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瀬戸内カラー  作者: 秋澄しえる


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第3章「言えることから、積む」 Scene13

 田原さんの背中が、港の光の中に小さくなっていった。


 小野寺さんは、その背中を見送ってから、腕時計を見た。


「あ」


 嫌な種類の「あ」だ。


「高橋さんに怒られる」

「戻りましょう」

「戻る。戻るけど、戻りながら見る」

「何をですか」

「道」


 小野寺さんは、迷いなく歩き出した。迷いがないのは良いことだが、戻ると言いながら寄り道の気配がある。高橋さんがこの場にいたら、たぶん「やっぱり三十分では済まなかった」と言うだろう。私としてはありがたい。


 私と紬は、小野寺さんの後ろをついていった。港からきらり館へ戻る道は、さっきも歩いたはずだった。けれど、田原さんの「海から道へ」という言葉を聞いた後では、同じ道が少し違って見える。

 海は、背中側にあった。けれど、完全に消えるわけではない。建物の隙間から光が差し、車の窓に水面が反射し、潮の匂いが薄くなったり濃くなったりする。海を離れているのに、海がまだこちらを引いている。


「観光客はな、地図の通りには歩かんのよ」


 小野寺さんが、前を向いたまま言った。


「地図は見るんですよね」

「見る。見るけど、その通りには歩かん。まず目に入った方へ行く。海が見えたら海。船が見えたら船。お腹が空いとったら店。トイレが近かったらトイレ」

「現実的ですね」

「観光は現実じゃけぇ」


 小野寺さんは笑った。


「歴史は?」

「後回しじゃな」

「最初から歴史を見に来る人ばかりではない、ということですか」

「歴史を見たい人は最初から見る。でも、普通の観光客は、理由がないと細い道へ入ってくれん。海は理由になる。写真も撮れるし、分かりやすい。けど、道は入口が要るんよ」


 入口。

 その言葉は、さっき小野寺さんが言った言葉とつながった。

 入口は、名前より分かりやすさ。牛窓という名前は、今でも観光客が最初に口にする入口になっている。牛窓の海も、観光客の目にとって一番分かりやすい入口だ。


「海から道へ、というのは」


 私は言った。


「地理の話だけではないのかもしれませんね」

「そうじゃな」


 小野寺さんは、すぐ頷いた。


「海を見せて終わりじゃなくて、そこからどう歩いてもらうか。どこで足を止めて、どこで曲がって、どこで次の場所に行きたくなるか。そこまで考えんと、ルートにはならん」

「ルートって、地図の線ではないんですね」


 紬が言った。小野寺さんが振り返る。


「椎名さんは、そういうの得意そうじゃな」

「たぶん、地図より順番の話です」


 紬は、港の方を一度見てから、道の先へ視線を戻した。


「海を見せてから道へ入れるのと、最初から道を歩かせるのでは、印象が違います。海を捨てるんじゃないんですね」

「え?」


 私が聞き返すと、紬は少しだけ考えてから言った。


「海を入口にするんです。そこから道へ、視線と足を流す」


 海を入口にする。その言葉は、田原さんの「海から道へ」と同じ方向を向いていた。けれど、田原さんの言葉より少しだけ整理されている。紬の言葉は、散らかった昔話を、デザインの言葉に置き換えていた。


「ポスターと似ていますね」


 紬が続けた。


「青い海で入って、白いヨットで視線を動かす。きれいな夏の絵として見せながら、別の場所へ目を向けさせる。そういう読み方も、できるかもしれません」

「まだ、そこまでじゃな」

「はい。読み方の一つです」


 紬がそう言ったので、私は少し笑ってしまった。


「何ですか」

「いや、成長したなと」

「先輩に言われると腹が立ちます」

「すみません」

「でも、今回は合っています」


 小野寺さんが声を出して笑った。


「歩いてもらうだけじゃ、観光にはならんのよ」


 小野寺さんは、パンフレットの束を整えながら言った。


「気持ちよう見て、気持ちよう食べて、気持ちよう買って、また来たいと思ってもらう。そこまで行って、やっと観光じゃけぇ」

「そこまで含めてこそなんですね」

「現実よ。地図だけ渡しても、お腹はふくれんもん」


 道の先に、観光案内の看板が見えた。現在の瀬戸内市として整えられた案内板で、牛窓だけでなく、長船や邑久の名前も載っている。写真も地図も、ひとつの板の上に並んでいた。今の私には、それが急に不思議なものに見えた。


