第4章「海と陸の鍵穴」 Scene25
七月の終わりごろになると、市役所の廊下を歩くだけで、外の熱が服の内側に残るようになった。
本庁の通用口をくぐっても、すぐには体が冷えない。空調の風は確かにあるのに、肌の奥にたまった暑さだけが、少し遅れてついてくる。私は鞄を持ち直し、会議室へ向かった。
黒島へ行った日から、十日ほどが過ぎていた。
その間、私は何度も同じ言葉を書き直した。
海と陸の鍵穴。
前方後円墳。
古代吉備。
潮位。
中止基準。
委託範囲。
使用許諾。
熱を冷ましたのではない。熱で紙が燃えないように、言葉の置き場所を決めていた。
紬も同じだった。
邑久の事務所へ行くたび、机の上の紙は増えていた。鍵穴のロゴ案、動画の絵コンテ、短尺用の画面構成、地図に重ねる図形、店頭掲示の仮デザイン、ジーンズの革パッチに見立てた小さなラフ。最初は勢いで広がっていたものが、日を追うごとに、少しずつ線を減らし、余白を取り、形になっていった。
今日、私たちが持ってきたのは、企画書だけではない。
パイロット版の短尺動画。
ブランドシート。
委託仕様の整理案。
黒島確認メモ。
古墳・古代史表現の確認メモ。
小野寺さんの現場確認事項。
磯田さんから聞いた前方後円墳の扱いに関するメモ。
紙の束は、以前より厚くなっていた。けれど、厚みの理由が違う。
前は、思いついたことを落とさないために増えていた。
今は、外へ出す前に、責任の場所を決めるために増えていた。
小会議室の前で、紬が立ち止まった。
「先輩」
「うん。今日は、言いたいことを全部言う場じゃなくて、通せる形にしたものを見てもらう場じゃな」
「その理解でお願いします」
「紬は最後まで逃げ道を塞ぐな」
「今日は塞ぐために来ています」
紬はそう言って、抱えていたノートパソコンを少し持ち上げた。表情はいつも通り静かだったが、指先だけがわずかに硬い。紬も緊張している。そう分かると、私の方は少し落ち着いた。
扉をノックすると、中から黒田さんの声がした。
「入れ」
小会議室の机は、前と同じだった。壁の時計も、窓のブラインドも、少し傷のあるホワイトボードも変わっていない。変わっていたのは、机の上に紬のノートパソコンが置かれたことと、私の鞄から出した資料の束が、前より明らかに重そうに見えることだった。
黒田さんは、私たちの手元を見て、眉を少しだけ上げた。
「今日は紙だけじゃないんか」
「はい。見てもらいたいものがあります」
「先に言うとく。映像でごまかすなよ」
「ごまかすためじゃありません。最初の一秒で、誰に何を見せるかを確認してもらうためです」
黒田さんは椅子の背にもたれた。
「言うようになったな」
「言えるように、何回も削りました」
「なら、見せてもらおうか」
私は配付資料を机に置いた。
表紙には、昨日の夜まで迷っていたタイトルが入っている。
旧三町広域観光ブランド再構築・回遊促進事業
外向きブランド案 瀬戸内カラー
コンセプト 海と陸の鍵穴
コピー 海の青、鉄の火、悠久の記憶。
黒田さんは、表紙を見て、そこで一度手を止めた。
「海と陸の鍵穴」
声に出して読んだだけだった。評価ではない。意味を確かめるような低い声だった。
「前方後円墳の形を、導入のフックにします」
私は、資料の二枚目を開いた。地図の上に、陸側と海側の前方後円墳を単純化した図を重ねている。
「築山古墳と黒島古墳です。公式の説明では、前方後円墳と明記します。『鍵穴』は、動画やマップで最初に興味を持ってもらうための表現です。古代吉備の海と陸を開く形として扱います」
黒田さんは図を見て、少しだけ眉を寄せた。
「思い切ったな」
「はい。なので、扱い方は慎重にします」
「文化財担当は通るんか」
「今日の資料では、まだ確定表現にはしていません。森下さんに確認する前提で、表現案を分けています。須恵古代館の磯田さんのヒアリングメモも添付しました。導入として『鍵穴』は使える。ただし、古墳そのものを軽く記号化しないこと。埋葬された人や、地域が守ってきた時間への配慮が必要。その線で整理しています」
黒田さんは、添付資料に目を落とした。紙をめくる音だけが、小会議室に残った。
