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瀬戸内カラー  作者: 秋澄しえる


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16/26

第3章「言えることから、積む」 Scene16

 紬の事務所兼住居は、邑久の古民家の一角にあった。


 親戚が持っていた空き家を、東京から戻ってきた紬が借りているらしい。住所を聞いた時、私は一度だけ聞き返した。

 長船出身の紬が、邑久に住んでいる。

 それだけで、少し不思議な感じがした。


 旧町の線は、地図の上ではくっきりしている。

 けれど、人の生活は案外、その線をまたいでしまう。


 古民家、と言えば聞こえはいい。


 実際には、玄関の引き戸は少し重く、廊下は歩く場所によって音が違い、コンセントは必要な場所を避けるようについていた。古い柱には細かな傷があり、磨りガラスの向こうの光は柔らかい。


 甘い郷愁で包むには、少しだけ現実が多い家だった。


「どうぞ。靴はそこです」


 紬はいつもの調子で言った。


「お邪魔します」

「生活区域は見ないでください」

「見んよ」

「見たら、資料持ち出し禁止にします」

「それ、私の台詞じゃけど」

「今日は私の家なので」


 その理屈は強い。

 私は素直に靴をそろえた。


 紬は廊下の奥の部屋へ私を通した。

 そこだけ、家の中で空気が違っていた。


 畳の部屋に、大きな作業机が置かれている。古い柱の横にはモニターが二枚。茶箪笥の上には紙見本とカラーチップが分類され、土間に近い棚には梱包材と封筒がきっちり積まれていた。

 延長コードは床を這っているのに、妙に整然としている。

 古い家の中に、紬のグリッドが引かれていた。


「すごいな」

「何がですか」

「古い家なのに、ここだけ仕事場になっとる感じが」

「ここだけでも制御しないと、家に負けます」

「家に負ける?」

「冬は寒いし、コンセントの位置は最悪です。あと、雨の日は建具の機嫌が悪い」

「建具に機嫌が」

「あります。古い家は、情緒だけでは仕事させてくれません」


 それは、たぶん観光にも言える。

 私はそう思ったが、言うとまた話が長くなるので飲み込んだ。


「で、入口がない資料を持ってきたんですね」


 紬は、私が鞄を置く前に言った。


「今、その話をしたじゃろ」

「しました。でも、ありません」

「まだ見とらんのに」

「先輩がその量の紙を持ってきた時点で、だいたい分かります」


 私は鞄の中を見た。

 確かに、紙は多い。


 昭和五十七年のポスター複写。図書館資料の公開部分の控え。牛窓・長船・邑久の観光パンフレット。聞き取りメモ。黒田さんに言われて作り直した三段階整理。ただし、持ってきていいものだけだ。


