第1章「昭和五十七年の青」 Scene3
点は無口だ。
紬のノートの上に並んだ点を見ながら、私はそんなことを思った。
資料室の机には昭和五十七年の牛窓ポスターが広げられ、その横に紬の小さなノートが置かれている。
ノートの紙面には、ポスターから写し取られたヨットの位置が、黒い点になって散っていた。
海もない。
空もない。
白い帆もない。
ただ、点だけがある。
さっきまで夏の海に見えていたものが、紬の手を通ると、急に骨だけになる。牛窓の海から色を抜き、音を抜き、匂いを抜き、配置だけを残したもの。
それを美しいと言っていいのかは分からないが、少なくとも、少し怖い。
「文字っぽいです」
紬が言った。
「読めるん?」
「読めません」
「読めんのんか」
「読めないものを読めると言う人より、信用してください」
正しい。
私は黙ってノートを覗き込んだ。
点は、点にしか見えない。規則があるようにも見えるし、ないようにも見える。
星座に似ていると思った。
星座というものは、最初に線を引いた人の勝ちである。あれを熊だと言い切った人間は、なかなか強い。
「これ、線を引けば何かになるん?」
「今、それをやると危ないです」
「危ない?」
「見たいものを見ます」
「ああ」
それは分かる。
郷土史の資料でも、たまにそういうことがある。
関係がありそうだと思って読み始めると、関係のないものまで関係して見えてくる。人間の目は便利だが、たまに働きすぎる。
紬はノートに薄く補助線を引きかけて、やめた。
ペン先が紙の上で止まる。
「位置だけじゃ弱いです」
「何が?」
「根拠です。点をどう拾うかが、まだ決まってない」
紬はポスターへ視線を戻した。
青い海の上に、白いヨットが浮かんでいる。
いや、浮かんでいるのではなく、描かれている。
紙の上のヨットは、風を受けているように見えるけれど、本当は一ミリも動かない。
私はしばらく見た。
見ているうちに、さっきから喉の奥に引っかかっていたものが、少しだけ形を持つ。
「この二つ、似とらん?」
私はポスターの端を指した。
紬が顔を上げる。
「どれですか」
「これと、これ」
私は海の右寄りにある小さなヨットと、少し離れた左下のヨットを指した。
位置も大きさも違う。向きもまったく同じではない。
けれど、帆のふくらみ方が妙に似ている。
「同じヨットを描き写したみたいに見える」
「…」
紬は黙った。
黙ったまま、少しだけ顔を近づける。
その沈黙は、さっきまでのものと違っていた。見ているだけではない。何かを拾い直している。
「先輩」
「はい」
「今のは、珍しくいいです」
「珍しくを付けんと褒められんの?」
「精度の問題です」
紬はノートの点の横に、今度は小さな三角形を描き始めた。
ヨットの位置だけではなく、帆の向きと、ふくらみを簡略化していく。
右に張った帆。
左に傾いた帆。
まっすぐ立っているように見える帆。
風を受けているはずなのに、ほとんど張っていない帆。
同じ海の上にあるはずなのに、全部が同じ風を受けているわけではない。
「風、バラバラなんじゃな」
「絵としては、多少バラバラでもいいんです。遠近もありますし、装飾なので」
「でも?」
「でも、これはバラバラに見せている部分と、揃えている部分が混ざってます」
紬は私が指した二つの帆に、同じ印をつけた。
「これ、同じ処理です」
「処理?」
「同じ情報には、同じ見せ方をします。少なくとも、そういう作り方をする人なら」
「このポスターを作った人が、そういう人ってこと?」
「そこまでは分かりません。でも、偶然にしては、同じ形の残り方をしています」
紬は別のヨットも見ていく。
その目つきが変わる。
資料室に入ってきた時に見た、分類の乱れを見つける目に近い。
怒っているわけではない。
ただ、見逃せないものを見つけてしまった人の目だ。
「点だけじゃなくて、向きも情報かもしれません」
「それもか」
「はい。位置が文字の場所で、帆の向きが読み方を決めてる」
「そんなことできるん?」
「できます。ただ、面倒です。同じ点でも、どの向きの帆を拾うかで、線の入り方が変わります」
「面倒なことをする人っておるん?」
「います」
「断言」
「デザイナーは、たまに面倒なことをします」
それは知っている。
高校の美術室で、紬はポスターの文字を一ミリ未満の単位で動かしていた。私は横で「そこまで変わる?」と言い、紬は「変わります」とだけ答えた。
実際、変わった。
悔しいことに、変わった。