「前方後円墳を鍵穴と呼ぶのは、説明の最初だけか」
「はい。最初に引っかかりを作るためです。正式な説明では、前方後円墳、古代吉備、ヤマト王権との政治的なつながりを考える手がかり、という表現にします」
私はそこで、一度言葉を止めた。
黒田さんが顔を上げる。
「まだ何かある顔じゃな」
「あります。でも、資料には入れていません」
「言うてみろ」
私は横に座る紬を見た。紬は、ほんの少しだけ首を横に振った。言わない方がいい、という意味ではない。ここで言うなら、資料に入れない理由まで言え、という顔だった。
「磯田さんの前で、私が一度、かなり強い言葉を使いました」
「どんな言葉じゃ」
「ヤマトと吉備の密約、です」
黒田さんは、しばらく黙った。怒った顔ではない。呆れた顔でもない。ただ、私の中の歴史好きがどこまで走ったのか、見積もっている顔だった。
「お前らしいが、外に出すな」
「はい。会議室までです」
「椎名さん」
黒田さんが紬を見る。
「資料にも動画にも入れていません」
紬は即答した。
「なら、ぎりぎり許す」
私は息を整えた。ここで笑って終わるわけにはいかない。
「ただ、そのくらい想像したくなる強さがある、という熱は残したいです。でも、公式の表現では抑えます。あくまで、前方後円墳という同じ形から、古代吉備の海と陸を考えるきっかけにします」
「熱は残すが、言葉は抑える」
「はい」
「前よりは、だいぶ危ない場所が分かるようになったな」
その言い方は、褒め言葉とは少し違った。けれど、私はうなずいた。
「危ない場所を分けないと、外へ出せないと思いました」
黒田さんは、そこでノートパソコンへ視線を向けた。
「映像は、どの程度できとる」
紬がパソコンを開いた。
「方向性確認用のパイロット版です。完成品ではありません。尺は四十秒程度。ロゴ、地図アニメーション、映像素材、文字の出し方を確認するためのものです」
「誰に見せる想定じゃ」
「観光に関心がある市外の人、歴史・文化に反応する人、短尺動画で最初に止まってくれる人です。ただし、公式サイトや詳細ページへつなぐ前提で作っています。動画だけで完結させません」
黒田さんは、私を見た。
「宮地。動画を見せる前に、口で説明しろ」
「はい」
私は資料の表紙に手を置いた。
「前に見ていただいた企画では、三町を横に並べていました。牛窓の海、長船の歴史、邑久の生活文化。けれど、それでは牛窓が正面で、長船と邑久が添え物に見えました」
黒田さんは何も言わない。私は続けた。
「今回は、横並びではなく、海と陸の鍵穴を軸にします。牛窓は、海の景色だけではなく、黒島古墳と海上交通。長船は、刀だけではなく、鉄と陸の技術。邑久は、緑ではなく、古代から続く平野の時間。三つを別々に紹介するのではなく、古代吉備の海と陸を、現代の旅で開く形にします」
黒田さんの指が、表紙の『悠久の記憶』のところで止まった。
「邑久が、ようやく出てきたな」
「はい。私が見ていなかっただけでした」
その言葉は、口に出しても痛かった。けれど、前ほど恥ずかしくはなかった。痛いところを見ないままでは、企画は強くならない。
紬が動画を再生した。
画面は、海の光から始まった。
すぐに文字が出る。
『なぜ、海と陸に同じ鍵穴があるのか。』
黒田さんの眉が、ほんの少し動いた。
次に、地図の線がゆっくり浮かぶ。陸側に前方後円墳の形。海側にも同じ形。二つの鍵穴が、地図の上で静かに光る。
『陸の鍵穴』
『海の鍵穴』
長船の火花が入る。鉄を打つ手元。熱で揺れる空気。土の色をした展示の質感。田園の向こうの低い丘。文字は少ない。
『鉄の火』
『土の下に眠る時間』
次に、牛窓の海。潮が引いた砂の帯。浅い水に映る空。遠くの島影。
『海の青』
『潮を待つ時間』
古い紙の受付印。地図に書かれた赤い線。須恵古代館の展示を思わせる土器の輪郭。本庁の窓に映る空。
『悠久の記憶』
最後に、二つの鍵穴が重なり、瀬戸内カラーの仮ロゴになる。
『瀬戸内カラー』
『海の青、鉄の火、悠久の記憶。』
『海と陸の鍵穴をめぐる旅』
動画は、潮が戻り始める黒島の足元で止まった。波の音だけが、ほんの少し遅れて小さく消える。
