第二十六話
リンネの手首が壁から解放された。壁に支えられていた体がずるりと落ちそうになるのを、アマギは慌てて抱えた。
「リンネ、大丈夫か、おい!」
顔を覗き込む。彼女の疲労は強く、呼びかけに応じず固く目を閉じている。汗もかき、息も荒い。急いで休ませる必要があった。
「待ってろ、すぐ車に戻るからな」
しっかり抱きかかえ、戻ろうとする。ぎし、びき、と嫌な音がしたのは彼が出口の方へ振り返った時だ。ほぼ反射的にアマギは足を止め、後ろに飛び退った。
天井が破裂した。破片をまき散らしながら、巨大な何かがアマギの前に落ちて来た。
「逃がさへん。絶対に」
もうもうと舞い上がっていた細かな破片や埃が落ちる。視界が晴れ、目の前に現れたのはアオイだった。だが、形態がタイチたちの前にいた時から更に変化していた。
上半身は鱗で覆われてはいるが人型を保っていた。下半身は蛇のような胴体に変わり、前足と後ろ足が一対ずつあった。前足は人のものではなく、筋肉の発達した大腿部から鉤爪つきの巨大な鳥の足が伸びている。
物語に出てくるドラゴンの胴体が、彼女の下半身に生えていた。
しかし、その強靭であろう体には広範囲に焼け焦げた傷跡があった。特にひどいのは背中から生えている黒い翼だ。ただ黒いだけでなく、半ばから炭化し、失われていた。
「閉じ込めて、太陽光による焦点レンズで生きたまま焼き殺すなんて、とんでもない作戦考えよったな。悪魔かあんたら」
傷だらけでも、彼女の目は爛々として、こちらに狙いを定めている。
「悪魔みたいな君に、言われたくないな」
リンネをかばいながらどこまで逃げられるか。アマギはその事だけに頭をフル回転させていた。
「逃がさへんよ。その子はここで、確実に、殺す」
「わざわざ強調するように区切って言わなくても、わかってる。それを、僕たちが許すとは思ってないよな?」
「許されようとは思わんよ。それにどうせ、あんたも死ぬ」
ドラゴンの尾が近くにあったコンテナを叩く。破片が飛び散り、アマギたちを襲う。アマギはリンネをかばいながらとっさに横へ飛んだ。多少のかすり傷は負ったが、致命傷は免れた。
アマギの顔に影が落ちる。見上げればアオイが待ち構えていた。尾の一撃はただの目くらまし。詰み将棋と同じで、確実にアマギたちを殺すために追いつめるためのものだった。巨大な足がアマギに向かって落ちてくる。無駄と分かっていても、アマギはリンネをかばう。
砲撃が轟く。タイチが持つスナイパーライフルを受けても揺るがなかったアオイの体が衝撃で揺らぎ、横に弾かれる。アマギに落ちる軌道上の足がずれる。鉤爪が背中をかすめるが、アマギとリンネは紙一重で生き残った。
たたらを踏んで、アオイは耐える。着弾したドラゴンの同部分が大きく抉れていた。すぐに近くの細胞が、抉れた部分を補完しようと働き、傷口が塞がっていく。そう、塞がっていく。これは、アンチを用いた砲撃ではない。
赤い眼が狙撃手を捉えた。
「こんの、死にぞこないが!」
踏ん張った足で、そのまま狙撃手に向かって跳躍する。狙撃手が飛んでくるアオイに向けて何かを投げた。投げた何かが破裂する。激しい光と音がアオイの体を打ち据えた。
痛みすら感じる刺激のせいで、耳と目を思わず手で押さえる。空中にいた体は着地どころか受け身も取れず、コンテナに墜落して滑っていく。
「効くんじゃないか? その鋭敏な感覚には」
苦悶の声を上げるアオイに、狙撃手は息切れの合間に告げた。
「くそ、ヤマトぉ!」
長大な腕を声のした方に向けて振り回す。しかし、それは空を切るばかりで、ヤマトには当たらない。
「目だけでなく、音で相手の位置を把握してたんだろ。だから、タイチがいる方向も常に把握していた。位置が把握できれば、優れたスナイパーの君なら、同じく優れたスナイパーのタイチが急所に当てられることがわかるから、射角位置から飛んできそうな場所に銃弾を止める手を置いておくだけでいい」
