第4章「海と陸の鍵穴」 Scene24
数日後、牛窓へ向かう車の中で、私は何度もノートを開きそうになった。
海と陸の鍵穴。
なぜ、海と陸に同じ形があるのか。
古代吉備の海と陸を、現代の旅で開く。
昨日の字は、少し走っていた。自分でも分かる。けれど、読み返すたびに胸の奥が熱くなる。企画書の言葉が、まだ紙の上でじっとしていない。
助手席の紬は、膝の上にファイルを置いていた。昨日の鍵穴のラフが何枚も挟まっている。丸と四角をどこまで削るか、二つの鍵穴を重ねるか、並べるか、片方だけを波の線に沈めるか。ちらりと見えただけでも、紬の頭の中で形が走っているのが分かった。
後部座席の磯田さんは、潮位表と黒島周辺の地図を見比べていた。昨日、須恵古代館で地図を広げていた時とは少し違う顔だ。古墳の話をする時の熱は残っているのに、目はもう海の時間を測っている。
「磯田さん、昨日からずっと地図見とりますね」
私が言うと、磯田さんは顔を上げた。
「黒島は、地図だけ見てたらあきませんからね。潮位表だけ見てもあきません。両方見て、最後は現地で決めます」
「学芸員の仕事って、もっと室内で紙を見とるイメージでした」
「僕も入る前はそう思ってましたわ。でも黒島古墳を見に行こうとしたら、紙だけでは無理です。海に出る前に負けます」
紬がファイルを閉じた。
「今日は、撮影より確認ですね」
「その方がええと思います。撮る気で行くと、見落とすもんが増えますから」
磯田さんの言葉に、紬は小さくうなずいた。撮影を止められたのではなく、見る順番を確認した顔だった。
瀬戸内きらり館に着くと、空は明るかった。夏の光が、駐車場の白線を強く照らしている。海の方から、少し湿った風が来た。昨日まで地図の上にあった黒島が、その風の向こうにある。
小野寺さんは、入口の前で私たち三人を見た。
「おはようございます。今日は潮の時間が限られとるけん、先に確認だけしときますね」
声はいつも通り明るかった。
けれど、案内所で観光客に道を説明する時とは、少し違う硬さがあった。
「黒島へ渡るんなら、行きたい場所より戻る時間が先です。そこは守ってください」
「はい。今日は、その判断も含めて見に来ました」
私が答えると、小野寺さんは磯田さんへ目を向けた。
「磯田さんも一緒なんですね」
「はい。昨日、陸の方を見てもらったので、今日は海の方を見てもらおうと思いまして」
「それなら話が早いわ」
小野寺さんの表情が、少しだけ緩んだ。
「宮地さん、椎名さん。今日は磯田さんが止めたら止まってください。黒島は、見たい気持ちより戻る時間が先じゃけん」
「磯田さん、黒島はそんなに歩いとるんですか」
私が聞くと、小野寺さんがうなずいた。
「何十回も歩いとるよ。古墳を見る前に、潮を見る人じゃから」
磯田さんは少し困ったように笑った。
「それ、褒められてます?」
「黒島では、だいぶ褒めとる方です」
小野寺さんは、手にしていた紙を広げた。
潮位の時間、集合から戻りまでの目安、今日行ける範囲。
線は少ないが、余白が多かった。
その余白に、現場で決めることが入っているのだと分かった。
「今日は、黒島を全部見る日じゃありません。海が許す範囲を見る日です」
小野寺さんの言い方は、きっぱりしていた。
紬がファイルを抱え直した。
「見せたいものより、見せられる条件が先なんですね」
「そうじゃな。お客さんは、見たいものに足が向くけど、案内する側は帰るところまで見とかんといけん」
その一言で、先日、小野寺さんに赤を入れられた資料の重みが、また鞄の中で増した。
あの時は紙の上の注意事項だった。今日は、靴の下の話になる。
港の方へ出ると、海はまだ遠浅の光を抱えていた。
潮が引き、島へ向かって、道のようなものが見えている。まっすぐな線ではない。濡れた砂の帯が、浅い水をまといながら、ゆるく曲がって島の方へ伸びている。
海が道になる。
私はその言葉を、企画書に書こうとしていた。
けれど目の前のそれは、言葉よりずっと不安定で、ずっと美しかった。
空の色が、水の薄いところに映っている。
砂は光を返し、ところどころに小さな水たまりが残っていた。
足跡をつけたら、すぐに水がにじんで消えそうだった。
「これを、道って呼んでいいんかな」
