線引きがあった。
今のところ。
そう、今はまだ正式な仕事ではない。
けれど、仕事になる可能性がある。
その時、今の距離感のままではいけない。
「今日のところは、ここまで」
黒田さんは手帳を閉じた。
「宮地は調査資料。椎名さんは、無理のない範囲で視覚面の整理。ポスターは資料室へ戻す。持ち出しなし」
「はい」
「それから」
黒田さんは私を見た。
「面白いものを見つけた時ほど、急ぐな」
「…はい」
「急ぐと、見落とす」
私は頷いた。
紬も、隣で小さく頷いた。
会議が終わると、黒田さんは席を立つ前に、もう一度だけポスターを見た。
ほんの短い間だ。
けれど、その目には、さっきまでの業務上の確認とは違うものが少しだけ混じっているように見えた。
牛窓の海。
黒田さんの地元の海。
私はそれを言葉にしない。
「宮地」
「はい」
「雑に扱うなよ」
「資料をですか」
「資料も人もじゃ」
そう言って、黒田さんは小会議室を出ていった。
扉が閉まる。
紬はしばらく黙っていた。
「怖い人ですね」
「怒ってはなかったじゃろ」
「怒られる方が楽な時があります」
「分かる」
「でも、ちゃんと見てました」
「うん」
「ポスターも、先輩の顔も」
「そこは見んでいい」
「かなり見られてましたよ」
私は手帳を閉じた。
机の上には、青い海と、白いヨットと、紬のノートが残っている。
BIZEN FUKUOKA
その文字は、さっきより少しだけ重く見えた。
重くなったのは、謎が深まったからではない。
たぶん、扱い方を間違えてはいけないものになったからだ。
「調査資料、作るんですね」
「作る」
「手伝います」
「正式依頼じゃないけど」
「分かってます。無理のない範囲で、ですよね」
「黒田さんみたいなこと言う」
「正しいことは真似していいです」
紬はノートを閉じた。
文句を言いながら来て、正しい線を引かれて、それでもまだ手伝うと言ってくれる。
高校の頃から変わっていない。
嫌そうな顔をしながら、結局いちばん細かいところまで見る。
私はポスターを慎重に巻き直した。
紙は古く、少し硬い。
無理に巻くと端が痛む。
ゆっくり、元の癖に沿わせるように戻す。
資料も人も。
黒田さんの言葉が、手の中に残っている。
ポスターは、まだ何も答えていない。
けれど、こちらの聞き方だけは、少し決まった気がした。




