↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
瀬戸内カラー  作者: 秋澄しえる


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
14/26

第3章「言えることから、積む」 Scene14

 小野寺さんは、今度こそカウンターの内側に戻った。


「今度こそ中におります」


 高橋さんに向かって、やけに堂々と宣言する。高橋さんは、パンフレットを補充しながら顔だけを上げた。


「録音しましょうか」

「信用がないなあ」

「実績です」

「それを言われると弱い」


 小野寺さんは胸に手を当てて、大げさに傷ついた顔をした。高橋さんは慣れているらしく、まったく動じない。


 きらり館の中は、相変わらず明るかった。観光客が入ってきて、パンフレットを手に取り、土産物を見て、また外へ出ていく。そのたびに、自動ドアの向こうから海の光が入る。


 私は調査資料を閉じたまま、少し迷っていた。今日だけで、ずいぶん遠くまで来てしまった気がする。

 田原さんに会い、山本健治が「写真の山本さん」と呼ばれていたことを聞き、「海から道へ」という言葉を拾い、港からきらり館へ戻る道を、ただの道ではなく観光客の動線として見た。

 もう十分だ、と行政職員としての私は言っている。でも、小野寺さんの口から出てきた言葉が、まだ棚の隅に引っかかっていた。

『島も絡んどったような気がするんよなあ』


「あの」


 私はカウンターの前で言った。


「小野寺さん」

「はい。今度は外に出んよ」

「まだ何も言っていません」

「宮地さんの雰囲気が、外へ出たい雰囲気になっとる」

「そこまでは」

「なっとるよ」


 高橋さんが、横から小さく咳払いをした。


「外には出ません」


 私は先に言った。


「小野寺さんが、さっき島も絡んでいたかもしれない、とおっしゃっていたので」

「ああ」


 小野寺さんの顔が、少しだけ仕事の顔になった。


「言うたな。言うたけど、あれは混ざっとるかもしれんよ」

「はい」

「牛窓は島の話が多いけぇな。前島もあるし、黒島もあるし、島めぐりの話もある。昔の話と今の案内が、私の頭の中で一緒の棚に入っとる可能性はある」

「同じ分類に入っているんですね」

「さっきの続きじゃな。見出しは派手じゃけど、中身は混ざる」


 そう言いながら、小野寺さんはパンフレット棚へ向かった。


「島いうたら、まず前島じゃろ。牛窓からすぐ行ける。フェリーの時間を聞かれるのも多い。黒島は、潮の時間が大事じゃな」


 手際よく数枚のパンフレットを抜く。

 前島、黒島、海洋体験、周辺の島を紹介するもの。

 紙の色が急に青くなる。港、船、波、島影。きらり館の棚の中で、海はまた別の面を開いた。

 小野寺さんは、そのうち一枚をカウンターの上に広げた。


「今は、こういう名前で案内しとる」


 指先が示した写真には、海の中に細い砂の道が伸びていた。潮が引いた時だけ現れる、島と島をつなぐ道。


「ヴィーナスロード」


 紬が小さく読んだ。


「きれいな名前ですね」

「きれいじゃろ。観光向けにはええ名前なんよ」


 小野寺さんは頷いた。


「でも、この名前は、私が子どもの頃には聞かんかったな」

「そうなんですか」

「うん。黒島とか、潮が引いたら砂が出るとか、そんな言い方じゃったと思う。少なくとも、ヴィーナスロードとは呼んどらんかった」

「では、もし当時の資料を探すなら」

「ヴィーナスロードだけで探しても、当たらんかもしれん」


 小野寺さんは、そこをはっきり言った。


「今の名前と、昔の地元の言い方は分けた方がええ。今の名前は今の名前として大事。でも、昔の人がどう呼んどったかは別じゃ」

「黒島」

「そう、黒島。あと、潮が引くとか、砂が出るとか。もっと別の言い方をしとった人もおるかもしれん。そこは、田原さんみたいな人に聞いた方が早い」


 私は資料を開いた。


 現代名称。ヴィーナスロード。

 小野寺さんの子ども時代には聞かない呼称。

 地元感覚では黒島/潮が引くと砂が出る場所。

 昭和五十七年資料では現代名称以外の語を想定。


 書きながら、胸の中で少しだけ嬉しくなる。これは、新しい答えではない。むしろ、探す時に間違えないための注意だ。けれど、こういう注意が一番大事なこともある。名前が違えば、検索には引っかからない。名前が変われば、同じ場所でも別のものに見える。


