第1章「昭和五十七年の青」 Scene2
返信を送ってから三分後、紬から二つ目のメッセージが届いた。
『今どこですか』
『資料室』
『市役所の?』
『うん』
既読がついたまま、しばらく返事が止まる。
画面の向こうで、椎名紬がどんな顔をしているか、だいたい想像がついた。
眉間に小さく皺を寄せ、スマートフォンを少し遠ざけて、こちらの正気を疑っている顔である。
高校の頃から、あいつは他人の正気を疑う時だけ妙に姿勢がいい。
『行きたくありません』
『来て』
『命令ですか』
『お願い』
『お願いの形をした召喚では?』
『近い』
『近いんですね』
私はポスターの端を押さえていた文鎮を少し直した。
青い海の上に、白いヨットが浮かんでいる。
浮かんでいる、という言い方が正しいのかどうかは分からない。描かれている。置かれている。あるいは、誰かに置かされたように見える。
散っているようで、どこか散っていない。
偶然の顔をした規則性が、紙面のどこかに潜んでいるような気がする。
『本当に入っていいんですか』
『小会議室にするべきだったかもしれん』
『今さらですね』
『資料の持ち出しはしない。個人情報も見せない。公開前提の広報物だけ』
『先輩が急に具体的になる時、だいたい危ないんですよ』
『課長補佐には外部の目を入れてもいいと言われとる』
『先輩の解釈を通した許可ですよね』
『かなり正確な解釈』
『それを自分で言う人は信用できません』
私はしばらく画面を見つめた。
責任は私が持つ、と打ちかけて、消した。黒田さんの声が頭の中で「それが一番信用できん」と言った気がしたからである。本人がいない場所でまで添削しないでほしい。
『公開資料の範囲で、ポスターの視覚的な違和感について意見がほしい』
『仕事の言い方になりましたね』
『努力した』
『分かりました。少しだけ行きます』
『ありがとう』
『少しだけです』
少しだけ。
紬がそう言う時は、だいたい少しだけでは終わらない。
高校時代からそう。嫌そうな顔をしながら、結局いちばん細かいところまで見る。文句を言いながら、最後に一番きれいな線を引く。自分が納得しないものを見過ごせない。
そういう厄介さを、私は知っている。
三十分ほどして、資料室の外で足音が止まり、控えめなノックが聞こえた。
「どうぞ」
扉が少しだけ開き、椎名紬が顔をのぞかせた。
「本当に入っていいんですか」
第一声がそれである。
「公開資料だけ」
「場所としては?」
「…今から小会議室に移動する選択肢もある」
「最初からそうしてください」
「でも、まずここの空気ごと見てほしくて」
「そういうことを言うから危ないんです」
紬はそう言いながら、中へ入ってきた。
白いシャツに、薄い灰色のパンツ。髪は肩のあたりでまっすぐ切られている。飾り気は少ないのに、全体がきちんと収まって見える。自分の体を自分でレイアウトしている人、という言い方が頭に浮かんだ。
本人に言うと、たぶん嫌な顔をされるので言わない。
紬はポスターを見る前に、まず資料室を見た。
棚。段ボール箱。窓際の古い折りたたみ椅子。壁に貼られた利用上の注意。分類されているものと、分類されそこねたもの。
その視線は、観光客のものでも、職員のものでもなかった。紙面を見る前に、部屋全体の版面を見ているようだった。
「気持ち悪いです」
「来て早々?」
「分類基準が混ざってます」
「分かるん?」
「分かります。年度で分けたいのか、事業で分けたいのか、地区で分けたいのか、途中で迷子になってます」
「資料室にそこまで厳しい目を向けんでも」
「資料室だから向けるんです。ここ、余白がないです」
「資料室に余白を求めるデザイナー、初めて見た」
「余白がない場所は、探す人を迷わせます」
「出た」
「何がですか」
「紬語」
紬は私を見た。
「先輩、呼びつけた立場でその態度はどうなんですか」
「すみません」
「謝るのが早い」
「社会人なので」
「社会人は、たぶんで人を資料室に呼びません」
返す言葉がなかった。
紬は机の近くまで来ると、ポスターを見る前に、まず机の上を見た。
文鎮の位置。古いパンフレットの重ね方。私のスマートフォン。走り書きのメモ。裏面を確認した時に使った薄い紙片。
視線が細かく動く。
きれいなものを探しているというより、ズレを拾っているように見えた。
「で、相談ってこれですか」
紬がポスターを指す。
「そう」
私は文鎮を少しずらした。古い紙がふわりと戻ろうとする。慌てて押さえる。
「触っていいんですか」
「端だけ。古いから」
「分かりました」
紬は椅子に座らず、机の横に立ったままポスターを見下ろした。
最初は黙っていた。
その沈黙が、少し長い。
私はつい口を開きそうになる。
昭和五十七年で、牛窓町観光協会で、裏に山本健治という名前があって、と説明したくなる。
だが、紬はまだ見ている。
ここで話しかけると、たぶん怒られる。
人は同じ紙を見ても、同じものを見ていない。
私は、古い資料として見ていた。
誰が残したのか。いつ作られたのか。どこの町のものなのか。裏の名前は何を意味するのか。
そういうことばかり考えていた。
紬は違う。
紙面の上で、見る人の目がどこへ行き、どこで止まり、どこへ戻されるのかを見ているような感じがした。
「先輩」
ようやく紬が言った。
「はい」
「これ、昔の資料として見てますよね」
「うん」
「私は、まず作られた紙面として見ます」
「作られた紙面」
「はい。誰かが、何かを選んで、何かを置いて、何かを置かなかった紙面です」
