第4章「海と陸の鍵穴」 Scene21
瀬戸内きらり館に入ると、小野寺さんはカウンターの向こうで、観光客に地図を広げていた。
「そこから港までは歩けますけど、夏は日陰が少ないけぇ、帽子あった方がええですよ。あと、水分。見るところは逃げませんけど、人間は暑さに負けますから」
観光客の女性二人が笑いながら礼を言い、パンフレットを手に出口へ向かった。
私は自分の鞄の中にある資料を思い出した。
半日コース。一日コース。牛窓港からしおまち唐琴通り。瀬戸内きらり館を起点にした回遊案。
そこに、日陰のことは一行も書いていなかった。
「お、宮地さん」
小野寺さんがこちらに気づき、片手を上げた。
「今日は観光ですか、調査ですか、再提出前の反省会ですか」
「三つ目が近いです」
「正直でよろしい」
小野寺さんは笑ながら、カウンター横の椅子を指した。
私は資料を抱えて近づいた。
きらり館の中には、パンフレットの棚と、地元産品の棚と、観光客が立ち止まりやすい小さな空間がある。
人が地図を広げたり、店の人に質問したり、少し迷ったりするための場所だ。
観光案内所というのは、ただ情報を置く場所ではない。
人が迷う場所であり、迷った人を受け止める場所でもある。
そう思った時点で、今日もまた叩き直される予感がした。
「修正途中なんですけど、見てもらえますか」
私は資料を差し出した。
三色回遊パスポート案。
半日・一日モデルコース案。
店舗連携案。
黒島と潮の道を限定素材として扱う案。
長船の石柱状のものを外向き資料から外した整理案。
旅行会社向け資料の骨子。
黒田さんに突き返された後、かなり現実に近づけたつもりだった。
少なくとも、ただの謎解き展示ではない。
歩く場所だけではなく、食べる場所、買う場所、色を集める仕組みも入れている。
道標らしき石造物も、使わない判断をした。
黒島も、前面に出しすぎないようにした。
小野寺さんは、資料をぱらぱらとめくった。
「前より、だいぶお客さんに近づいたな」
その一言で、少しだけ肩の力が抜けた。
「ありがとうございます」
「でも、まだ紙の上じゃ」
抜けた力が、すぐ戻った。
「…はい」
「返事が早い。鍛えられとるな」
「いろんな人に」
小野寺さんは笑いながら、半日コース案に指を置いた。
「黒田さんに言われて、項目は一通り埋めたんじゃろ」
「移動手段、昼食候補、雨天時の代替案、受け入れ人数。指摘された枠は作りました」
「うん。枠はある。でも、数字が現場の温度になっとらんよ」
小野寺さんは、次のページをめくる。
「たとえば昼ごはん。候補の店は載っとるけど、夏と冬で営業時間が違うところがある。雨が降ったら、この駐車場からは歩きにくい。トイレも、団体さんが一気に来たらさばききれん場所がある」
「地図の上では近くても、体には近くない場所がある」
「そういうこと」
小野寺さんは、ペンで半日コースの途中に小さく丸をつけた。
「高齢の人は? 子ども連れは? 歩く距離は? 途中で疲れたらどこで休む? 買ったものを持ったまま歩くなら、坂はどうする?」
小野寺さんの質問は、矢というより、雨だった。
一本ずつ刺さるのではなく、気づいたら全身が濡れている。
黒田さんの指摘が「事業としての骨組み」を問うものだったとすれば、小野寺さんの指摘は「現場の血肉」を問うものだった。
「歩いてもらうだけじゃ、観光にはならんのよ」
小野寺さんは、資料を閉じずに言った。
「地図だけ渡しても、お腹はふくれんもん」
前にも聞いた言葉だった。
けれど、今日は前より重く聞こえた。
私の資料には、地図の上の動きが増えている。
でも、その動いた先で人がどう過ごすかは、まだ薄い。
「店にも都合があるしな」
小野寺さんは、店舗連携案のページを指で軽く叩いた。
「スタンプ置きます。特典出します。はい、お願いします。では動かんよ」
「店側が受けやすい時間や人数まで考える必要がある」
「そう。観光客には便利でも、店に無理をさせたら続かん。忙しい時間にスタンプだけ押しに来られたら困る店もある。小さい店に大人数が来ても困る。逆に、平日の昼過ぎなら来てほしい店もある」
私はノートを開いた。