紬はノートに、いくつかの点と三角形を組み合わせて写し直していく。
最初の点だけの紙面より、少しだけ文字に近づいて見える。
「アルファベットですかね」
「日本語じゃなく?」
「日本語をこの点でやるのは無理があります」
「ローマ字」
「たぶん」
たぶん。
紬の言うたぶんは、私のたぶんより少し信用できる。
少し、ではないかもしれない。
「これ、『U』に見えませんか」
紬が言った。
「ヨットが?」
「ヨットじゃなくて、帆の向きと位置を拾った形です」
「…U」
私はノートを見る。確かに、見えなくはない。見えなくはないが、これを最初に『U』と言い出すのは、少し勇気がいる。星座を熊だと言い切った人に近いものを感じる。
「二つあるんよな」
「はい」
「同じ形が二つ」
「同じ文字の可能性があります」
紬はノートを少し遠ざけた。
「あと、ここで一度切れているかもしれません」
「切れている?」
「単語の間です。前半が五文字くらい、後半が七文字くらいに見えます」
「五文字と七文字」
「そう見えるだけです。まだ、そう読めると言っているわけではありません」
「分かっとる」
「先輩、今ちょっと走りそうな顔をしました」
「顔を読むな」
「漏れてます」
私は口元を引き締めた。顔の情報管理は難しい。
「『U』が二つ入る言葉」
私は小さくつぶやいた。
「このポスター、観光キャンペーンじゃろ。ローマ字の地名とか?」
「牛窓なら、USHIMADO」
「Uは一つ」
「瀬戸内なら、SETOUCHI」
「Uは一つ」
「…二つある地名」
紬がノートの点を見直す。私はポスターを見た。牛窓のポスター。昭和五十七年。牛窓町観光協会。裏面の鉛筆書き。牛窓町役場。山本健治。牛窓の海の上に、牛窓ではない何かが隠れているのだとしたら。
「全部、読めそう?」
私が聞くと、紬は少し眉を寄せた。
「少しだけ」
「少しでいい」
「よくないです。少しで言うと、先輩が走ります」
「走らん」
「走る人はだいたいそう言います」
紬は、それでもノートをこちらに少し傾けた。
「この並び、最初は『B』に見えます」
「B」
「次が『I』っぽい。これはかなり弱いですけど」
「B、I」
「その次が、『Z』かもしれません。線の拾い方によります」
「BIZ…」
口に出した瞬間、胸の奥が反応した。『BIZ』。それだけなら、まだ何でもない。けれど、私はその先を知っている気がした。
「BIZEN?」
紬のペンが止まる。
「備前?」
「たぶん」
「たぶんが移ってます」
「これは、かなり精度の高いたぶんじゃ」
紬はノートを見る。点と三角形と、薄い補助線。そこに無理やり線をつなげると、B I Z E N と読めなくもない。いや、読める。少なくとも私はもう、そうとしか見えない。
備前。岡山の地名としては広い。古い国の名でもある。私の中の歴史摂取量が、静かに増え始める。危ない。ここで語り始めると、紬に目で止められる。
「後ろは?」
「待ってください」
紬はもう一つのUに印をつける。
「こっちにもUが入るなら…F、U、K、U」
そこで紬の声が一度止まった。
「FUKU…」
私は顔を上げた。
「福岡?」
「…長船の、ですか」
紬が言った。その反応が、妙に自然で、妙に重かった。
福岡。県外の人なら、まず九州の福岡を思うだろう。でも、長船で育った紬なら違う。岡山にも福岡がある。長船町福岡。備前福岡。昔の市場町。刀と川と、町並みの奥に残る古い時間。
「そうじゃ」
私は言った。
「備前福岡」
口に出すと、資料室の空気が少し変わる。ポスターの中の青い海が、急に長船の土の匂いを連れてくる。牛窓の海に浮かんでいた白いヨットが、まるで違う土地の名前を運んできたように見える。
紬はノートに、ゆっくりと文字を書いた。
『BIZEN FUKUOKA』
黒いペン先が最後のAを書き終える。私たちはしばらく黙ってそれを見た。
「…読めましたね」
「読めたな」
「読めてしまいましたね」
「言い方」
「だって、変です」
紬はポスターを見る。
「これ、牛窓のポスターですよね」
「うん」
「牛窓町観光協会」
「うん」
「なのに、出てくるのは長船」
「備前福岡」
「長船じゃないですか」
「うん」
私は頷いた。
「長船じゃ」
言葉にすると、違和感がはっきりする。昭和五十七年。瀬戸内市になるより前。牛窓町は牛窓町で、長船町は長船町だ。今の私たちは一つの市として考えることができる。けれど、このポスターが作られた頃には、そこには線があった。行政の線。予算の線。担当の線。住民感覚の線。
