第4章「海と陸の鍵穴」 Scene22
翌日の午後、私は小野寺さんに赤を入れられた資料を抱えて、紬の事務所へ向かった。
古い家の引き戸は、相変わらず少し重かった。開ける時に、木が低く鳴る。
前に来た時よりも、玄関先の空気がいくらか夏に近づいていた。畳の匂いと、古い柱の匂いと、どこかで干された紙の匂いがする。
ここは住まいで、仕事場で、紬の頭の中が少しだけ外へ漏れている場所でもある。
「来たよ」
「入ってください。机、少し散らかってますけど、必要な散らかりです」
必要な散らかり。
その言葉の通り、作業机の上には、いろいろなものが広がっていた。
三色の仮ロゴ案。
短尺動画の構成メモ。
観光客向けのラフ。
店舗向けの説明シート。
旅行会社向けの一枚提案書。
それから、見慣れた高校時代のポスターのコピー。
古い家の中で、仕事だけが静かに速度を持っていた。
「小野寺さんに、だいぶ直された」
私が資料を机に置くと、紬はうなずいた。
「紙、ちゃんと汚れてますね」
「小野寺さんにも同じようなこと言われたわ。紙は汚れた方が強くなるって」
「現場を通った紙は、信用できます」
紬はそう言って、資料を種類ごとに分けはじめた。
迷いがない。
観光客向け。
店舗向け。
旅行会社向け。
庁内説明向け。
SNS向け。
内部資料。
私が持ってきた紙の束は、紬の手元で、意味のある山に分かれていく。
「一つのパンフレットで解決する話ではありません」
紬は、観光客向けの束に付箋を貼りながら言った。
「相手ごとに、必要な情報の量と順番が違います」
「観光客には、行ってみたいと思える理由。店には、参加しても無理がない理由。旅行会社には、売れる条件。庁内には、説明できる根拠」
「はい。やっと紙が分かれてきました」
やっと、と言われると少し刺さる。
たぶん事実なので、刺さったままにしておく。
私は鞄から、もう一枚のメモを出した。
黒田さんに言われたことを、自分なりに整理したものだ。
見積。
仕様。
契約。
成果物。
著作権。
使用範囲。
友人や後輩として扱うな。
事業に入れるなら、仕事として扱え。
文字にすると、急に硬い。
でも、避けてはいけない硬さだった。
「紬」
「はい」
「今回は、友人として雑に頼むんじゃなくて、仕事として相談したい。もちろん、しゃべり方まで他人行儀にするつもりはないけど」
紬は手を止めた。
からかわれるかと思ったが、そうではなかった。
「その方がいいです」
紬は、まっすぐ私を見た。
「私も、そのつもりで見ます」
「じゃあ、どこまで頼むかを決めんといけん。ロゴ、回遊カード、SNSテンプレート、動画、旅行会社向け資料の見せ方。このままだと『ビジュアル設計協力』で全部まとめてしまいそうになる」
「その書き方は危ないです」
「どこから危ない?」
「全部です」
即答だった。
「どこからどこまでが私の成果物か。誰が更新するのか。使える範囲はどこまでか。市が改変していいのか。別年度にも使うのか。事業者がロゴを使う時のルールはあるのか。そこが曖昧な仕事は、だいたい後で揉めます」
「無料の親切で作ったものほど、責任の場所が分からんようになるやつじゃな」
「そうです。友人として相談に乗る範囲と、事業の成果物として作る範囲は分けてください」
紬は、そこで少しだけ息を置いた。
「それから」
「まだある?」
「あります」
紬は、手元の鉛筆を机に置いた。
「正式に受けるなら、私は先輩の味方だけではいられません」
「味方じゃなくなるん?」
「個人的には味方です。でも、仕事としては、見る人の味方になります。お客さん、店、旅行会社、市、文化財担当、現場の人。そこに必要なら、先輩が好きな言葉でも切ります」
「…厳しいな」
「はい。受けるなら、そこまで含めて受けます」
その言葉は、少し寂しくて、かなり頼もしかった。
高校の後輩の紬ではない。
こちらの都合のいい相談相手でもない。
市の事業に入るなら、椎名紬は、見る人の入口を設計する専門家になる。
「分かった」
私は言った。
「切ってください。必要なら」
「言いましたね」
「言った」
「録音しておきたいくらいです」
「やめて」
「冗談です。半分」
半分なのが怖い。