再生が止まった後、小会議室の空気が少しだけ変わっていた。外の暑さも、空調の音も、しばらく遠い。
黒田さんは腕を組んだまま、画面を見ていた。紬はパソコンに手を置いたまま、余計な説明をしない。私も黙っていた。今、こちらから言葉を足すと、映像が逃げる気がした。
黒田さんが、ようやく口を開いた。
「派手じゃないな」
私は身構えた。
黒田さんは、画面ではなく資料に目を落とした。
「でも、見終わった後に地図を見たくなる」
胸の奥で、何かが止まった。
「観光動画としては、ええ入り方じゃ」
紬の肩が、ほんの少しだけ下がった。息を吐いたのだと分かった。
黒田さんは、すぐに顔を上げた。
「で、これを事業にするには何が要る」
ここからが本番だった。
「まず、ブランド骨子の確定です。瀬戸内カラー、海と陸の鍵穴、コピーの三層で整理します。次に、古墳・古代史の表現確認。文化財担当と磯田さんの確認を経て、使える表現と使わない表現を分けます」
「黒島はどうする。映像を見る限り、強い」
「強いので、自由回遊には入れません」
黒田さんの目が、少し細くなった。
私は資料の該当ページを開いた。
「黒島は、潮位、天候、同行者、中止基準、戻る時間がそろう場合の限定体験として扱います。今年度は、安全条件の整理と小規模実証案までです。一般向けには、きらり館や公式ページで潮の時間、服装、靴、同行条件、代替案を確認できる形にします」
「潮位表は、注意書きにするんか」
「注意書きだけでは読まれません。開く時間と閉じる時間の案内として見せます。黒島へ行けない日も、次に行ける理由になります」
紬が補足した。
「だから、動画のラストカットは、あえて潮が戻り始めて道が閉じていく場面にしました。綺麗な映像だけだと、いつでも行けるように見えます。そこは避けます」
黒田さんは、画面をもう一度見た。
「ロマンに段取りがついたな」
その一言で、小野寺さんの顔が浮かんだ。歩く前に戻る時間を決める声。黒島は見たい気持ちより戻る時間が先じゃけん、という言葉。あれは制限ではなかった。企画を続けるための骨だった。
黒田さんは、次のページへ進んだ。
「店舗や事業者展開は。ジーンズとか、ずいぶん広げとるな」
紬が、ブランド展開案のシートを差し出した。
「これは展開可能性です。まだ外部には話していません」
黒田さんが私を見る。
「可能性と予定を混ぜるな」
「混ぜません。企画書上は『展開可能性』に置きます。商工担当との調整、参加基準、ロゴ使用ルール、費用負担、品質管理を整理してからです」
「なら、書き方は要注意じゃ」
「はい。『実施予定』ではなく、『次年度以降の展開候補』にします」
黒田さんはうなずき、今度は紬を見た。
「椎名さんの範囲は」
紬は、別紙を一枚前に出した。
「現時点で出しているのは、方向性確認用の試作です。正式に受けるなら、ロゴ、キービジュアル、動画テンプレート、SNSテンプレート、回遊マップ、店頭掲示素材、使用ガイドラインの範囲を仕様書で切ります」
紬の声は、淡々としていた。けれど、机の上に置かれた資料には、逃げ道が少ない。
「歴史説明文は、市と文化財担当の確認後に反映します。私が作るのは、歴史の答えではありません。答えへ人を連れていく形です」
黒田さんは、その一文を聞いて、少しだけ目を上げた。
「その線引きができとるなら、委託範囲として話ができる」
私は続けた。
「仕様書案も作ります。相談の範囲と、成果物として依頼する範囲は分けます。著作権、使用範囲、改変可能範囲、更新者も整理します」
「そこを曖昧にしたら、椎名さんにも市にも失礼じゃからな」
「はい」
前に同じようなことを言われた時、私は少し縮こまった。今は違う。友人として近いからこそ、仕事の線を引く必要がある。紬を遠ざけるためではない。ちゃんと一緒に仕事をするためだ。
黒田さんは、資料をめくりながら言った。
「今年度、どこまでやる」
「今年度は、ブランド骨子の確定、文化財・歴史表現の確認、ロゴ・キービジュアル・動画テンプレートの試作、三色回遊マップとパスポートの試作、参加事業者候補への内部説明準備までです。黒島は安全条件整理と小規模実証案まで。旅行会社、教育旅行、ふるさと納税は展開可能性の整理に留めます」
