第4章「海と陸の鍵穴」 Scene23
翌朝、私は企画の骨子案を、もう一度読み返していた。
旧三町広域観光ブランド再構築・回遊促進事業。
外向きブランド案、瀬戸内カラー。
海の青、鉄の火、悠久の記憶。
昨日、紬の事務所で見た仮編集の画面では、その言葉はちゃんと息をしていた。
牛窓の海の光、長船の火花、古い紙の受付印、土の色、港へ向かう道。本庁の窓に映った空まで、あの三つの言葉に引き寄せられていた。
けれど、朝の机の上で企画書に戻ると、言葉は少しだけ硬くなる。熱が冷めたわけではない。ただ、紙に載った瞬間、言葉は説明を求めてくる。
海の青は、牛窓でいい。
鉄の火は、長船でいい。
では、悠久の記憶は、何で支えるのか。
夢二だけではない。役場の古い紙だけでもない。もちろん、田園の緑だけでもない。本庁の書庫で開いた古い一覧の文字が、頭に残っていた。
『夢二関係、古墳・古代史関係、農産物、文化財案内、町内写真資料』
邑久町の欄に並んでいたそれらのうち、私は『古墳・古代史関係』を、まだ言葉にできていなかった。緑では足りない。でも、時間という言葉だけでも足りない。
私はスマートフォンを手に取り、森下さんに短いメッセージを送った。
『邑久・長船の古墳や古代史の扱いについて、観光表現にする前に確認したいです。話を聞ける方を紹介いただくことは可能でしょうか』
返信は、思ったより早かった。
『古墳の件なら、須恵古代館の磯田さんに話を聞いた方が早いです。若いですが、現地をよく歩いています』
若いですが、という一文に、私は少し引っかかった。文化財や郷土史の話で紹介される人は、たいてい私よりずっと年上だ。古い資料の束と同じくらい、長い時間を背負った人が出てくるものだと思っていた。だから、待ち合わせ場所に指定された長船町西須恵の須恵古代館で、その人を見た時、私は一瞬、森下さんの紹介相手を間違えたのかと思った。
須恵古代館。
名前からして、今日の話にふさわしすぎる。
建物の前に立つと、昨日まで企画書の中でぼんやりしていた「悠久の記憶」という言葉が、急に土の匂いを持ったような気がした。
入口脇で地図ケースを抱えていた男性は、私や紬と同じくらいの年に見えた。
白いシャツの袖を肘の手前までまくり、眼鏡の奥の目がよく動く。
落ち着いているのに、どこか待ちきれないような空気があった。
「宮地さんですか」
柔らかい声だった。
標準語で取り繕うことなく、自然な関西のアクセントだった。
「はい。観光文化戦略課の宮地です」
「須恵古代館の磯田です。森下さんから聞いてますわ。古墳や古代史を観光の言葉にする前に、いっぺん話を聞きたい、いうことで合ってますやろか」
「はい。まだ、どう扱えばいいのか分かっていなくて」
磯田さんは、地図ケースを軽く持ち直した。
「それやったら、最初に言うときますわ」
少しだけ、口元が上がる。
「瀬戸内市の古墳時代、かなりおもろいですよ。地元の人が思てはるより、たぶんずっと」
初対面の行政職員相手でも、磯田さんは自分の言葉のままだ。
その関西の響きを聞いているうち、私の方も少しずつ肩の力が抜けていった。
紬が私の隣で小さく頭を下げた。
「椎名です。デザインの方で関わっています」
「森下さんから聞いてます。見せ方も大事になりますよね」
「今日は、形として人に伝えられる部分があるかを見たいです」
「形やったら、前方後円墳はめちゃくちゃ強いですよ。形だけで、まず引っかかりますしね」
その一言で、磯田さんの声が少しだけ変わった。
私たちは須恵古代館の閲覧スペースに入った。展示の気配が近くにあるせいか、空気が少し静かだった。
磯田さんは机の上に文化財分布図と地形図を広げる。紙の端を文鎮で押さえ、赤と青の細いペンを並べた。その動作に迷いがない。