 瀬戸内市になった今、牛窓、邑久、長船をひとつの案内板に載せることは、行政的には自然なことだ。むしろ載っていなければ、なぜ載っていないのかを問われる。けれど、昭和五十七年には違った。


 小野寺さんは、案内板の前で立ち止まった。そして、牛窓の写真を指す。


「牛窓は、牛窓だけで売れたんよ。海がある。港がある。島がある。夏なら、それだけで人が来る」

「はい」

「でも、それで終わったら、牛窓だけで終わる。長船には刀とか、福岡の町並みがある。邑久にも邑久の古墳や、竹久夢二や、田んぼの景色がある。けど、観光客にとっては、町の境なんか見えんようで、意外と見えるんよ」

「どういうことですか」

「行く理由がないと、境を越えんのよ」


 その言葉に、私は黙った。行政の境界は、地図に線として引かれる。けれど、観光客の中にも別の線がある。ここまで来たから十分、という線。移動が面倒だという線。次の目的地を知らないという線。

 線は、役場だけが引くものではない。


「じゃけぇ、広域観光ルートいうのは、線を引くだけじゃ駄目なんよ」


 小野寺さんが言った。


「ここからここへ行ってください、って地図に書いても、人は動かん。そこへ行きたくなる理由が要る。曲がってみたくなる入口が要る。帰りに寄ってもええなと思う余白が要る」


 余白。


 私は紬を見た。紬は、案内板ではなく、案内板の前で立ち止まっている観光客を見ていた。

 中年の夫婦が一組、指で地図をなぞっている。牛窓の写真を見て、それから別の場所の説明文に目を移し、また牛窓に戻る。見ているようで、迷っている。


「余白は、空きではなく、次へ行く余地」


 紬が小さく言った。


「何?」

「いえ、仕事の話です」

「こっちにも聞こえるように言って」


 小野寺さんが言うと、紬は少し迷った後、言葉を選んだ。


「デザインで余白というと、ただ空いている場所ではないんです。目が休む場所だったり、次に見るものへ移るための場所だったりします」

「うん」

「観光ルートも、たぶん同じです。目的地と目的地を詰め込むだけでは、人は疲れる。移動したくなる余白がないと、次へ行けない」

「ええなあ、それ」


 小野寺さんが、嬉しそうに言った。


「椎名さん、それ、観光協会の会議で言うて」

「嫌です」

「早いな」

「仕事になります」

「仕事にすればええ」

「宮地さんに言ってください」


 紬が私を見た。


「なぜ私に」

「市役所ですから」

「そういう時だけ市役所扱いするん、やめてもらえん?」


 小野寺さんが、また笑った。


 明るい会話をしながらも、私はどこかでずっと田原さんの言葉を反芻していた。


 海から道へ。


 それは、海を否定する言葉ではない。牛窓の強さを捨てる言葉でもない。むしろ逆だ。海が強いからこそ、入口になる。その分かりやすさで人を引き寄せて、そこから道へ足を向けてもらう。


 もし昭和五十七年のポスターに、備前福岡への仕掛けが本当にあったのなら。それは、牛窓の海の中に長船の地名を隠したのではない。牛窓の海を入口にして、長船へ続く道を置いたのかもしれない。


 まだ線にしてはいけない。私の中で、黒田さんの声でも森下さんの声でもなく、自分の声がそう言った。


「宮地さん、顔が仕事しとる」


 小野寺さんが言った。


「顔が仕事」

「難しいこと考えとる顔」

「すみません」

「謝らんでええ。考えるのも仕事じゃろ」


 その言い方が、妙にありがたかった。黒田さんなら、考えたものを予算書にどう書くかを問う。森下さんなら、考えたものと資料に残る事実を分ける。小野寺さんは、考えている顔を、そのまま歩かせてくれる。


 きらり館に近づくと、入口近くのパンフレット棚が見えた。


 牛窓の青い海。長船の刀。邑久の緑。それぞれ別の色をしたパンフレットが、同じ棚に並んでいる。さっきまでは、ただの観光案内の棚だった。でも今は、違う。青、鉄、緑。別々の町だった時間が、同じ幅の紙として並べられている。