牛窓の観光ポスターに、長船の地名。それは、少しだけ胃に悪い。
「備前って言葉なら、広く見れば分からなくもないですけど」
「福岡まで出ると、もう場所が決まる」
「しかも長船」
「うん」
紬はノートの文字を見つめた。
「先輩」
「何」
「これ、偶然じゃないですよね」
「偶然で『BIZEN FUKUOKA』は、ちょっと無理があるな」
「ですよね」
紬は短く息を吐いた。その息には、少しだけ困った響きが混じっている。私も同じだった。謎が解けるのは楽しい。少なくとも、歴史好きとしてはかなり楽しい。けれど、行政の線をまたぐ謎は、楽しいだけでは済まないことがある。
私はポスターの端をそっと持ち上げた。裏面の鉛筆書きが、薄く見える。牛窓町役場。山本健治。この人が何をしたのかは、まだ分からない。ポスターを作ったのか。保管したのか。誰かの名前を控えただけなのか。それすら分からない。
けれど、名前の近くに、備前福岡という文字列が現れた。私はその偶然を、偶然のままにはしておけない気がした。
「山本さんがやったんですかね」
「分からん」
「ですよね」
「分からんけど」
私はポスターを見た。青い海。白いヨット。夏の光。その中に、長船の地名が隠れている。
「知りたい」
言ってから、自分でも少し驚いた。紬はこちらを見た。
「何をですか」
「この人が誰なのか。なんで牛窓のポスターに、備前福岡を入れたのか。そもそも入れたのがこの人なのかも含めて」
言葉にすると、やるべきことが急に増える。資料を探す。名前を調べる。保存されているものを確認する。
黒田さんに報告する。たぶん止められる。いや、止められはしない。正しい質問をされる。業務になるのか。市民に何のメリットがあるのか。議会で説明できるのか。
まだ報告もしていないのに、問いだけが先に机の上へ並んでいく。
「顔が忙しいです」
「今度は何が漏れとる」
「面白がってる顔と、困ってる顔が同時に出てます」
「高度じゃな」
「不安定です」
紬はノートを閉じなかった。『BIZEN FUKUOKA』。その文字を開いたまま、ポスターの横に置いている。帰る気はないらしい。少なくとも、まだ。
「長船の福岡、子どもの頃に何回か行きました」
「そうなん?」
「市場とか。あと、学校の地域学習で」
「覚えとる?」
「少しだけ。道がまっすぐじゃないところ」
「ああ」
「子どもの時は、ただ歩きにくいと思ってました」
「歴史的には、そこが面白いんじゃ」
「出ました」
「まだ短い」
「長くなる前に止めました」
私は口を閉じた。紬は少しだけ口元を動かす。それは笑いというより、作業中に邪魔な紙片を端へ寄せるような表情だった。
「でも、不思議ですね」
「何が」
「牛窓の海から、長船の地名が出てくるの」
「うん」
「今なら、同じ市ですけど」
「昭和五十七年は違う」
「ですよね」
資料室の静けさが戻ってくる。ただし、戻ってきた静けさは、もう同じではない。さっきまでただの点に見えていたものが、今は文字を持っている。白いヨットは、海の飾りではなく、誰かが置いた目印に見える。
「なんで牛窓のポスターに」
「備前福岡があるのか」
私は、紬の言葉の続きを引き取った。
答えはない。
けれど、問いはできた。
そして、仕事として一番面倒なのは、答えより先に問いができてしまうことだ。
黒田さんに連絡するべきか。
いや、まず整理するべきか。
ポスターを巻き直すべきか。
紬のノートをコピーさせてもらうべきか。
そもそも、外部のデザイナーのノートを業務資料として扱っていいのか。
考えることが増える。
なのに、胸の奥は少し浮いている。
よくない。
こういう時の私は、たぶん危ない。
紬はノートの上の文字を指した。
「これは、面白いです。でも、面白いまま触ると危ないです」
「…紬まで黒田さんみたいなこと言う」
「黒田さん?」
「上司」
「良い人なんですね」
正しい。
今日の私は、正しい人に囲まれている。
まだ二人しか出てきていないのに、もう十分多い。
私はポスターの端を押さえた。
四十四年前の青い海は、相変わらず明るい。
けれど、その下に長船の地名が沈んでいると思うと、さっきまでとは違って見える。
私は内線表を見た。
黒田さんの席の番号は、覚えている。
覚えているが、押すまでに少し時間がかかった。
面白いものを見つけた時ほど、急ぐな。
まだ言われていないはずの言葉が、もう聞こえた気がした。