「自慢気に言うてくれてれるが、もう勝てたつもり? 笑わせんなや」
「笑わずにはいられないさ。圧倒的な力を持ちながら、死にぞこない一人殺せない間抜けが目の前にいるんだぜ?」
「ぬかせ!」
回復してきた視力がヤマトを再び視界に収める。ヤマトがハンドガンで応戦する。傷口の塞がりきっていない胴体に、アンチを撃ち込もうとしていた。
比較的無事な腕で防ぎながら突進する。ヤマトがハンドガンを捨て、ファイティングナイフを構え、あろうことか突っ込んできた。玉砕覚悟か。
アオイの前に選択肢が二つ。このまま相手を圧し潰すか、安全に殺すか。
突進を続ければ、間違いなくヤマトは殺せる。圧倒的な質量の前に、人は無力だ。だが問題が一つ。相手は防御も考えず、ただあのナイフを届かせる為に動いている。ナイフにはアンチが仕込まれている。しかも相手はヤマトだ。彼の戦い方は良く知っている。ユウキともシュウジとも違う。彼らほど近接戦闘に秀でていない代わりに、確実に相手を傷つけるための、アンチを流し込むための行動をとる。拳や剣で勝つのではなく、策で勝つタイプだ。その彼が、何の考えもなく、突進してくる怪物相手に無策であるわけがない。
相手は死にぞこない。足元もおぼつかない体だ。パンチ一つで殺せるのに、全力を用いる必要はない。
アオイは急停止した。腕を振り上げ、よたよたと間合いに入った相手に向かって振り下ろす。
一瞬、ヤマトの勝利を確信したような、笑った顔が視界に入り
次の瞬間には、拳が胴体にめり込んでいた。ヤマトの体が地面と平行に吹っ飛んでいく。
これでも過剰防衛過ぎるくらいだ。笑ったのは、死を覚悟したからだろう。どうにもならないと諦めた。それだけのこと。
目の前で光を反射する何かが浮いていた。スローモーションの視界の中、アオイの脳がそれの正体を判別する。それは、ヤマトが持っていたファイティングナイフだった。殴られた衝撃で手放したものだろうか。
いや、あり得ない。殴られた時に手放したのならば、ヤマトと同じ方向に飛んでいなければならない。なのにこのナイフはアオイの目の前で宙にあった。それも、切っ先をアオイの方に向け、縦にも横にも回転せず、まっすぐなジャイロ回転をしながら。
今更気づく。これは殴られたときに手放したのではない。殴られる前に、ヤマトが自ら投げたのだ。ジャイロ回転をかけ、切っ先がこちらに向くように。
何のために?
決まっている。次の手のためだ。奴は自らを囮にして、次の手を打った。次の手を、仲間に託した。
いつの間にかハンドガンに切り替えていたことにも気づくべきだった。最初に胴体を傷つけたのは、当たり前だがハンドガンであるはずがない。対物ライフルだ。それはどこに?
ターゲットが固定された射撃訓練なら、自分よりも精度の高い射撃ができるスナイパーのもとだ。
アオイの目の前のナイフが消えた。柄頭に寸分たがわず、対物ライフルの弾丸が命中し、押し出したのだ。ナイフは圧倒的な推進力と充分な威力を得て、彼女の胸部を鱗ごと貫いた。
空気が口から強制的に漏れる。銃弾の衝撃が肺から空気を押し出したのだ。加えて、致命的な毒が傷口から侵入しているのがわかった。
「ま、だや!」
口から血を流し、まだ足搔く。まだ、仕事は遂行できていない。ナイフを抜き、傷口を抉って毒の進行を止めればいい。傷は深いが、命まで届かないはず。
「アオイぃいいい!」
ユウキが文字通り斜め上から飛んできた。反応が遅れる。対応しようと振り返った時には、彼女の顔が目の前にあった。
「何で泣きそうやねん」
泣きたいのはこっちやわ。
ユウキの拳がナイフを更に押し込む。アンチによって脆くなったアオイの体がひび割れ、砕けた。涙の代わりに、彼女の破片が落ちていく。