店の都合。
時間帯。
人数。
繁忙期。
スタンプだけの客。
特典負担。
参加基準。
書いていると、小野寺さんが少し身を乗り出した。
「それから、不公平感」
「参加しない店との間で、ですか」
「そう。なんであの店だけ市のパンフに載るん、と言われることもある。認証とかパスポートとかやるなら、基準を分かりやすくせんと」
小野寺さんの言葉はすんなり入ってくる。
不思議だ。
黒田さんの言葉は、書類の骨を正す。
森下さんの言葉は、ものの輪郭を守る。
小野寺さんの言葉は、人が動いた後に残る疲れや不満まで見ている。
「あと、途中で市がやめたら店が困る。最初だけ盛り上げて、あと知らん顔されたら、地元は次から乗りにくくなる」
これは、痛かった。
行政の事業は、年度で区切られる。
予算も、担当者も、制度も、ずっと同じではいられない。
けれど、店は翌年もそこにある。
観光客に説明した人も、商品を用意した人も、その場で受け止める。
市が作る線の先に、人の店がある。
そのことを、私はまだ紙の上でしか考えていなかった。
「ちょっと外、行こうか」
小野寺さんが言った。
「今ですか」
「今。紙だけ見とると、紙の中で賢くなるけぇ」
小野寺さんは、カウンターの奥に声をかけ、少しだけ外へ出る段取りをつけた。
私は慌てて資料をまとめる。
きらり館を出ると、牛窓の光がまぶしかった。
港の方へ歩きながら、小野寺さんはあちこちを指さした。
「ほら、ここ。地図やと近いけど、夏に歩いたら遠いで」
「確かに」
「日陰も少ない。景色はええ。でも、景色がええ道ほど、休む場所がないこともある」
「書いておきます」
「ここは車の出入りがあるけぇ、団体さんが道に広がったら危ない」
「歩行者だけの道として書くと危ないですね」
「そう。車も生活も通る道じゃから」
小野寺さんは、港へ下りる道の途中で足を止めた。
「あの店はおいしい。でも席数は多くない。少人数ならええけど、三十人いきなりは無理」
「団体向けには別の候補を立てる」
「逆に、少人数向けの良さをちゃんと書けばええ」
否定ではない。
小野寺さんは、だめだと言っているのではなかった。
条件を分けている。
少人数なら良い。
団体なら別の場所。
晴れなら歩ける。
夏なら日陰と休憩が必要。
車なら駐車場。
電車なら接続。
地図の線を、実際の身体の動きに戻している。
港の近くで、観光客らしい男性がスマートフォンを見ながら小野寺さんに声をかけた。
「すみません、黒島って今から行けるんですか」
小野寺さんは、すぐに表情を案内所の顔にした。
「今日は潮の時間が合わんですね。歩いて渡るのは難しいです。見るだけなら、こっちから写真は撮れますよ。次に行くなら、潮位を確認してからの方がええです」
男性は少し残念そうにしながらも、納得したように頷いた。
そのやり取りを見て、私は黒島と潮の道のページを思い出した。
牛窓の海が道になる。
それは、とても強い。
強いからこそ、危うい。
「あれは看板になるよ」
男性が離れたあと、小野寺さんが言った。
「黒島ですね」
「うん。写真も動画も映える。人に話したくなる。『海の中に道が出る』なんて、強いに決まっとる。でも、簡単に売ったらおえん」
小野寺さんは、海の方を見た。
「潮位、天気、足元、集合時間、戻る時間。そこを間違えたら、楽しい場所が危ない場所になる。ロマンには段取りが要るんじゃ」
以前聞いた言葉が、今度はもっと具体的に聞こえた。
「必要なのは、潮位表、天候判断、中止基準、案内人、靴や服装の説明、連絡手段、保険、代替メニュー」
「行けなかった時の受け皿も必要なんですね」
「そう。行けませんでした、すみません、で終わらせたら、お客さんも旅行会社さんも困る。潮が合わん日でも楽しめる案がいる」
私はノートに急いで書いた。
黒島・潮の道。
一般回遊の中心にはしない。
季節限定。
少人数。
ガイド付き。
高付加価値実証ツアー候補。
中止基準。
代替案。
潮位表。
靴。
保険。
「公式SNSで動画にするなら、見せ方も気をつけんと」
小野寺さんは続けた。
「誰でもいつでも行けます、みたいに見えたら困る」
「参加条件を最初から明記する」