紬は、机の端に置かれていたファイルを開いた。
中には過去の仕事の印刷物が入っていた。
地域産品のパッケージ。
小さな宿泊施設のロゴ。
クラフト商品のショップカード。
食品事業者のSNS投稿テンプレート。
どれも派手ではない。
けれど、商品が何者か、どんな人に届いてほしいのかが、余白と文字の量で分かる。
その中に、デザイン系のWebメディアに掲載されたプロフィールページの印刷もあった。
学生時代のコンペ受賞歴。
東京で関わった地域産品の案件。
独立後の仕事。
さらっと置かれているが、さらっとしている量ではない。
私は、紬が有能だと知っていた。
でも、それは美術室で、私の配色を無言で直してきた後輩としての知り方だった。
いま目の前に並んでいるのは、仕事として人から選ばれてきた椎名紬の跡だ。
「すごいな」
思わず言うと、紬は少しだけ肩をすくめた。
「生活していくために必要だったので」
「そういう言い方するところ、紬らしいわ」
「褒め言葉として受け取っておきます」
私はファイルを閉じた。
「黒田さんに、友人価格で済ませるなって言われた」
「黒田さん、正しいです」
「私もそう思う。市の事業に名前を出すなら、仕様書を作る。見積も取る。著作権と使用範囲も整理する」
「それなら、話ができます」
紬は、仕事の顔で言った。
でも、その言い方は冷たくなかった。
距離が遠くなったわけでもない。
私たちは相変わらず、同じ机を挟んで、言いたいことを言っている。
ただ、机の上にある紙の重さが変わっただけだ。
「では、見せるものを組み直します」
紬は、観光客向けの束を手前に置いた。
「まず、観光客向けは、説明より先に『動きたくなる理由』が必要です。小野寺さんの赤入れを見る限り、現場の条件はかなり増えました。でも、このまま出すと、注意事項の束になります」
「正しい情報でも、最初から全部渡すと重い」
「はい。渡し方を間違えると、親切が重荷になります」
「条件は裏に置いて、最初に見えるところは軽くする?」
「軽く。ただし、軽すぎると嘘になります」
紬は、黒島と潮の道のメモを指した。
「ここは特に気をつけます。動画では強い絵になります。でも、誰でもいつでも行けるように見せてはいけない」
「小野寺さんも同じこと言っとった。夢を壊さんために段取りが要るって」
「いい言葉です。使いましょう。ただし、コピーではなく設計に」
紬は付箋に書いた。
段取りがロマンを守る。
それを黒島の資料に貼る。
「紬の付箋、たまに厳しい標語みたいになるな」
「必要な厳しさです」
しばらく資料を分けたあと、昼を過ぎた。
紬が「少し外に出ましょう」と言い、私たちは休憩がてら近くの店まで歩いた。
道の途中、SNSの運用イメージについて話していた時、紬がスマートフォンを見て小さく眉を寄せた。
「また出てきました」
「何が」
「広告です。『揚げたてポテト専門店』」
画面をこちらに向ける。
写真はおいしそうだった。
細長い紙カップ、手書き風のロゴ、産地名らしい横文字、白い壁。
いかにもSNSで流れてきそうな画面だ。
「ポテトは悪くないじゃろ」
「ポテトは悪くありません。私、芋は好きです」
「そこは否定せんのじゃ」
「本当に芋に向き合っている店なら、専門店でも好きです」
紬はスマートフォンをしまった。
「でも、あの『なんとか専門店』って言い方は、少し警戒します」
「流行っている型に、同じ顔を貼っている感じがする時がある」
「そうです。低原価で、見た目を整えて、高級そうな言葉をつけて、SNSで『話題』にする。もちろん全部が悪いわけではありません。でも、作り手の技術や味やサービスより先に、情報で食べさせる店は苦手です」
「情報で食べさせる、か」
「はい。産地名、プレミアム感、手書き風ロゴ、白い壁、専門店という言葉。コンサルが作った型に、中身を後から流し込んだみたいな店があります」
「タピオカとか、ポテトとか」
「その商品が悪いわけではありません。中身に向き合っている店は、ちゃんと残ります。でも、流行語と写真映えだけで消費させる店は、土地に根を張りません」
私は小野寺さんの言葉を思い出した。
気持ちよく払う。
無理なく受け取る。