森下さんや紬とは違う種類の手つきだった。資料を守る手でも、配置を整える手でもない。地図の中から、時間を掘り起こす手だ。
「まず、宮地さんが気にしてはる邑久の古代史の話から始めますね」
磯田さんは言った。
「邑久には古墳があります。豊原平地古墳も大事です」
「邑久の古代の厚みを支える材料としては、そこを外すわけにはいかないんですね」
「ええ。ただ、あれは円墳なんですわ。古代の邑久を考えるうえでは重要やけど、今日、海と陸を『形』でつなぐんやったら、中心に置くのは前方後円墳の方が強いです」
「邑久の古墳を全部まとめて同じ形の話に入れるのは乱暴なんじゃな」
磯田さんは、すぐにうなずいた。
「そこを分けられるなら、観光の言葉にしても崩れにくいですわ」
磯田さんの指が、地図の上を長船の方へ動いた。
「築山古墳です。前方後円墳。陸の側にある、大きな鍵穴です」
鍵穴。
その言葉に、紬の鉛筆が一瞬止まった。
磯田さんは続ける。
「前方後円墳って、専門的にはもちろんそう呼ぶべきなんです。でも、形として見せるなら、鍵穴という言い方は強い。見た人が一瞬で形を理解できます」
「公式説明では前方後円墳。入口の表現として鍵穴」
「そうです。入口としては使える。でも、前方後円墳を鍵穴と言い切って終わると、軽くなる。そこは分けた方がええです」
私はノートに書いた。
前方後円墳。
鍵穴は、入口表現。
説明では抑える。
磯田さんの赤いペンが、今度は地図の海側へ動いた。
「それで、黒島古墳です」
赤い点が、牛窓の海の方に置かれる。
「ここも前方後円墳なんですわ」
「黒島に」
「はい。海の側に、鍵穴がある」
その言葉が落ちた瞬間、紙の上の地図が少し変わった。
私は、ずっと牛窓を海として見ていた。
長船を鉄として見ていた。
邑久を時間として見ようとしていた。
でも今、地図の上で、陸と海に同じ形が見えた。
築山古墳。
黒島古墳。
陸の鍵穴と、海の鍵穴。
背筋を伸ばすより先に、体が前へ出ていた。
歴史は、こういう時に一気に近づいてくる。遠い過去が、地図の上で急にこちらを向く。見慣れた町の下から、知らない国の輪郭が立ち上がる。
その瞬間が好きだったのだと、私は思い出した。
「これ、すごくないですか」
声が少し大きくなった。紬がすぐに横から言う。
「先輩、声が隣の部屋まで行きます」
「ごめん。でも、これは黙って聞くの無理じゃろ」
磯田さんが笑いをこらえるような顔をした。
「無理やと思いますわ。外から来た人間からすると、かなり変ですからね。もちろん、ええ意味でですよ」
「地元側の感覚が鈍っていると言われても、これは反論できんですね」
「やって、陸に大きな前方後円墳があって、海の島にも前方後円墳がある。同じ市域で、海と陸に、ヤマトにつながる時代の鍵穴があるんです。これを普通に別々の史跡として置いとくの、もったいなさすぎますって」
外から来た人の言葉は強かった。
私は、ずっと内側から見ていた。知っているつもりで、使えるものを探していた。でも、外から来た磯田さんは、同じ地図を見て本気で悔しがっている。
地元の私が普通に通り過ぎていたものを、悔しがっている。
「これ、ヤマトと吉備の密約じゃん」
言った瞬間、磯田さんが今度こそ吹き出した。
「その言葉、言いたくなる気持ちは分かりますけど、展示で書いたら僕が怒られますわ」
「分かっとる。でも、陸で作って、海で運んで、同じ鍵穴でヤマトとつながっとるように見えるんよ。古代吉備とヤマトの密約って叫びたくなる」
「叫ぶ場所は選んでくださいよ。少なくとも案内板では我慢ですわ」
「行政職員としても我慢した方がええな」
「ええ。そこはかなり我慢してくださいね」
磯田さんは、そこで両手を少し上げた。
