第3章「言えることから、積む」 Scene14
小野寺さんは、今度こそカウンターの内側に戻った。
「今度こそ中におります」
高橋さんに向かって、やけに堂々と宣言する。高橋さんは、パンフレットを補充しながら顔だけを上げた。
「録音しましょうか」
「信用がないなあ」
「実績です」
「それを言われると弱い」
小野寺さんは胸に手を当てて、大げさに傷ついた顔をした。高橋さんは慣れているらしく、まったく動じない。
きらり館の中は、相変わらず明るかった。観光客が入ってきて、パンフレットを手に取り、土産物を見て、また外へ出ていく。そのたびに、自動ドアの向こうから海の光が入る。
私は調査資料を閉じたまま、少し迷っていた。今日だけで、ずいぶん遠くまで来てしまった気がする。
田原さんに会い、山本健治が「写真の山本さん」と呼ばれていたことを聞き、「海から道へ」という言葉を拾い、港からきらり館へ戻る道を、ただの道ではなく観光客の動線として見た。
もう十分だ、と行政職員としての私は言っている。でも、小野寺さんの口から出てきた言葉が、まだ棚の隅に引っかかっていた。
『島も絡んどったような気がするんよなあ』
「あの」
私はカウンターの前で言った。
「小野寺さん」
「はい。今度は外に出んよ」
「まだ何も言っていません」
「宮地さんの雰囲気が、外へ出たい雰囲気になっとる」
「そこまでは」
「なっとるよ」
高橋さんが、横から小さく咳払いをした。
「外には出ません」
私は先に言った。
「小野寺さんが、さっき島も絡んでいたかもしれない、とおっしゃっていたので」
「ああ」
小野寺さんの顔が、少しだけ仕事の顔になった。
「言うたな。言うたけど、あれは混ざっとるかもしれんよ」
「はい」
「牛窓は島の話が多いけぇな。前島もあるし、黒島もあるし、島めぐりの話もある。昔の話と今の案内が、私の頭の中で一緒の棚に入っとる可能性はある」
「同じ分類に入っているんですね」
「さっきの続きじゃな。見出しは派手じゃけど、中身は混ざる」
そう言いながら、小野寺さんはパンフレット棚へ向かった。
「島いうたら、まず前島じゃろ。牛窓からすぐ行ける。フェリーの時間を聞かれるのも多い。黒島は、潮の時間が大事じゃな」
手際よく数枚のパンフレットを抜く。
前島、黒島、海洋体験、周辺の島を紹介するもの。
紙の色が急に青くなる。港、船、波、島影。きらり館の棚の中で、海はまた別の面を開いた。
小野寺さんは、そのうち一枚をカウンターの上に広げた。
「今は、こういう名前で案内しとる」
指先が示した写真には、海の中に細い砂の道が伸びていた。潮が引いた時だけ現れる、島と島をつなぐ道。
「ヴィーナスロード」
紬が小さく読んだ。
「きれいな名前ですね」
「きれいじゃろ。観光向けにはええ名前なんよ」
小野寺さんは頷いた。
「でも、この名前は、私が子どもの頃には聞かんかったな」
「そうなんですか」
「うん。黒島とか、潮が引いたら砂が出るとか、そんな言い方じゃったと思う。少なくとも、ヴィーナスロードとは呼んどらんかった」
「では、もし当時の資料を探すなら」
「ヴィーナスロードだけで探しても、当たらんかもしれん」
小野寺さんは、そこをはっきり言った。
「今の名前と、昔の地元の言い方は分けた方がええ。今の名前は今の名前として大事。でも、昔の人がどう呼んどったかは別じゃ」
「黒島」
「そう、黒島。あと、潮が引くとか、砂が出るとか。もっと別の言い方をしとった人もおるかもしれん。そこは、田原さんみたいな人に聞いた方が早い」
私は資料を開いた。
現代名称。ヴィーナスロード。
小野寺さんの子ども時代には聞かない呼称。
地元感覚では黒島/潮が引くと砂が出る場所。
昭和五十七年資料では現代名称以外の語を想定。
書きながら、胸の中で少しだけ嬉しくなる。これは、新しい答えではない。むしろ、探す時に間違えないための注意だ。けれど、こういう注意が一番大事なこともある。名前が違えば、検索には引っかからない。名前が変われば、同じ場所でも別のものに見える。
「海が道になるんですね」
紬が、パンフレットを見たまま言った。小野寺さんが、嬉しそうに頷く。