「今は、こうやって並べられる」


 小野寺さんは、棚の前で立ち止まった。


「けど、昔はこれを考えるだけでも、けっこう大変じゃったと思うで。どこも、自分の町を見てほしい」

「それを、つなぐ」

「つなぎたい人はおったと思う。けど、つなぐには理由が要る。声も要る。たぶん、根回しも要る」


 根回し。急に、市役所の床の感触が足元に戻ってきた。


 昭和五十七年の誰かが、牛窓から長船へ人を流したいと考えた。もしそうだとしたら、それはロマンだけではない。

 観光協会、役場、印刷、写真、交通、町と町の関係。そこにはきっと、面倒な調整が山ほどあった。夢には、見積書だけでなく、根回しも要る。黒田さんが聞いたら、少しだけ頷くかもしれない。


「山本さんが、それを一人で考えたわけではない」


 私は言った。田原さんの言葉を思い出す。偉い人にしたらおえんで。


「でも、その中で、よう考えとった一人かもしれない」

「そういうことじゃな」


 小野寺さんは頷いた。


 紬は、パンフレット棚を見ていた。


「色が違いますね」

「パンフレット?」

「はい。牛窓は青。長船は鉄の色。邑久は緑。別々の色なのに、棚に並ぶと一つの市に見える」

「それ、今のタイトルに使えそうじゃな」

「タイトル?」

「瀬戸内カラー、みたいな」


 小野寺さんは何気なく言った。私は一瞬、息を止めた。紬も、ほんの少しだけ黙った。


 瀬戸内カラー。


 その言葉は、昔、高校の美術室で聞いた気がした。絵の具の匂い、乾ききっていないポスターカラー、窓から入る光。平成二十九年度観光ポスター公募審査結果のファイル。まだ開けていない、自分たちの過去。でも今は、そこへ行く時ではない。


「どうしたん?」


 小野寺さんが私たちを見た。


「いえ」


 私は首を振った。


「いい言葉だと思って」

「じゃろ。私、たまにええこと言うんよ」

「たまにですか」

「しょっちゅう言うたら疲れるけぇ」


 小野寺さんは、何でもないことのように笑った。


 私は調査資料を開いた。書くことは多かった。

 田原さんの言葉、小野寺さんの案内、紬の視線誘導、現在のパンフレット棚。けれど、その全部を一度に線で結ぶのは、まだ早い。私はまず、こう書いた。


 海から道へ。

 海を入口にして、次の場所へ足を向けさせること。

 ルートは地図上の線ではなく、体験の順番。

 牛窓・長船・邑久を並べる発想。

 現在では自然。昭和五十七年当時は未確認。


 まだ線にしない。


 最後の一行を書いた時、少しだけ息が楽になった。まだ線にしない。それは逃げではない。保留でもない。雑に結ばないための、今の私なりの慎重さだった。


 カウンターの奥から、高橋さんが顔を出した。


「あ、小野寺さん。おかえりなさい」

「ただいま。二十分でした」

「時計、見ます?」

「見ん方が平和じゃ」

「三十八分です」

「今日は海風が強かったけぇな」

「関係あります?」

「たぶん、ある」


 高橋さんは、諦めたように笑って、カウンターへ戻っていった。


 小野寺さんは、悪びれもせずに私たちへ向き直った。


「ほんなら、今日はここまでじゃな。これ以上おったら、高橋さんが私を棚卸しし始める」

「棚卸し」

「人数が合わんって」

「小野寺さんは備品じゃないですよ」

「観光案内には、備品みたいな人間も必要なんよ」


 紬が笑った。


 私は調査資料を閉じた。きらり館の棚には、牛窓の青、長船の鉄、邑久の緑が、同じ幅のパンフレットとして並んでいる。それは今の瀬戸内市では当たり前の光景だ。けれど、昭和五十七年の山本健治が、もし同じような並びを夢見ていたのなら。


 私はもう一度、閉じた資料の表紙に手を置いた。まだ線にしない。その言葉だけが、今日の調査でいちばん確かなもののように思えた。

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