第4章「海と陸の鍵穴」 Scene26
八月のお盆前になると、市役所の中にも、どこか休みに入る前のざわつきが混じり始めた。
窓口に来る人の声も、廊下を歩く職員の足音も、いつもより少しだけ急いでいる。お盆休みの予定、帰省の段取り、閉庁前に片づける書類。机の上のカレンダーに並んだ予定を見ているだけで、八月の空気は紙の上まで入り込んでくる。
私はプリンターから吐き出された資料を受け取り、角をそろえた。
部内説明用資料。
表紙の右上には、黒田さんの赤字がまだ残っている。
『部内説明用資料へ』
差し戻しの赤ではない。けれど、通過の赤でもない。次に渡すための印。そう思えるようになるまで、ずいぶん時間がかかった。
私は表紙をめくり、確認欄をもう一度なぞった。
目的。
今年度範囲。
予算。
委託範囲。
文化財確認。
黒島安全管理。
効果指標。
参考資料。
どの欄にも、まだ余白がある。けれど、何も決まっていない余白ではない。次に誰かが書き込めるように残した余白だった。
「宮地」
顔を上げると、黒田さんが立っていた。片手に、私がさっきメールで送った修正版を印刷したものを持っている。
「部内説明は、お盆前に入った」
一瞬、指先が止まった。
「思ったより早いですね。まだ直すところ、残ってますよね」
「残っとる。だから今から直す」
黒田さんは、当たり前のように言った。私は思わず笑いそうになり、すぐに資料へ目を戻した。
「通るかどうかは、まだ分からん」
「はい」
「けど、説明する価値はある。そこまでは来た」
黒田さんの声は、いつも通り低かった。褒めているのか、次の作業を命じているのか、判別しにくい。けれど、その言葉は、机の上の資料を少しだけ重くした。
黒田さんは、私の手元の資料を一枚めくった。参考資料欄で、指が止まる。
昭和五十七年牛窓サマーキャンペーンポスター。
牛窓町観光資料。
旧邑久町観光・文化資料。
三町広域観光連絡会資料。
写真資料提供・整理 山本健治。
平成二十九年度観光ポスター公募応募作『SETOUCHI COLOR』。
「山本さんの扱い、これでええ」
黒田さんが言った。
「人探しの話にせず、資料の仕事として残しとる」
「はい。分かることだけ、残します」
「分からんことを盛るな。分かることを薄くするな」
「気をつけます」
黒田さんは、資料を閉じた。
「普通の仕事が、たまに遠くまで届くことがある。届いた時に、誰かが読める形で残しとけ」
その言葉は、黒田さんの口から出たものにしては、少しだけやわらかかった。私は返事をしようとして、すぐには声が出なかった。
「宮地」
「はい」
「そこで感動しとる暇があるなら、効果指標の表を直せ」
「すぐ直します」
「あと、動画の説明は短くしろ。見せる前にしゃべりすぎるな」
「はい。しゃべりたくなるところを削ります」
「そこが一番心配じゃ」
黒田さんはそう笑って、資料を私に返した。
私は、効果指標の表を開いた。
観光案内所での問い合わせ件数、公式ページの閲覧数、動画の視聴完了率、回遊マップの配布数、参加事業者候補への説明回数、黒島実証案の安全確認項目。数字はまだ仮だ。けれど、仮であることを明記する場所も決めた。
紙は、夢をそのまま載せるには薄い。
でも、夢を渡すための形にはなれる。
午後、修正版を保存した時には、外の暑さが少しだけ傾き始めていた。私はパソコンを閉じ、鞄に筆記用具だけを入れた。今日は、市役所で終わるつもりはなかった。
紬とは、紬の事務所で待ち合わせていた。
車で迎えに行くと、紬はいつもの大きなファイルを抱えていた。中には、ロゴの修正版、動画のカット割り、そして高校時代のポスターを写した紙が入っている。
「部内説明、お盆前に決まりましたね」
紬が言った。
「黒田さんから聞いたん?」
「先輩の顔を見れば分かります」
「そんなに出とる?」
「出ています。嬉しいのを我慢して、次の修正点を数えている顔です」
「それ、顔だけで分かるんじゃな」
「最近は、分かりやすいです」
紬は、少しだけ笑った。
車は邑久の町を抜け、大雄山の方へ向かった。道は少しずつ細くなり、木の影がフロントガラスに流れた。
夏の山の匂いが、窓の隙間から入ってくる。海へ向かった時の湿った風とは違う。土と葉と、熱を含んだ草の匂いだった。
アサギ平に着くと、空が急に広くなった。
パラグライダーの離陸場になっている平らな場所から、風が一気に抜けていく。
足元の夏草が強い光を弾き、吹き上げる上昇気流が私たちの髪を大きく揺らした。私は思わず、鞄の肩紐を握り直した。
眼下に、千町平野が広がっている。
見渡す限りの田んぼは、ただの均質な緑ではなかった。稲の葉が風に煽られるたび、巨大な生き物の背中のように波打ち、濃淡のグラデーションを作っている。太陽の角度が変わり、雲の影が平野の上をゆっくりと滑っていくのが見えた。
門田貝塚や豊原平地古墳の名前が浮かぶと、その平らな広がりの下に、いくつもの時間が折り重なっているように見えた。
水の筋、道の線、家々の屋根。全部が今の生活なのに、その下にもっと古い時間が静かに続いている。
