第3章「言えることから、積む」 Scene16
紬の事務所兼住居は、邑久の古民家の一角にあった。
親戚が持っていた空き家を、東京から戻ってきた紬が借りているらしい。住所を聞いた時、私は一度だけ聞き返した。
長船出身の紬が、邑久に住んでいる。
それだけで、少し不思議な感じがした。
旧町の線は、地図の上ではくっきりしている。
けれど、人の生活は案外、その線をまたいでしまう。
古民家、と言えば聞こえはいい。
実際には、玄関の引き戸は少し重く、廊下は歩く場所によって音が違い、コンセントは必要な場所を避けるようについていた。古い柱には細かな傷があり、磨りガラスの向こうの光は柔らかい。
甘い郷愁で包むには、少しだけ現実が多い家だった。
「どうぞ。靴はそこです」
紬はいつもの調子で言った。
「お邪魔します」
「生活区域は見ないでください」
「見んよ」
「見たら、資料持ち出し禁止にします」
「それ、私の台詞じゃけど」
「今日は私の家なので」
その理屈は強い。
私は素直に靴をそろえた。
紬は廊下の奥の部屋へ私を通した。
そこだけ、家の中で空気が違っていた。
畳の部屋に、大きな作業机が置かれている。古い柱の横にはモニターが二枚。茶箪笥の上には紙見本とカラーチップが分類され、土間に近い棚には梱包材と封筒がきっちり積まれていた。
延長コードは床を這っているのに、妙に整然としている。
古い家の中に、紬のグリッドが引かれていた。
「すごいな」
「何がですか」
「古い家なのに、ここだけ仕事場になっとる感じが」
「ここだけでも制御しないと、家に負けます」
「家に負ける?」
「冬は寒いし、コンセントの位置は最悪です。あと、雨の日は建具の機嫌が悪い」
「建具に機嫌が」
「あります。古い家は、情緒だけでは仕事させてくれません」
それは、たぶん観光にも言える。
私はそう思ったが、言うとまた話が長くなるので飲み込んだ。
「で、入口がない資料を持ってきたんですね」
紬は、私が鞄を置く前に言った。
「今、その話をしたじゃろ」
「しました。でも、ありません」
「まだ見とらんのに」
「先輩がその量の紙を持ってきた時点で、だいたい分かります」
私は鞄の中を見た。
確かに、紙は多い。
昭和五十七年のポスター複写。図書館資料の公開部分の控え。牛窓・長船・邑久の観光パンフレット。聞き取りメモ。黒田さんに言われて作り直した三段階整理。ただし、持ってきていいものだけだ。
「念のため、先に言っておくけど。これは全部、公開資料と私の整理メモ。庁内限定のものと、未整理の内部資料は持ってきとらんよ」
「先輩、外部者扱いがうまくなりましたね」
「褒めとる?」
「業務上の評価です」
「ありがとう。たぶん嬉しい」
「そこは断定してください」
紬は作業机の上に白い紙を広げた。
私は資料を並べた。
黒田さんの前で広げた時とは、緊張の種類が違っていた。
黒田さんの前では、事業として成立するかを見られていた。
紬の前では、見る人に届くかを見られる。
どちらも怖い。
「これが、黒田さんに言われて整理したやつ」
私は三段階のメモを差し出した。
紬は黙って読んだ。
第一段階。
昭和五十七年ポスターを起点にした調査整理。仮テーマ、海から道へ。山本健治を主役化しない。
第二段階。
牛窓・長船・邑久を、「海から道へ」の視点で並べ直す共有案。展示、記事、小冊子など。旧三町を並べる際の、市民側の受け止めに注意。
第三段階。
島・潮の道。現段階では参考仮説として別紙管理。
紬は読み終えると、紙を机に置いた。
「これは整理です」
「うん」
「入口ではありません」
「作る側には必要でも、見る人はここから入れない、ということか」
「はい」
紬は作業机の端にあった鉛筆を取った。
「黒田さんの入口は、事業の入口です。私が言っているのは、見る人の入口です」
「事業に入るための入口と、読者が入るための入口」
「はい。そこを混ぜると、資料は整っているのに読まれません」
紬は白い紙に横線を一本引いた。
「整理は作る側のためです。入口は見る側のためです。先輩の整理は、調べた人には分かります。でも、初めて見る人には一段目が高い」