「でも、お客さんが納得して払うための情報を、先に用意しているとも言えるよな」
「そこは学ぶところがあります」
紬はすぐ認めた。
「人は、何にお金を払っているのか分からないものには不安になります。素材、作り手、手間、場所、体験、背景。それが整理されていると、気持ちよく払える」
「問題は、その情報が本物かどうかか」
「はい。空っぽのものに物語を貼るのは嫌いです。でも、本当に中身があるものに、何も貼らないのも不親切です」
その言葉は、すっと入ってきた。
瀬戸内市には、中身がある。
牛窓の海も、長船の鉄も、邑久の時間も、店も、人も、資料も、手仕事もある。
けれど、それらを「分かる人だけ分かればいい」と置いたままにしていたら、来る人には届かない。
空っぽに物語を貼る仕事ではない。
あるものを、あると分かる形で渡す仕事だ。
それが、私たちのやろうとしていることなのだと思った。
事務所に戻ると、紬は作業机の上に一枚の古いコピーを置いた。
平成二十九年度観光ポスター公募審査結果
SETOUCHI COLOR
岡山県立邑久高校美術部
宮地薫
椎名紬
一次審査通過
「高校の時は、英字にしたんですよね」
紬が言った。
「少しでも外向きに見せたかったんじゃと思う。いま見ると、背伸びしとる」
「悪くはないです。あの時の私たちは、外へ向けようとしていました」
「でも、市の事業でそのまま使うと、少し遠い気がする」
「私もそう思います」
紬は新しい紙を一枚出した。
そこに、太めのペンで書く。
瀬戸内カラー
英字ではない。
カタカナでもない。
見慣れた地名と、少しだけ外へ向いた言葉が、同じ行に並んでいる。
「今度は、こっちです」
「高校の時のSETOUCHI COLORを、なかったことにするわけじゃないよな」
「しません。あれはあの時の私たちに必要でした」
「外に投げるための色だった」
「今回の瀬戸内カラーは、この土地の人たちも一緒に持てる名前にしたいです」
その言い方が、しっくりきた。
SETOUCHI COLORは、あの時の私たちが外へ投げた色だった。
瀬戸内カラーは、今の私たちが、この土地の人たちと一緒に持つための名前になる。
紬は、さらに下に三つの言葉を書いた。
海の青。
鉄の火。
悠久の記憶。
私は、最後の一行を見て少し固まった。
「それ、使うん?」
「使います」
「あれ、勢いで言うたやつじゃけど」
「勢いで出た言葉の方が、先輩の本音に近いことがあります」
「邑久と悠久は読みも意味も違うし、郷土史好きの危険行為じゃって自分でも思っとる」
「その自覚があるなら大丈夫です」
紬は、三つの言葉を少し離して配置した。
「邑久を緑で終わらせると、また薄くなります。田園の町としては間違っていません。でも、時間が入りません」
「悠久は、大きすぎん?」
「大きい時間を扱っています。小さく言うと、また邑久が背景になります」
私は黙った。
牛窓は、海の色で立ち上がる。
長船は、火と鉄と手仕事で立ち上がる。
邑久は、緑ではなく、時間で立ち上がる。
古代吉備。
古墳。
土を焼いた人。
夢二の線。
役場の紙。
合併後の本庁。
それらをまとめてしまうのは怖い。
けれど、何も言わないままにする方が、もっと不親切なのかもしれない。
「じゃあ、これを仮コピーにしよう」
「仮ではなく、強めの候補です」
「紬はたまに逃げ道を塞ぐな」
「先輩は逃げ道が多すぎます」
その通りなので、反論はしなかった。
次に紬は、動画編集ソフトを開いた。
画面には、仮素材が並んでいる。
牛窓の海の光。
船。
港。
長船の火花。
鉄。
手元。
邑久の古い資料。
土の色。
夢二の案内板。
本庁の窓。
素材はまだ粗い。
音も仮だ。
それでも、並びには紬の意思がある。
「SNSは、行政公式だけでは弱いです」
紬は言った。
「TikTok、Instagram Reels、YouTube Shorts。どこで見るかは人によりますけど、最初の一秒で止まってもらえないと、その先を見てもらえません」
「市のパンフレットより先に、動画で知る人もおる」
「多いと思います。ただし、バズればいいわけではありません。安全条件がある場所は、動画だけで完結させない。公式ページへ誘導して、潮位や中止基準を確認できるようにする」