私は、前に邑久を歩いた日のことを思い出す。あの時、私はこの町を緑で済ませようとしていた。見慣れているから、見なくても分かると思っていた。けれど、ここから見る邑久は、私が知っていたつもりの場所ではなかった。
「邑久、広いですね」
紬が言った。
「うん。知っとるつもりで、全然見えてなかった」
右手の奥へ目を移すと、平野は長船の方へ続いていた。西へ傾きかけた陽光が、吉井川の水面を鋭く光らせている。
須恵、吉井川、築山古墳。地図で何度もなぞった名前が、紙の上ではなく、地続きの場所としてそこにあった。
鉄の火は、急に生まれたものではない。土があり、水があり、人が動き、技術が残った。その上に、長船の名前がある。
さらに左手の奥には、海が光っていた。
南東の方角に、牛窓の海が広がっている。夏の午後の強い日差しを受けた水面は、硬い青色をして輝いていた。天気がよければ黒島まで見える。今日は、淡い島影が、海の青の中にかすかに浮かんでいた。はっきり見えるわけではない。けれど、一度あの潮の道を歩いた後では、そのかすかな影だけで十分だった。
海は、境界ではない。道だった。
ただし、いつでも開いている道ではない。
紬は、ファイルを開いた。風で紙がめくれそうになり、私は慌てて片側を押さえた。
「ここで広げるには、少し向いてませんね」
「風が強いな。でも、今日ここで見たかったんよ」
「分かります」
紬は、ファイルの中から二枚の紙を取り出した。
一枚は、高校時代の『SETOUCHI COLOR』。
もう一枚は、現在の『瀬戸内カラー』のブランドシート。
英字の方は、少し背伸びしている。青と白が強く、海の印象が前に出ていた。あの時の私たちは、それが遠くへ届く色だと思っていた。
日本語の方は、余白が違う。海の青、鉄の火、悠久の記憶。三つの色が、ひとつの名前の下に並んでいる。鍵穴の形は、控えめに置かれていた。叫ばず、でも見落とさせない位置に。
「高校の時は、英語で書いた方が遠くへ行ける気がしとった」
私が言うと、紬は少しだけ紙を押さえる手に力を入れた。
「今は、日本語の方が遠くへ届く気がします」
「不思議じゃな」
「届く相手が、少し見えるようになったからだと思います」
風が、紙の端を小さく鳴らした。
「あの時のポスター、間違っとったわけじゃないんよな」
「間違っていません。あの時は、私たちが先に進むための名前でした」
「今は、見も知らぬ人たちに帰ってきてもらうための名前か」
「それと、ここにいる人が使える名前です」
私は、眼下の平野を見た。
高校の時、私たちは瀬戸内を外へ投げたかった。外の世界に届くように、少しでも遠くへ飛ぶように、英語の名前をつけた。
今は違う。外の人がここへ足を向けられる線を引こうとしている。ここにいる人が、自分の町を人に渡せる言葉を作ろうとしている。
どちらも、間違いではなかった。ただ、見ている相手が変わった。
私は鞄からメモを取り出した。風に飛ばされないよう、しっかり押さえる。
瀬戸内カラー。
海の青、鉄の火、悠久の記憶。
海と陸の鍵穴。
その下に、小さく参考資料の書き込みが続いている。
昭和五十七年の資料を作った人たちは、四十年以上たった市役所職員が、その紙を開くとは思っていなかったかもしれない。
山本健治という名前も、古いポスターの裏書きも、旧邑久町の控えも、誰かが捨てずに置いたから、私のところまで来た。
そして、私ひとりのところで止まらなかった。
森下さんが、言えることから積むと教えてくれた。
小野寺さんが、紙を現場で汚すことを教えてくれた。
磯田さんが、地元の人が普通に通り過ぎるものの強さを教えてくれた。
黒田さんが、夢に段取りをつけろと止めてくれた。
紬が、見えないものへ人を連れていく形を作ってくれた。
資料は、過去の説明だけではなかった。
誰かが開いた時、未来へ向かうことがある。
行政文書は、未来への手紙になることがある。
そう思った時、私は、少しだけ怖くなった。
今日作った紙も、いつか誰かに開かれるかもしれない。
担当者の名前も、参考資料の一行も、赤字の指示も、その時の誰かに届くかもしれない。なら、いい加減には残せない。分からないことを分かったように書けない。見たものを、見なかったことにもできない。
紬が、私の横で景色を見ていた。
「先輩」
「うん」
「これ、まだ完成じゃありません」
「やっと始められるところまで来たんじゃな」
「その方がいいと思います。完成したものより、使われて変わるものの方が、長く残ります」
紬らしい言い方だった。静かで、厳しくて、少し先を見ている。
私は、もう一度、景色を見た。
眼下に邑久の平野があり、右手に長船の流れがあり、左手の奥に牛窓の海があった。地図で見た線も、黒島で踏んだ砂も、動画に置いた鍵穴も、ここではひとつの風景の中に収まっていた。
海の青。
鉄の火。
悠久の記憶。
その三色は、もう私たちだけの色ではなかった。
風が、ファイルの端を小さく鳴らす。
まだ誰にも渡っていない一枚の紙が、次に開かれる時を待っていた。
(瀬戸内カラー 完)