「一段目」
「最初に何を見せるか、です」
私は黙った。
黒田さんが言った「誰が最初に読むのか」と、紬の「一段目が高い」は、違う言い方で同じところを突いている。
最近、違う人たちが別々の場所から同じ急所を突いてくる。私はそのたびに、少しずつ姿勢を正すことになる。
「仮テーマは『海から道へ』じゃな」
私は言った。
「はい」
「これを最初に出すのは」
「やめた方がいいです」
「即答じゃな」
「テーマだからです」
「テーマじゃから出すんじゃないん?」
「最初に出すと、見た人が考える前に答えを渡してしまいます」
紬は鉛筆の先で紙を軽く叩いた。
「海から道へ、は良い言葉です。でも、最初に大きく出すと、説明した気になります」
「黒田さんにも、きれいな言葉は説明した気にさせるって言われた」
「黒田さん、いいこと言いますね」
「言います。言い方は硬いですが」
「そこが黒田さんらしいです」
紬は白い紙の左上に、小さな四角を描いた。
「最初に置くのは、ポスターです」
「黒田さんと同じじゃな」
「入口としては正しいです。ただし、証拠としてではありません」
「証拠として出すと、見方が固まる?」
「はい。一枚の絵として見せます」
紬は、昭和五十七年のポスター複写を手に取った。
青い海。白いヨット。夏の光。描かれた牛窓。
何度も見たはずなのに、紬の作業机の上に置かれると、また違って見えた。
資料室では、見つけたものだった。
図書館の後では、手がかりだった。
黒田さんの前では、起点だった。
ここでは、見る人を中へ入れるための一枚の絵になる。
「最初から『暗号が隠されています』とは言わない方がいいです」
「なぜ」
「その瞬間、これは謎解きになります」
「…ああ、そうか」
「本当は、人が土地をどう見せようとしたかの話ですよね」
私は、すぐに答えられなかった。
その通りだった。
BIZEN FUKUOKAを見つけた時、私は興奮した。紬も驚いた。暗号のように読めることは、入口として強い。
けれど、それを前面に出しすぎると、見る人は答え合わせをしに来る。
見てもらいたいのは、答えだけではない。
「山本さんの名前は、どこに置く?」
私は聞いた。
「最初ではないです」
「主役化しないため?」
「それもあります。でも、名前から入ると、その人を追う話になります」
「ポスターから入る」
「はい。見せ方から入ります。その後に、山本健治という名前が出てくる」
「写真の山本さん」
「それも、すぐには言い切らない方がいいです。鉛筆書きの名前があって、活字の名前があって、人の口の中の呼び名がある。順番に近づける」
順番に近づける。
資料室から、図書館から、きらり館から、港から、名前は少しずつ近づいてきた。
鉛筆書き。活字。呼び名。
紬は、それを見せる順番として組み直そうとしている。
「先輩」
「はい」
「山本さんの名前は、最初に置かず、少しずつ近づける方がいいです」
「記事や小冊子なら、読者がその名前に追いつく順番が要る、ということか」
「はい。突然置くと、その人を主役にしてしまいます」
紬は、紙の上に小さな矢印を描いた。
ポスター。
違和感。
BIZEN FUKUOKA。
備前福岡。
山本健治。
写真の山本さん。
海から道へ。
それは調べた順番に近い。
けれど、同じではない。
調べた時の私の興奮は、少し抑えられている。代わりに、見る人が迷わないように段差が作られていた。
「山本さんは」
私は言った。
「案内人ではなく、痕跡として途中で出てきます」
「痕跡」
「その方が、今のところ正確です」
紬は短く言った。
痕跡。
名前を消すのではない。
けれど、名前に物語を背負わせすぎない。
紙の上に残った鉛筆の字の分だけ、活字に載った記録の分だけ、人の口に残った呼び名の分だけ、近づく。
「色の話をしてもいいですか」
紬が言った。
「きらり館の棚の話じゃな」
「はい。あの時、別々の色なのに一つの市に見えると言いました。今回のラフでも、三つの町を同じ色にしない方がいいです」
「全部同じ色にすると、合併後の一色になるからか」