「海が道になるんですね」


 紬が、パンフレットを見たまま言った。小野寺さんが、嬉しそうに頷く。


「そう。潮が引いた時だけな」

「いつでもじゃない」

「そう、そこが面白いし、面倒なんよ」

「地図に描きにくい道ですね」

「そうなんよ!」


 小野寺さんの声が大きくなった。高橋さんが奥から「音量」とだけ言った。


「あ、ごめん」


 小野寺さんは一瞬だけ声を落とし、すぐ元に戻った。


「お客さんには、きれいですよ、歩けますよ、だけじゃ済まんのよ。潮の時間、船の手配、靴、帰りの時間。全部見んといけん」

「行きたいと言われても、すぐには案内できない」

「そう。ロマンには段取りが要るんじゃ」


 その言葉に、私は思わずペンを止めた。


 ロマンには段取りが要る。


 黒田さんなら、夢には見積書を添付しろと言うかもしれない。

 小野寺さんは、潮の時間と靴と帰りの船を挙げる。言っていることは違うようで、根は少し似ている。夢を壊すためではなく、夢を本当に歩けるものにするための現実。


「道が出る言うても、勝手に行けるわけじゃないんよ」


 小野寺さんは続けた。


「海はきれいじゃけど、甘く見たらおえん。潮の時間を間違えたら戻れんし、足元も見んといけん。案内する側は、きれいな写真の外側まで考えんと」


 紬が身を乗り出した。


「パンフレットには、いちばんきれいな瞬間が載りますよね」

「載る。そりゃ載せる。見てもらわんと始まらんけぇ」

「でも、実際には、その前後に時間がある」

「そうじゃ。潮が引く前があって、道が出る時があって、また消える時がある」


 紬はパンフレットの写真をじっと見ていた。紬は、写真そのものではなく、写真の前後にある時間を見ていた。どこに文字を置くか、余白をどう取るか、青をどこまで強くするか。今もきっと見ている。でも、それだけではない。