思わず口にすると、磯田さんが足元を見ながら答えた。
「道みたいに見えますけど、道とはちょっと違いますね」
磯田さんは、濡れた砂の端を指した。
「海が一時的に退いて、近づく時間を貸してくれてる場所ですわ。歩ける形をしていても、ずっとそこにあるわけやない」
「時間を、貸してくれる」
「ええ。だから、借りた時間の中で戻らないといけません」
紬がスマートフォンを構えた。けれど、すぐに下ろした。
「撮らんの?」
私が聞くと、紬は海の方を見たまま答えた。
「撮れます。でも、今撮ると、綺麗なだけになります」
「潮を待つことや、戻る時間まで入れないと、この場所の本当の条件が落ちる」
「はい。美しさだけを切り取ると、嘘に近づきます」
磯田さんが、感心したように紬を見た。
「それ、古墳にも同じこと言えますね。形だけ切り取ると、墓であることや、守ってきた人の時間が落ちる」
小野寺さんが、私たちの会話を聞きながら、足元を見ていた。
「話はええけど、歩きながら考えてください。立ち止まる場所も、時間も、今日は限られとるけん」
「はい。頭だけ先に行かんようにします」
「宮地さんは、昨日からだいぶ頭が先に行っとる顔しとるよ」
見抜かれていた。詳しい話はしていないはずなのに、顔だけで十分だったらしい。
「今日は、足の方を先にします」
「それならええわ」
小野寺さんが笑い、私たちは歩き始めた。
最初の一歩で、靴底が湿った砂を踏んだ。思ったより柔らかい。次の一歩では、小さな水が脇へ逃げた。
足元を見ていると、風の音が大きくなる。顔を上げると、島が少し近づいている。
磯田さんは先頭を歩きすぎない。数歩進んでは足元を見て、潮の残り方を見る。
昨日、地図の上で古墳時代まで飛んでいた人が、今日は数センチの水を見ている。その落差が、かえって信頼できた。
「黒島の難しいところは、行けるかどうかだけじゃないんですわ」
磯田さんが言った。
「戻れる時間を残して、どこまで見るかを決めないかん。古墳を見たい気持ちだけで動くと、判断が遅れます」
「観光コースにするなら、見せたい場所より先に、引き返す判断を組み込まないと危ないんですね」
「はい。行ける場所を増やすより、無事に帰って、また来たいと思える範囲を決める方が大事です」
小野寺さんが後ろから言った。
「それを最初から書いてくれるなら、案内所も説明できます。『今日はここまでです』って言える理由があると、お客さんも納得しやすいけん」
紬が、歩きながら地図を見た。
「全部見せない設計ですね」
「見残しを失敗じゃなくて、次に来る理由にするんじゃな」
私の言葉に、紬は少しだけ目を上げた。
「その言い方なら、ツアーの満足度も下がりません。全部見せないのは手抜きではなく、安全と期待の設計になります」
「次に開ける鍵を残す」
「はい。でも、言いすぎるとコピーっぽいです」
「今のは自覚ある」
「なら大丈夫です」
歩くたび、足元の水が小さく動く。水は透明で、砂の上に薄い膜のように残っている。
遠くで船の音がした。風に混じって、海藻の匂いがする。
黒島は近い。
でも、近いからといって自由に行ける場所ではない。
私は、瀬戸内カラーの資料に入れる予定だった「黒島へ歩く特別体験」という言葉を思い出した。
体験。便利な言葉だ。
けれど、この足元の柔らかさや、戻る時間の緊張を抜いたまま体験と書いたら、それは嘘に近づく。
「先輩」
紬が言った。
「何」
「今、言葉を消しましたね」
「顔に出た?」
「少し」
「黒島へ歩く特別体験、って書いとった」
「消した方がいいです」
「うん」
私は立ち止まらずにノートを開くことはできなかったので、頭の中でその言葉に線を引いた。
黒島へ歩く特別体験。削除。
代わりに、別の言葉が浮かぶ。
潮を待って開く、海の鍵穴。
いや、まだ少し強い。
黒田さんなら「詩に逃げるな」と言うかもしれない。
「今度は、何か足しましたね」
「怖いな、紬」
「顔が下書きになっています」
私は諦めて言った。
「潮を待って開く、海の鍵穴」
「悪くないです。でも、公式説明ではなく、動画の導入くらいです」
「分かった」
「説明本文では、潮位と安全条件を先に置きましょう」
「現実が先、詩は後ろ」
「はい。詩は、現実の上にだけ置けます」
その言葉は、少し胸に残った。