「念のため、先に言っておくけど。これは全部、公開資料と私の整理メモ。庁内限定のものと、未整理の内部資料は持ってきとらんよ」

「先輩、外部者扱いがうまくなりましたね」

「褒めとる?」

「業務上の評価です」

「ありがとう。たぶん嬉しい」

「そこは断定してください」


 紬は作業机の上に白い紙を広げた。

 私は資料を並べた。


 黒田さんの前で広げた時とは、緊張の種類が違っていた。

 黒田さんの前では、事業として成立するかを見られていた。

 紬の前では、見る人に届くかを見られる。

 どちらも怖い。


「これが、黒田さんに言われて整理したやつ」


 私は三段階のメモを差し出した。

 紬は黙って読んだ。


 第一段階。

 昭和五十七年ポスターを起点にした調査整理。仮テーマ、海から道へ。山本健治を主役化しない。


 第二段階。

 牛窓・長船・邑久を、「海から道へ」の視点で並べ直す共有案。展示、記事、小冊子など。旧三町を並べる際の、市民側の受け止めに注意。


 第三段階。

 島・潮の道。現段階では参考仮説として別紙管理。


 紬は読み終えると、紙を机に置いた。


「これは整理です」

「うん」

「入口ではありません」

「作る側には必要でも、見る人はここから入れない、ということか」

「はい」


 紬は作業机の端にあった鉛筆を取った。


「黒田さんの入口は、事業の入口です。私が言っているのは、見る人の入口です」

「事業に入るための入口と、読者が入るための入口」

「はい。そこを混ぜると、資料は整っているのに読まれません」


 紬は白い紙に横線を一本引いた。


「整理は作る側のためです。入口は見る側のためです。先輩の整理は、調べた人には分かります。でも、初めて見る人には一段目が高い」

「一段目」

「最初に何を見せるか、です」


 私は黙った。

 黒田さんが言った「誰が最初に読むのか」と、紬の「一段目が高い」は、違う言い方で同じところを突いている。

 最近、違う人たちが別々の場所から同じ急所を突いてくる。私はそのたびに、少しずつ姿勢を正すことになる。


「仮テーマは『海から道へ』じゃな」


 私は言った。


「はい」

「これを最初に出すのは」

「やめた方がいいです」

「即答じゃな」

「テーマだからです」

「テーマじゃから出すんじゃないん?」

「最初に出すと、見た人が考える前に答えを渡してしまいます」


 紬は鉛筆の先で紙を軽く叩いた。


「海から道へ、は良い言葉です。でも、最初に大きく出すと、説明した気になります」

「黒田さんにも、きれいな言葉は説明した気にさせるって言われた」

「黒田さん、いいこと言いますね」

「言います。言い方は硬いですが」

「そこが黒田さんらしいです」


 紬は白い紙の左上に、小さな四角を描いた。


「最初に置くのは、ポスターです」

「黒田さんと同じじゃな」

「入口としては正しいです。ただし、証拠としてではありません」

「証拠として出すと、見方が固まる?」

「はい。一枚の絵として見せます」


 紬は、昭和五十七年のポスター複写を手に取った。

 青い海。白いヨット。夏の光。描かれた牛窓。

 何度も見たはずなのに、紬の作業机の上に置かれると、また違って見えた。


 資料室では、見つけたものだった。

 図書館の後では、手がかりだった。

 黒田さんの前では、起点だった。

 ここでは、見る人を中へ入れるための一枚の絵になる。


「最初から『暗号が隠されています』とは言わない方がいいです」

「なぜ」

「その瞬間、これは謎解きになります」

「…ああ、そうか」

「本当は、人が土地をどう見せようとしたかの話ですよね」


 私は、すぐに答えられなかった。

 その通りだった。


 BIZEN FUKUOKAを見つけた時、私は興奮した。紬も驚いた。暗号のように読めることは、入口として強い。

 けれど、それを前面に出しすぎると、見る人は答え合わせをしに来る。

 見てもらいたいのは、答えだけではない。


「山本さんの名前は、どこに置く?」


 私は聞いた。


「最初ではないです」

「主役化しないため?」

「それもあります。でも、名前から入ると、その人を追う話になります」

「ポスターから入る」

「はい。見せ方から入ります。その後に、山本健治という名前が出てくる」

「写真の山本さん」

「それも、すぐには言い切らない方がいいです。鉛筆書きの名前があって、活字の名前があって、人の口の中の呼び名がある。順番に近づける」


 順番に近づける。


 資料室から、図書館から、きらり館から、港から、名前は少しずつ近づいてきた。

 鉛筆書き。活字。呼び名。

 紬は、それを見せる順番として組み直そうとしている。


「先輩」

「はい」

「山本さんの名前は、最初に置かず、少しずつ近づける方がいいです」

「記事や小冊子なら、読者がその名前に追いつく順番が要る、ということか」

「はい。突然置くと、その人を主役にしてしまいます」


 紬は、紙の上に小さな矢印を描いた。


 ポスター。

 違和感。

 BIZEN FUKUOKA。

 備前福岡。

 山本健治。

 写真の山本さん。

 海から道へ。


 それは調べた順番に近い。

 けれど、同じではない。