「不便ですね」


 紬が言った。


「不便じゃな」

「でも、不便だから記憶に残る気がします。いつでも行ける道より、時間が合わないと現れない道の方が」

「それも、観光の強さになるんよ」

「難しいですね」

「難しい。じゃけぇ面白い」


 小野寺さんは、あっさり言った。難しいことを、暗い顔で言わない。小野寺さんのそういうところに、私は少しずつ慣れてきている。


「海から道へ」


 私は、調査資料の上でその言葉を見た。けれど、パンフレットの上の細い砂の道を見ていると、その言葉の向きが少し変わった。

 海から道へ。

 それは、海を離れて陸の道へ向かうことだけではない。海そのものの中に、道を見ることでもある。


「山本さんが見ていたかもしれない道は、陸の上だけではなかったのかもしれませんね」


 私が言うと、小野寺さんは、すぐには頷かなかった。その代わり、カウンターに片肘をついて、少し考える顔をした。


「それは、まだ分からん」

「はい」

「黒島が昭和五十七年の構想に入っとったかどうかも分からん。島の話と広域観光ルートの話が、私の頭の中で混ざっとるだけかもしれんが」


 小野寺さんは、パンフレットの海の道を指で軽く叩いた。


「牛窓で『道』を考えるなら、陸だけ見とったら足りん気はする」

「陸だけでは足りない」

「船の道もある。潮の道もある。島へ行く道もある。牛窓は、海が邪魔をしとるんじゃなくて、海が道にもなる場所じゃけぇ」


 海が道にもなる場所。


 私は、その言葉をそのまま書いた。


 小野寺氏談。牛窓では、海が道にもなる。

 船路、島、潮の道。

 陸路に限定しない。

 ただし、昭和五十七年構想との関係は未確認。

 名称の時代差に注意。


 ペン先が紙を走る音が、やけに大きく聞こえた。


「椎名さん」


 小野寺さんが紬に目を向けた。


「はい」

「デザインの人から見たら、こういう道は困る?」

「困ります」

「即答じゃな」

「地図に固定できないので。時間で変わるし、条件も多い。説明しないと危ない。でも」

「でも?」

「すごく惹かれます」


 紬は、パンフレットの写真から目を離さなかった。


「決まった形でずっとあるものより、現れたり消えたりするものの方が、見る人の中に残る気がします」

「ええこと言うなあ」

「でも、案内する人は大変です」

「じゃけぇ、私らがおるんよ」


 小野寺さんは胸を張った。


「潮の時間も、船のことも、靴のことも、帰りのことも、全部まとめて案内する。きれいな道だけ見せて、あとは知りません、じゃおえん」

「小野寺さんは、やっぱり備品ではないですね」


 私が言うと、小野寺さんはにやっとした。


「重要備品じゃな」

「人間です」

「観光案内には、そういう人間が必要なんよ」


 高橋さんが奥から「重要備品なら棚卸ししますよ」と言った。


「聞こえとったん?」

「聞こえます」

「海に逃げてないのに」

「室内ですから」


 小野寺さんは肩をすくめた。


 きらり館の中で、観光客の一人が「前島はどの船ですか」と尋ねた。高橋さんがすぐに対応する。小野寺さんは一瞬そちらを見て、任せられると判断したのか、また私たちに向き直った。


「今日は島には行かんよ」

「分かっています」

「宮地さん、その返事は信用ならん」

「なぜですか」

「目がもう海の向こうを見とる」


 私は返事に困った。顔に出ている、と言われるより困る。見ている先を言われたからだ。


「今日は行きません」

「今日は、ね」

「今日は」

「ほら」


 小野寺さんが笑った。紬が、助けるでもなく、淡々と言った。


「潮の時間もありますし」

「椎名さんは冷静じゃな」

「行くなら段取りが必要です」

「そう。それが正しい」


 ロマンには段取りが要る。

 さっきから、違う人の言葉が同じ場所に流れ込んでくる。けれど、同じ言葉ではない。黒田さんの見積書、森下さんの資料の輪郭、小野寺さんの潮の時間。それぞれが違う場所から、同じことを言っている。面白いものほど、雑に扱ってはいけない。


 私は調査資料に、もう一行足した。


 島は目的地か、道か。


 書いた瞬間、その問いが少しだけ光ったように見えた。


 黒島に行くのか。前島を見るのか。島を観光資源として扱うのか。広域観光ルートの一部として扱うのか。あるいは、島そのものが道なのか。まだ分からない。でも、分からない問いには、急いで答えを入れない方がいい。


「それ、何を書いたん?」


 小野寺さんが、また覗き込もうとした。


「まだ見せられません」

「ええ、秘密?」

「整理前です」

「役所の子は、整理前を隠すなあ」

「散らかったまま出すと、黒田課長補佐に怒られます」

「黒田さん、怒りそうじゃな」

「怒るというより、静かに詰めます」

「ああ、それは怖い」


 小野寺さんは、妙に納得した顔をした。

 紬が小さく笑った。


「でも、今の問いは良いと思います」

「見えてました?」

「少し」

「油断ならない」

「先輩の字は、興奮すると大きくなります」

「そこまで見んで」


 私は資料を閉じた。外へ出るつもりはなかったのに、少しだけ入口の方へ歩いた。

 自動ドアの向こうに、港の光が見える。島は、ここからははっきりとは見えない。けれど、海の向こうにあることは分かる。見えていないのに、そこにある。

 それは、資料にまだ載っていない言葉や、名前の変わった場所や、人の記憶の中で揺れている呼び名に少し似ていた。

 小野寺さんが、私の横に立った。


「見に行きたい顔しとる」

「今日は行きませんて」

「うん。今日は行かん方がええ」

「理由は?」

「潮の時間もあるし、私が高橋さんに本気で棚卸しされる」

「後半が本音ですね」

「両方本音じゃ」


 小野寺さんは、海の方を見た。


「でも、島は見た方がええと思うで。資料だけじゃ分からん。船に乗らんと分からんこともあるし、渡らんでも、港から見るだけで分かることもある」

「はい」

「ただ、山本さんに結びつけるのは急がんこと」

「分かっています」

「分かっとるならええ」


 その言い方は、森下さんの慎重さとは違う。黒田さんの圧とも違う。小野寺さんの言葉は、道案内のように前を向いている。そこはまだ曲がるな、でもこの先に道はある。そんな言い方だった。


 私は、資料の表紙に手を置いた。


 海から道へ。陸路だけではない。船路、島、潮の道。名称の時代差に注意。島は目的地か、道か。今日書いた言葉を、頭の中でゆっくり並べる。


 海の向こうに、島がある。そこへ伸びる線は、今の地図にはまだ引けない。昭和五十七年の資料にも、まだ見つけていない。けれど、道はいつも、見えているものだけでできているわけではない。潮が引いた時だけ現れる道があるなら。人の記憶の中にだけ、残っている道もあるのかもしれない。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。