「前より、欲張らんようになった」
「欲張るために、今年度やることを絞りました」
黒田さんは、そこで少し黙った。
資料を一枚ずつ戻し、表紙を上にした。パソコンの画面には、動画の最後のフレームが残っている。潮が戻り始める足元。その上に、まだ仮の瀬戸内カラーのロゴ。
沈黙が落ちた。
以前なら、この沈黙が怖かった。何を削られるのか、どこを否定されるのか、そのことばかり考えていたと思う。
今日は違った。
怖くないわけではない。けれど、逃げたくはなかった。
この沈黙の中には、須恵古代館の地図がある。黒島の濡れた砂がある。紬のラフがある。小野寺さんの戻る時間がある。磯田さんの、もったいない、という声がある。
黒田さんは、ようやく口を開いた。
「前より、企画になった」
私は、すぐに返事をしなかった。
黒田さんは、表紙を指で軽く叩いた。
「宮地、いくつか確認する」
「はい」
「これは、昭和五十七年のポスターを復元する事業じゃないな」
「違います。ポスターは入口です」
「山本健治さんを主人公にする話でもない」
「名前は残します。でも、一人の物語にはしません」
「黒島を、映える場所として売る企画でもない」
「潮と安全管理を外したら、使いません」
「牛窓、長船、邑久を、ただ同じ紙に並べるだけでもない」
「並べるだけなら、また邑久が薄くなります」
黒田さんは、そこで初めて少しだけ顔を上げた。
「なら、これは何じゃ」
その問いを待っていた気がした。
いや、待っていたのではない。
ここまで来て、ようやく答えられる問いだった。
私は、表紙に置いた文字を見ながら答えた。
「旧三町を、一つに塗りつぶす企画ではありません」
自分の声は、思ったより落ち着いていた。
「牛窓の海の青も、長船の鉄の火も、邑久の長い時間も、それぞれ違う色のまま見せたいです。でも、ばらばらに置くのではなく、歩く人がその違いを集められる形にしたい」
私は、隣に置かれた紬のラフを見た。
「高校の時、私たちはSETOUCHI COLORというポスターを作りました」
紬は何も言わなかった。
「でも今は、市の仕事として、この土地の人も一緒に持てる名前にしたいです。外の人に見せるだけではなく、ここにいる人が、自分の町を誰かに渡せる言葉にしたい」
私は大きく息を吸いこみ、黒田さんを見据えた。
「だから私は、これを『瀬戸内カラー』として出したいです」
小会議室が、静かになった。
その静けさの中で、表紙の文字だけが、少し強く見えた。
黒田さんは、もう一度、表紙の文字をしばらく見てから指で軽く叩いた。
「宮地、ようやった」
一瞬、心臓が強く打った。
「これは、上げられる企画じゃ」
紬が息を止めたのが、隣で分かった。
「通るとは言わん。だが、上げられるところまでは来た」
私は、喉の奥が熱くなるのを感じた。
「ありがとうございます」
「礼は早い。ここからまた直す」
「はい」
「部内説明用に、もう一段整理する。目的、今年度範囲、予算、委託範囲、文化財確認、安全管理、効果指標。動画は長すぎんように、でも最初の問いは残せ」
「分かりました。今日中に整理します」
「それから」
黒田さんは、資料の後ろの参考資料欄を見た。
そこには、小さく入れていた。
参考:平成二十九年度観光ポスター公募応募作『SETOUCHI COLOR』
黒田さんは、その行をしばらく見ていた。
「これは、最後まで残しとけ」
「前には出しません」
「分かっとるならええ」
それだけだった。けれど、胸の奥の別の場所に届いた。
高校時代の私たちのポスターは、主役ではない。けれど、消さない。本文ではなく、参考資料の一行として残す。その場所が、今の私にはいちばん正しいと思えた。
黒田さんは赤ペンを取った。
私は、一瞬だけ息を止めた。
赤は、差し戻しの色だと思っていた。
けれど、黒田さんが表紙の右上に書いたのは、修正指示ではなかった。
『部内説明用資料へ』
小さな文字だった。
それでも私には、潮が開く音のように聞こえた。