その言い方は、少しだけ黒田さんに似ていた。
何を選び、何を選ばないのか。
観光の仕事にも、デザインの仕事にも、同じような怖さがあるのかもしれない。
「文字?」
「文字も悪くないです」
「じゃあ色?」
「色も悪くないです」
「構図?」
「構図も悪くないです」
「全部悪くないんじゃが」
「だから困ってるんです」
紬は少しだけ目を細めた。
「ヨットの置き方ですかね」
私は身を乗り出した。
「やっぱり?」
「やっぱりって、先輩もそこを見てたんですか」
「何となく。散ってるようで、散ってない感じがした」
「珍しく合ってます」
「珍しくは余計」
「大事な情報です」
紬はそこで、ようやく椅子に座った。
鞄から小さなノートと細いペンを取り出す。高校の頃と同じ手つきだった。ページを開き、何も書かれていない紙面を一度だけ見てから、ポスターへ視線を戻す。
「普通、こういう観光ポスターで小さい要素を散らす時は、視線を流すために使います」
「視線」
「見る人の目を、見せたいところへ連れていくんです。こっちを見て、次にここを見て、最後に文字へ行く、みたいに」
「誘導するんじゃ」
「はい。でもこれは、誘導しているようで、途中で止まります」
「止まる?」
「目が、変なところで引っかかる」
紬はノートに、ポスターの中のヨットを簡単な点で写していく。
一つ、二つ、三つ。
紙面の上では白い帆だったものが、ノートの上では小さな黒い点になる。
海が消える。空が消える。島影も、夏の光も消える。
配置だけが残る。
少し怖い。
紬は、世界から意味を剥がして、骨だけを見ている。
「このへん、気持ち悪いです」
紬はいくつかの点を丸で囲んだ。
「資料室に続いてポスターも気持ち悪い」
「今日は気持ち悪いものが多いですね」
「なんかごめん」
「謝るところ、そこじゃないです」
紬は少しだけ口元を緩めた。笑った、というほどではない。けれど、資料室の空気が少し軽くなる。
「下手なだけではないん?」
「下手なら、もっと全部が気持ち悪くなります」
「ひどい」
「でもこれは、雑じゃないです。雑じゃないから、変なところだけ残るんです。下手な人のズレは、全部ノイズになります。でもこれは、ノイズに見えない」
その時、私はポスターの裏面にあった鉛筆書きを思い出した。
牛窓町役場
山本健治
この人が作ったのか、担当したのか、ただ保管していただけなのかは分からない。分からないが、名前がある。その名前のすぐ近くに、意図という言葉が置かれると、紙の温度が少し変わる。
「裏に名前があったんよ」
私は言った。紬がこちらを見る。
「名前?」
「牛窓町役場、山本健治」
「その人が作ったんですか」
「分からん。そこまでは何も分からん」
「じゃあ、名前だけ」
「うん。名前だけ」
紬は少し考えた。
「いいですね」
「何が」
「名前だけ残ってるの」
「いいん?」
「はい。情報が足りない方が、気になります」
デザイナーらしいのか、そうでないのか分からない感想だった。
「でも、断定はできません」
「そこは分かっとる」
「先輩、こういう時、すぐ人を見つけた気になりますから」
「失礼な」
「違いますか」
「…違わんかもしれん」
紬は私の顔を見て、少しだけ満足そうにした。
「顔がうるさいです」
「今、顔に何か出とった?」
「かなり」
「守秘義務違反じゃ」
「顔は守秘義務の対象外です」
「役所としては困る」
「先輩個人の問題です」
私は口を閉じた。
顔までは管理できない。行政職員として、まだまだ修行が足りない。
紬はノートを見下ろし、ポスターと点を見比べた。
「まだ読めるわけじゃありません」
「読める?」
「何か規則があるなら、です」
「暗号みたいな?」
「そこまで言うと大げさです。ただ、配置で何かをしている可能性はあります」
「可能性」
「可能性です」
紬はそこを強く言った。
それが少し意外で、少し嬉しい。
紬は断定しない。
見えるものと、まだ見えないものの境目を雑に越えない。
高校時代から、そこは変わっていない。
「わざと残したズレに見えます」
紬は静かに言った。
資料室の空調の音が、急に近く聞こえる。
私はポスターを見た。
青い海の上で、白い帆が何も知らない顔をしている。
いや、何も知らないのはこちらの方かもしれない。
「なんでそんなことするん」
自分でも、少し間の抜けた問いだと思った。
紬はすぐには答えなかった。ポスターの端を押さえる文鎮を見て、それから紙面のヨットへ視線を戻す。
考えている時の紬は、余計な表情を消す。感情がないのではない。感情が邪魔にならないところへ、一度しまう。
「誰かに見つけてほしかったんじゃないですか」
その声は、思ったより小さかった。
私は山本健治という名前を思い出す。
名前だけが、紙の裏に残っている。
表では、青い海が明るく光っている。
見つけてほしかった。
誰に。
何を。
訊きたいことはいくつも浮かんだが、どれもまだ早い気がした。
紬もそれ以上は言わなかった。
ノートの上には、ただ小さな点が並んでいる。
海を消されたヨットたちは、白い帆ではなく、何かの目印のように見える。
資料室は静かだった。
ただし、さっきまでと同じ静けさではない。
棚のファイルも、床の段ボールも、机の上のポスターも、黙ったままこちらを見ている。
その中に、椎名紬が座っている。
文句を言いながら来たくせに、机の上から目を離さない。
私はそれを、少し心強いと思った。
少しだけ、だ。
本人に言うと、たぶん顔がうるさいと言われる。