「そうです。でも、ただパンフレットの色をそのまま使うと、少し薄いんです」
紬は茶箪笥の上からカラーチップの束を持ってきた。
机の上に並べていく。
青。深い青。少し緑を含んだ青。鉄に近い灰色。黒に近い藍。土の色。柔らかい緑。
「牛窓は青。分かりやすい海の青です。でも、ただきれいな青にするだけでは足りません。今まで見てきた牛窓には、ロープや影や生活の色もありました」
「長船は」
「鉄の色。刀の銀ではなく、火を通った鉄に近い色がいいと思います。市場小路の土や古い木ともつながります」
「邑久は」
「そこです」
紬の手が止まった。
私は少し身構えた。
「先輩の資料、邑久だけ弱いです」
「…やっぱり?」
「はい。緑、と書いてあります」
「間違いではないと思うんじゃけど」
「間違いではないです。でも、弱いです」
紬は柔らかい緑のチップを一枚取り出した。
きれいな色だった。
きれいすぎるくらいだった。
「これだと、邑久は背景になります」
「背景」
「牛窓が海、長船が鉄。そこに邑久が緑だと、落ち着かせるための色に見えます」
「…添えたみたいに?」
「はい」
痛かった。
黒田さんにまだ見せていない企画書の弱さを、先に指摘された気がした。
「邑久は、先輩の町ですよね」
「うん」
「だから、見えにくいんだと思います」
「近すぎるから?」
「はい。近いものは、形を取るのが難しいです」
紬は緑のチップを机の端へ置いた。
「でも、邑久を薄くすると、三つの町が対等に見えません」
「どうすればいい」
「今は決めない方がいいです」
「決めない?」
「先輩が邑久を見てからです」
私は紬を見た。
「見るって、どういう意味で」
「先輩がいつも見ている邑久ではなく、人に見せるための邑久です」
「それが難しいんじゃけど」
「だから、今は無理に色を決めない方がいいです」
紬は白い紙の右側に、三つの空欄を作った。
牛窓。
長船。
邑久。
牛窓の横には、海の青。
長船の横には、鉄の火。
邑久の横だけ、空欄のまま残された。
「空けるん?」
「はい」
「企画書で空けるわけには」
「最終では駄目です。でも、今の段階で適当な色を入れる方が危ないです」
「適当…」
「先輩が本気で選んだ緑なら、適当ではありません。でも今は、逃げた緑に見えます」
逃げた緑。
言い方は静かだった。
だから余計に痛かった。
私は、自分のメモを見た。
邑久の欄には、確かに「緑」「生活」「本庁」「農産品」と書いてある。
どれも嘘ではない。
でも、どれも浅い。
「それでも、企画書には一度入れんといけん」
「はい」
「黒田さんに見せるから」
「なら、仮の色として置いてください。仮だと分かるように」
「仮の緑」
「はい。ただし、先輩が次に見るべき場所として、邑久を残してください」
紬は、空欄の下に小さく書いた。
要再確認。
役所の資料でよく見る言葉だ。
けれど、紬の作業机の上に置かれると、少し違って見えた。
それは逃げではなく、まだ見ていないものを見ていないままにしないための印だった。
「先輩」
「はい」
「企画書、作れます」
「本当に?」
「はい。でも、通るとは思いません」
「そこは言い切るんじゃな」
「言い切ります」
紬は、ポスター複写と白い紙を並べた。
「ただ、通らない理由が見える企画書にはできます」
「それ、良いことなん?」
「良いことです。どこが足りないか分からない資料より、ずっと良いです」
私は少し笑った。
笑ったというより、笑うしかなかった。
紬は鉛筆で、紙の上に大きな流れを描いた。
一枚のポスター。
見えない違和感。
BIZEN FUKUOKA。
牛窓から長船へ。
海から道へ。
三つの町を並べ直す。
ただし、邑久は未整理。
未整理。
その言葉は厳しい。
でも、正確だった。
「作りましょう」
紬が言った。
「はい」
私は資料を並べ直した。
調べた順番ではなく、見る人が入る順番に。
説明したい順番ではなく、分かってもらうための順番に。
古い家の中で、紙が少しずつ企画の形を取り始めた。
ただし、邑久の欄だけは、まだ空いていた。