「そう。きれいなところほど、注意書きが要るんよ。注意書きが多いと夢がない、と言う人もおるけど、夢を壊さんために段取りがいる」
夢を壊さないための段取り。
その言葉は、黒田さんや森下さんの言葉と同じ方向を向いていた。
面白いものほど雑に扱うな。
言えないものを言えるふりで前に出すな。
安全管理なしにロマンを売るな。
厳しい言葉は、全部、何かを守るためにある。
私たちはきらり館へ戻った。
戻る途中、小野寺さんは道端の小さな段差まで指摘した。
高齢の人ならつまずくかもしれない。
雨の日なら滑るかもしれない。
ベビーカーなら回り道がいるかもしれない。
私はそれを全部書いた。
途中から、ノートではなく、自分が歩いている道そのものに赤を入れられているような気がしてきた。
きらり館に戻ると、小野寺さんは冷たいお茶を出してくれた。
「飲みながら聞きんさい。倒れたら企画どころじゃないけぇ」
ありがたく受け取った。
冷たいお茶は、行政資料より即効性がある。
小野寺さんは、私の資料を自分の前に置き、ペンを持った。
「黒田さんに言われて項目は作ったかもしれんけど、旅行会社さんに話すなら、もっと現場の温度が要る」
「はい」
「観光は、人が動くから多いんよ。人が動けば、お腹がすく。トイレにも行く。疲れる。迷う。天気も変わる。店にも都合がある。でも、そこまで考えとけば、お客さんは気持ちよう動ける。店も受けやすい。案内所も説明しやすい。旅行会社さんも売りやすい」
全部がつながっている。
ただの地図ではなく、人が動くための下支え。
ただの消費ではなく、気持ちよく払える理由。
ただの集客ではなく、地元が無理なく受け止められる仕組み。
「地元にお金が落ちる設計って」
私は、半分独り言のように言った。
「観光客に財布を開かせることだけじゃないんですね」
「そりゃ、開いてもらわんと困るけどな」
小野寺さんは笑った。
「前に言うたじゃろ。お客さんに気持ちようお金を使ってもらって、また来たいと思ってもらうのが観光じゃって」
「はい」
「でも、それだけじゃ片手落ちなんよ。お客さんが気持ちよう払うのと同じくらい、店側が無理なく、気持ちよう受け取れる仕組みがないと、地元は疲れてしまう」
私は、その言葉をノートの真ん中に書いた。
無理なく受け取る。
道を作るだけでは足りなかった。
道の先には、店があり、人があり、時間があり、都合がある。
その都合を無視した線は、観光ではなく、ただの押しつけになる。
私が作ろうとしているのは、線ではない。
人が動き、その先で受け止められる仕組みだった。
小野寺さんは、資料をひと通り見直してから、最後にペンを置いた。
「ここまで直したら、旅行会社さんに話せるかもしれん」
「本当ですか」
「かもしれん、じゃ。まだ足りんところはある」
「はい」
「でも、前よりはだいぶ話せる。あとは、見せ方じゃな」
「見せ方」
「お客さんに最初に届く形がいる。旅行会社さんに渡す紙も、店に説明する紙も、観光客が手に取る紙も、同じ話をそれぞれ違う形で見せんと」
紬の顔が浮かんだ。
見せ方。
色。
配置。
文字の量。
最初に触れる理由。
ここから先は、紬の仕事だと思った。
いや、紬に丸投げするという意味ではない。
小野寺さんが赤を入れた現場の温度を、見る人が受け取れる形に変える仕事だ。
私はきらり館を出る前に、スマートフォンを取り出した。
『小野寺さんに、現場で叩き直されました』
すぐに既読がついた。
少しして、返信が来る。
『いいことです。紙は一度、現場で汚した方がいいです』
私は思わず笑った。
『明日、事務所に来てください。色と見せ方を組み直します』
小野寺さんが、カウンターの向こうから声をかけてくる。
「宮地さん、顔が仕事に戻っとるよ」
「明日、紬のところで組み直しです」
「ええことじゃ。紙は汚れた方が強くなる」
似たようなことを、紬も言っていた。
現場とデザインは、別々の場所にあるようで、ときどき同じ方向を向く。
私は赤の入った資料を鞄にしまった。
紙の端は少し折れて、ペンの跡が増えていた。
来た時より、ずっと汚れている。
それが、少し誇らしかった。