「そう。潮が引いた時だけな」
「いつでもじゃない」
「そう、そこが面白いし、面倒なんよ」
「地図に描きにくい道ですね」
「そうなんよ!」
小野寺さんの声が大きくなった。高橋さんが奥から「音量」とだけ言った。
「あ、ごめん」
小野寺さんは一瞬だけ声を落とし、すぐ元に戻った。
「お客さんには、きれいですよ、歩けますよ、だけじゃ済まんのよ。潮の時間、船の手配、靴、帰りの時間。全部見んといけん」
「行きたいと言われても、すぐには案内できない」
「そう。ロマンには段取りが要るんじゃ」
その言葉に、私は思わずペンを止めた。
ロマンには段取りが要る。
黒田さんなら、夢には見積書を添付しろと言うかもしれない。
小野寺さんは、潮の時間と靴と帰りの船を挙げる。言っていることは違うようで、根は少し似ている。夢を壊すためではなく、夢を本当に歩けるものにするための現実。
「道が出る言うても、勝手に行けるわけじゃないんよ」
小野寺さんは続けた。
「海はきれいじゃけど、甘く見たらおえん。潮の時間を間違えたら戻れんし、足元も見んといけん。案内する側は、きれいな写真の外側まで考えんと」
紬が身を乗り出した。
「パンフレットには、いちばんきれいな瞬間が載りますよね」
「載る。そりゃ載せる。見てもらわんと始まらんけぇ」
「でも、実際には、その前後に時間がある」
「そうじゃ。潮が引く前があって、道が出る時があって、また消える時がある」
紬はパンフレットの写真をじっと見ていた。紬は、写真そのものではなく、写真の前後にある時間を見ていた。どこに文字を置くか、余白をどう取るか、青をどこまで強くするか。今もきっと見ている。でも、それだけではない。
「不便ですね」
紬が言った。
「不便じゃな」
「でも、不便だから記憶に残る気がします。いつでも行ける道より、時間が合わないと現れない道の方が」
「それも、観光の強さになるんよ」
「難しいですね」
「難しい。じゃけぇ面白い」
小野寺さんは、あっさり言った。難しいことを、暗い顔で言わない。小野寺さんのそういうところに、私は少しずつ慣れてきている。
「海から道へ」
私は、調査資料の上でその言葉を見た。けれど、パンフレットの上の細い砂の道を見ていると、その言葉の向きが少し変わった。
海から道へ。
それは、海を離れて陸の道へ向かうことだけではない。海そのものの中に、道を見ることでもある。
「山本さんが見ていたかもしれない道は、陸の上だけではなかったのかもしれませんね」
私が言うと、小野寺さんは、すぐには頷かなかった。その代わり、カウンターに片肘をついて、少し考える顔をした。
「それは、まだ分からん」
「はい」
「黒島が昭和五十七年の構想に入っとったかどうかも分からん。島の話と広域観光ルートの話が、私の頭の中で混ざっとるだけかもしれんが」
小野寺さんは、パンフレットの海の道を指で軽く叩いた。
「牛窓で『道』を考えるなら、陸だけ見とったら足りん気はする」
「陸だけでは足りない」
「船の道もある。潮の道もある。島へ行く道もある。牛窓は、海が邪魔をしとるんじゃなくて、海が道にもなる場所じゃけぇ」
海が道にもなる場所。
私は、その言葉をそのまま書いた。
小野寺氏談。牛窓では、海が道にもなる。
船路、島、潮の道。
陸路に限定しない。
ただし、昭和五十七年構想との関係は未確認。
名称の時代差に注意。
ペン先が紙を走る音が、やけに大きく聞こえた。
「椎名さん」
小野寺さんが紬に目を向けた。
「はい」
「デザインの人から見たら、こういう道は困る?」
「困ります」
「即答じゃな」
「地図に固定できないので。時間で変わるし、条件も多い。説明しないと危ない。でも」
「でも?」
「すごく惹かれます」
紬は、パンフレットの写真から目を離さなかった。
「決まった形でずっとあるものより、現れたり消えたりするものの方が、見る人の中に残る気がします」
「ええこと言うなあ」
「でも、案内する人は大変です」
「じゃけぇ、私らがおるんよ」
小野寺さんは胸を張った。
「潮の時間も、船のことも、靴のことも、帰りのことも、全部まとめて案内する。きれいな道だけ見せて、あとは知りません、じゃおえん」