「黒島は、きれいに見せすぎたら危ないな」
「だから、誰が投稿しても最低限の説明につながるテンプレートが必要です」
紬は、別のフォルダを開いた。
認証事業者向けSNSテンプレート。
写真撮影ガイドライン。
短い紹介文の型。
店頭掲示用ロゴ案。
旅行会社向け一枚提案書。
庁内説明用ブランドシート。
まだ仮の名前が多い。
けれど、すでに仕事の骨が見える。
「ここまで作るん?」
「全部を私が完成させるかは、仕様次第です。ただ、必要なものはこのくらいあります」
「黒田さんに、また資料が増えたって顔されそうじゃ」
「増やすためではなく、分けるためです。一枚に詰め込む方が、あとで読まれません」
紬は、私が昨夜書いた歴史説明の原稿を開いた。
邑久の古代吉備について、私なりに短くしたつもりの文章である。
短くしたつもりだった。
自分では本当に。
紬は三行読んで、画面から目を離した。
「これは講義です。動画ではありません」
容赦がない。
「最初の三秒で古代吉備を説明しようとした時点で、私は負けとった気がする」
「かなり早い敗北です」
「でも、何も説明せんと古い資料だけ映しても伝わらんじゃろ」
「説明は後ろに置けます。最初に必要なのは、続きを見たくなる理由です」
「最初に海、火、紙を見せて、そのあとで短い言葉を置く?」
「はい。言葉は、絵が連れてきた人を逃がさないために使います」
紬は、動画の仮編集を再生した。
海の青が一瞬、画面いっぱいに広がる。
次に、暗い背景の中で火花が散る。
鉄を打つ手元。
古い紙の上に残る赤い受付印。
土の色。
夢二の線を思わせる案内板。
港へ向かう道。
市場の細い通り。
本庁の窓に映る空。
映像は作りはまだ粗い。
けれど、胸の奥が少し動いた。
最後に、白い画面に文字が出る。
瀬戸内カラー
海の青、鉄の火、悠久の記憶
高校時代のSETOUCHI COLORは、紙の上の色だった。
今、紬の画面に現れた瀬戸内カラーは、誰かが明日歩ける場所のように見えた。
私はしばらく黙っていた。
紬も何も言わなかった。
こういう時、紬は答えを急かさない。
「これなら」
私はようやく口を開いた。
「紙の外へ出せる気がする」
紬は、画面を止めた。
「まだ仮です。これを事業にするには、黒田さんたちに見せる資料と、旅行会社向けの資料と、店に説明する資料が要ります」
私はノートを開いた。
新しいページの一番上に書く。
旧三町広域観光ブランド再構築・回遊促進事業
外向きブランド案 瀬戸内カラー
その下に、黒田さんに見せる項目を書いていく。
今年度範囲。
委託範囲。
成果物。
使用範囲。
文化財確認。
安全管理。
店舗参加基準。
旅行会社向け資料。
SNS運用導線。
以前なら、ここで胸が高鳴ったと思う。
今は、高鳴るより先に、確認すべき欄が見える。
それは少しつまらないようで、少し安心できる変化だった。
「紬」
私はペンを止めた。
「正式に依頼することになったら、たぶん大変じゃと思う」
「大変です」
「それでも、受けたい?」
「受けたいです」
紬はすぐに答えた。
「ただし、受けたら、私は先輩の味方だけではいません」
「さっき聞いた」
「大事なことなので、二回言います」
「仕事の人じゃな」
「はい」
紬は、白い画面に表示された「瀬戸内カラー」の文字を見た。
「これは、先輩と私の昔のポスターを作り直す仕事ではありません。この土地の人が、自分たちの色として持てる形にする仕事です」
「うん」
「だから、先輩の思い出も、私のこだわりも、必要なら切ります」
「切られたら痛そうじゃな」
「痛いと思います。でも、残すために切ることもあります」
その言葉は、デザインの話であり、仕事の話であり、たぶん人との距離の話でもあった。
私はノートに、もう一行書いた。
相談の範囲と、成果物の範囲を分ける。
書き終えると、紬が小さく頷いた。
「それなら、始められます」
古い家の窓の外で、夏の風が庭の草を揺らした。
机の上には、赤の入った資料と、仮ロゴと、動画の止まった画面がある。
紙は、まだ完成していない。
でも、もうただの紙ではなかった。
現場で汚れ、仕事の線を引かれ、見る人の入口を持ちはじめていた。