 調べた時の私の興奮は、少し抑えられている。代わりに、見る人が迷わないように段差が作られていた。


「山本さんは」


 私は言った。


「案内人ではなく、痕跡として途中で出てきます」

「痕跡」

「その方が、今のところ正確です」


 紬は短く言った。


 痕跡。

 名前を消すのではない。

 けれど、名前に物語を背負わせすぎない。

 紙の上に残った鉛筆の字の分だけ、活字に載った記録の分だけ、人の口に残った呼び名の分だけ、近づく。


「色の話をしてもいいですか」


 紬が言った。


「きらり館の棚の話じゃな」

「はい。あの時、別々の色なのに一つの市に見えると言いました。今回のラフでも、三つの町を同じ色にしない方がいいです」

「全部同じ色にすると、合併後の一色になるからか」

「そうです。でも、ただパンフレットの色をそのまま使うと、少し薄いんです」


 紬は茶箪笥の上からカラーチップの束を持ってきた。

 机の上に並べていく。

 青。深い青。少し緑を含んだ青。鉄に近い灰色。黒に近い藍。土の色。柔らかい緑。


「牛窓は青。分かりやすい海の青です。でも、ただきれいな青にするだけでは足りません。今まで見てきた牛窓には、ロープや影や生活の色もありました」

「長船は」

「鉄の色。刀の銀ではなく、火を通った鉄に近い色がいいと思います。市場小路の土や古い木ともつながります」

「邑久は」

「そこです」


 紬の手が止まった。

 私は少し身構えた。


「先輩の資料、邑久だけ弱いです」

「…やっぱり?」

「はい。緑、と書いてあります」

「間違いではないと思うんじゃけど」

「間違いではないです。でも、弱いです」


 紬は柔らかい緑のチップを一枚取り出した。

 きれいな色だった。

 きれいすぎるくらいだった。


「これだと、邑久は背景になります」

「背景」

「牛窓が海、長船が鉄。そこに邑久が緑だと、落ち着かせるための色に見えます」

「…添えたみたいに?」

「はい」


 痛かった。

 黒田さんにまだ見せていない企画書の弱さを、先に指摘された気がした。


「邑久は、先輩の町ですよね」

「うん」

「だから、見えにくいんだと思います」

「近すぎるから?」

「はい。近いものは、形を取るのが難しいです」


 紬は緑のチップを机の端へ置いた。


「でも、邑久を薄くすると、三つの町が対等に見えません」

「どうすればいい」

「今は決めない方がいいです」

「決めない?」

「先輩が邑久を見てからです」


 私は紬を見た。


「見るって、どういう意味で」

「先輩がいつも見ている邑久ではなく、人に見せるための邑久です」

「それが難しいんじゃけど」

「だから、今は無理に色を決めない方がいいです」


 紬は白い紙の右側に、三つの空欄を作った。


 牛窓。

 長船。

 邑久。


 牛窓の横には、海の青。

 長船の横には、鉄の火。

 邑久の横だけ、空欄のまま残された。


「空けるん?」

「はい」

「企画書で空けるわけには」

「最終では駄目です。でも、今の段階で適当な色を入れる方が危ないです」

「適当…」

「先輩が本気で選んだ緑なら、適当ではありません。でも今は、逃げた緑に見えます」


 逃げた緑。


 言い方は静かだった。

 だから余計に痛かった。


 私は、自分のメモを見た。

 邑久の欄には、確かに「緑」「生活」「本庁」「農産品」と書いてある。

 どれも嘘ではない。

 でも、どれも浅い。


「それでも、企画書には一度入れんといけん」

「はい」

「黒田さんに見せるから」

「なら、仮の色として置いてください。仮だと分かるように」

「仮の緑」

「はい。ただし、先輩が次に見るべき場所として、邑久を残してください」


 紬は、空欄の下に小さく書いた。


 要再確認。


 役所の資料でよく見る言葉だ。

 けれど、紬の作業机の上に置かれると、少し違って見えた。

 それは逃げではなく、まだ見ていないものを見ていないままにしないための印だった。


「先輩」

「はい」

「企画書、作れます」

「本当に?」

「はい。でも、通るとは思いません」

「そこは言い切るんじゃな」

「言い切ります」


 紬は、ポスター複写と白い紙を並べた。


「ただ、通らない理由が見える企画書にはできます」

「それ、良いことなん?」

「良いことです。どこが足りないか分からない資料より、ずっと良いです」


 私は少し笑った。

 笑ったというより、笑うしかなかった。


 紬は鉛筆で、紙の上に大きな流れを描いた。


 一枚のポスター。

 見えない違和感。

 BIZEN FUKUOKA。

 牛窓から長船へ。

 海から道へ。

 三つの町を並べ直す。

 ただし、邑久は未整理。


 未整理。

 その言葉は厳しい。

 でも、正確だった。


「作りましょう」


 紬が言った。


「はい」


 私は資料を並べ直した。

 調べた順番ではなく、見る人が入る順番に。

 説明したい順番ではなく、分かってもらうための順番に。


 古い家の中で、紙が少しずつ企画の形を取り始めた。

 ただし、邑久の欄だけは、まだ空いていた。

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