「小野寺さんは、やっぱり備品ではないですね」
私が言うと、小野寺さんはにやっとした。
「重要備品じゃな」
「人間です」
「観光案内には、そういう人間が必要なんよ」
高橋さんが奥から「重要備品なら棚卸ししますよ」と言った。
「聞こえとったん?」
「聞こえます」
「海に逃げてないのに」
「室内ですから」
小野寺さんは肩をすくめた。
きらり館の中で、観光客の一人が「前島はどの船ですか」と尋ねた。高橋さんがすぐに対応する。小野寺さんは一瞬そちらを見て、任せられると判断したのか、また私たちに向き直った。
「今日は島には行かんよ」
「分かっています」
「宮地さん、その返事は信用ならん」
「なぜですか」
「目がもう海の向こうを見とる」
私は返事に困った。顔に出ている、と言われるより困る。見ている先を言われたからだ。
「今日は行きません」
「今日は、ね」
「今日は」
「ほら」
小野寺さんが笑った。紬が、助けるでもなく、淡々と言った。
「潮の時間もありますし」
「椎名さんは冷静じゃな」
「行くなら段取りが必要です」
「そう。それが正しい」
ロマンには段取りが要る。
さっきから、違う人の言葉が同じ場所に流れ込んでくる。けれど、同じ言葉ではない。黒田さんの見積書、森下さんの資料の輪郭、小野寺さんの潮の時間。それぞれが違う場所から、同じことを言っている。面白いものほど、雑に扱ってはいけない。
私は調査資料に、もう一行足した。
島は目的地か、道か。
書いた瞬間、その問いが少しだけ光ったように見えた。
黒島に行くのか。前島を見るのか。島を観光資源として扱うのか。広域観光ルートの一部として扱うのか。あるいは、島そのものが道なのか。まだ分からない。でも、分からない問いには、急いで答えを入れない方がいい。
「それ、何を書いたん?」
小野寺さんが、また覗き込もうとした。
「まだ見せられません」
「ええ、秘密?」
「整理前です」
「役所の子は、整理前を隠すなあ」
「散らかったまま出すと、黒田課長補佐に怒られます」
「黒田さん、怒りそうじゃな」
「怒るというより、静かに詰めます」
「ああ、それは怖い」
小野寺さんは、妙に納得した顔をした。
紬が小さく笑った。
「でも、今の問いは良いと思います」
「見えてました?」
「少し」
「油断ならない」
「先輩の字は、興奮すると大きくなります」
「そこまで見んで」
私は資料を閉じた。外へ出るつもりはなかったのに、少しだけ入口の方へ歩いた。
自動ドアの向こうに、港の光が見える。島は、ここからははっきりとは見えない。けれど、海の向こうにあることは分かる。見えていないのに、そこにある。
それは、資料にまだ載っていない言葉や、名前の変わった場所や、人の記憶の中で揺れている呼び名に少し似ていた。
小野寺さんが、私の横に立った。
「見に行きたい顔しとる」
「今日は行きませんて」
「うん。今日は行かん方がええ」
「理由は?」
「潮の時間もあるし、私が高橋さんに本気で棚卸しされる」
「後半が本音ですね」
「両方本音じゃ」
小野寺さんは、海の方を見た。
「でも、島は見た方がええと思うで。資料だけじゃ分からん。船に乗らんと分からんこともあるし、渡らんでも、港から見るだけで分かることもある」
「はい」
「ただ、山本さんに結びつけるのは急がんこと」
「分かっています」
「分かっとるならええ」
その言い方は、森下さんの慎重さとは違う。黒田さんの圧とも違う。小野寺さんの言葉は、道案内のように前を向いている。そこはまだ曲がるな、でもこの先に道はある。そんな言い方だった。
私は、資料の表紙に手を置いた。
海から道へ。陸路だけではない。船路、島、潮の道。名称の時代差に注意。島は目的地か、道か。今日書いた言葉を、頭の中でゆっくり並べる。
海の向こうに、島がある。そこへ伸びる線は、今の地図にはまだ引けない。昭和五十七年の資料にも、まだ見つけていない。けれど、道はいつも、見えているものだけでできているわけではない。潮が引いた時だけ現れる道があるなら。人の記憶の中にだけ、残っている道もあるのかもしれない。