私たちは、黒島へ向かう途中で一度足を止めた。小野寺さんが潮位表と腕時計を確認する。
「今日はここまでにしときましょう」
あまりにもあっさりと言った。
「古墳までは行かないんですね」
聞いた瞬間、自分の中にまだ「見たい」が残っていたことが分かった。
「行けんことはないです」
小野寺さんは言った。
「でも、戻りが少し窮屈になる。今日は企画の確認であって、全部見る日じゃない」
「はい」
私は足元を見た。湿った砂の上に、自分たちの足跡が続いている。少し先へ行けば、もっと見えるかもしれない。
でも、今日はここまで。
不思議と、それほど残念ではなかった。
むしろ、ここで止まる判断を企画に入れられることの方が大事な気がした。観光客に全部を見せることだけが、満足ではない。
安全に戻り、また来たいと思ってもらうこと。
見られなかったものが、次の理由になること。
それも設計なのだ。
磯田さんが、遠くの島の緑を見ながら言った。
「前方後円墳の話をするなら、今日は行けなかった、でも成立します」
「成立するんですか」
「します。地図で陸の鍵穴と海の鍵穴を見て、潮の道を途中まで歩く。そこで、海が時間を持っていることが分かる。古墳そのものを見るのは、次の回でもええ」
「全部を一度で消費しない」
「そうです。古代史は、一日で食べ切るもんやないですから」
小野寺さんが笑った。
「観光も同じよ。一回で全部食べさせようとすると、だいたい胃もたれするけぇ」
紬がすぐに言った。
「その言葉、分かりやすいです」
「使うん?」
「使いません。でも考え方としては使います」
私たちは引き返した。
戻る道は、行きよりも少し違って見えた。同じ砂の帯のはずなのに、帰りは時間を意識する。風の向きも、足元の水の量も、さっきとは違う気がする。
借りた時間の中を歩く。磯田さんの言葉が、何度も戻ってきた。
港の方へ戻る頃には、靴の先が少し濡れていた。ズボンの裾にも、細かな砂がついている。紬のファイルの端は、風で何度かめくれた。小野寺さんの潮位表には、指で押さえた跡がついていた。
紙も、人も、少し海に触れていた。
港近くのベンチまで戻ると、小野寺さんが小さく息を吐いた。
「はい、今日はここまで。ちゃんと戻れました」
「戻るところまでがコースですね」
「そうじゃな。帰ってから思い出せるところまでが観光です」
その言葉を、私はすぐにノートに書いた。
帰ってから思い出せるところまでが観光。
小野寺さんは少し照れたように笑った。
「あんまり大げさにせんでよ」
「します」
「宮地さん、たまに正直すぎるわ」
紬は、ベンチの隣でファイルを開いた。昨日の「海と陸の鍵穴」のラフの下に、新しく書き足す。
陸の鍵穴は、土の下の時間を開く。
海の鍵穴は、潮を待つ時間で開く。
私はそれを見て、しばらく黙った。
地図の上で見た鍵穴は、形だった。今、靴の中の湿り気と一緒にある鍵穴は、時間だった。
「見たら、書き直したくなったじゃろ」
小野寺さんが言った。
「全部、書き直したいです」
「それは黒田さんに怒られるな」
小野寺さんが笑うと、紬がすぐに言った。
「全部は困ります。でも、芯は変えられます」
磯田さんも、鞄に地図を入れながら言った。
「密約は止めますけど、鍵穴は残しましょう」
「そこは、私も我慢します」
「宮地さんが我慢できたら、かなり強い企画になりますわ」
小野寺さんが、私を見た。
「そこまで見て、ちゃんと怖がれたんなら、黒田さんに持って行けるんじゃないですか」
胸の奥で、何かが一段上がった。
以前、小会議室で、私は黒田さんに止められた。あの時の企画書は、地図の線と資料の名前でできていた。
今、鞄の中にあるノートは、湿った靴と潮の匂いを知っている。
私は、濡れた靴のままベンチに腰を下ろし、ノートを開いた。紙の端が、湿気で少し波打っているけど、構わなかった。
瀬戸内カラー。
海の青、鉄の火、悠久の記憶。
海と陸の鍵穴。
鍵穴を見せるだけでは足りない。
鍵穴まで行ける時間を設計する。
そこまで書いたところで、紬が隣からページをのぞき込んだ。
「これなら、見せられます」
「うん。今度は、机の上だけで引いた線じゃない」
黒田さんに見せる。
そう決めた時、潮の匂いがまだ手元に残っていた。