「でも、その熱は大事ですわ。密約とは書けませんけど、そう想像したくなるだけの強さが、この地図にはありますから」
紬が、鉛筆で描いた鍵穴の横に、もう一つ鍵穴を描いた。
「公式資料では抑える。でも、最初に見る人の心を動かす熱は残す」
私はうなずいた。
「熱は残す。言葉は抑える」
「はい」
紬は、紙の端に大きく文字を書いた。
海と陸の鍵穴。
私はその文字を見た瞬間、胸の奥が熱くなった。
瀬戸内カラー。
海の青、鉄の火、悠久の記憶。
その下に、海と陸の鍵穴。
詩のように並んでいた三つの言葉に、骨が入った気がした。
「これ、芯になります」
紬が言った。
「三色をただ並べるんじゃなくて、鍵穴で一つの旅にするんじゃな」
「はい。いままで三色は並んでいました。でも、鍵穴が入ると、開きます」
「色が古代史を開ける。その見せ方なら、瀬戸内カラーという名前も強くなる」
「そうです。色が、場所を開けるんです」
磯田さんが、少し感心したように紬を見た。
「デザイナーの人って、そういう言い方しはるんですね」
「学芸員の人が『時間が溶ける』と言うのと同じです」
「それは、たしかに言います」
三人で笑った。
笑いながらも、机の上の地図からは目が離せなかった。
陸と海。
長船と牛窓。
そのあいだに広がる邑久の平野。
これまで並べていた三つの色が、古代の形によって一つの入口を持ちはじめている。
紬は紙の端に、いくつかの小さな案を書き足した。
ロゴ。
マップアイコン。
動画の冒頭。
回遊カードの導入。
展示のピクトグラム。
以前の紬なら、ここから商品展開まで一気に広げていたかもしれない。いや、今も彼女の頭の中には、たぶん広がっている。焼き菓子も、栞も、金属チャームも、ジーンズの革パッチも、すでに見えているのだろう。
けれど、紬は紙にそれ以上を書かなかった。
「展開できる場所は多いです」
紬は言った。
「でも、今ここで全部を出すと、鍵穴が軽くなります」
「まずは、入口としての鍵穴」
「はい。ロゴと動画とマップ。そこまでに絞った方が強いです」
「商品化は」
「別紙。可能性として管理します。最初の資料では前に出しません」
私は思わず笑った。
「管理するんじゃな」
「保留と書くと眠るので」
「黒田さん化しとる」
「必要な進化です」
磯田さんが、地図を見ながら言った。
「でも、ほんまに気をつけてくださいね。古墳は強い形です。強いから、かわいくも、かっこよくも、商品にもできます。でも、お墓ですから」
「はい」
紬の返事は早かった。
「軽く使うと、壊れます」
「そうです。形だけ取ると、時間が落ちる」
「時間を落とさないために、最初の説明を設計します」
私は、さっきのメモの下に書き足した。
鍵穴。
入口として使う。
公式説明では前方後円墳。
古墳=墓であることを落とさない。
商品展開は別紙管理。
まずはロゴ・動画・マップ。
書きながら、手が少し震えていた。興奮している。
でも、前のようにただ浮いているだけではなかった。熱くなったものを、どこまで前に出し、どこで抑えるか。その線が、少しずつ見えてきていた。
「黒島、行った方がいいですね」
磯田さんが言った。
私と紬は顔を上げる。
「地図の上で見えることと、潮の時間で歩くことは違います。海の鍵穴を使うなら、黒島の条件を体で分かっといた方がええです」
「明日、小野寺さんに確認します」
「僕も行けるなら行きます。古墳を見る人間が、潮を見ずに語るのは危ないですから」
その言い方が、とても磯田さんらしかった。
昨日、地図の上で古代史まで飛んでいた人が、明日は潮を見ると言っている。
それが、妙に信頼できた。
私はノートを閉じた。
海と陸の鍵穴。
その言葉は、まだ紙の上にある。
けれど、後日きっと、靴の下に来る。




