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第四章:大丈夫

あの喧嘩のあと、陽菜と話すことはなかった。

同じ教室にいても、視線が合うことはほとんどない。

意識しているのか、それともただの偶然なのか、それすら分からなかった。

蒼も、何かを変えようとは思わなかった。

関わらない。

踏み込まない。

それでいい。

そう思っているはずだった。

「次、体育だから外なー」

教師の声で、教室が一斉に動き出す。

グラウンドに出ると、日差しが思ったよりも強かった。

風はあるのに、空気はどこか重い。

「今日は持久走な」

小さなざわめき。

蒼は、何も言わなかった。

スタートの合図と同時に、全員が走り出す。

最初は、いつも通りだった。

周りと同じペースで走る。

無理もしないし、遅れもしない。

ただ、途中から少しずつ、呼吸が乱れ始める。

――おかしい。

そう思ったときには、もう遅かった。

息が、うまく吸えない。

喉が焼けるように熱い。

足が、思ったよりも重い。

それでも、止まらなかった。

止まる理由がない。

止まったら、何かに気づかれそうな気がした。

だから、走り続ける。

「……っ」

一瞬、視界が揺れる。

足元が、わずかにぶれる。

それでも、顔は上げたまま。

何もないように。

普通に。

そう見えるように。

――大丈夫。

自分に言い聞かせる。

まだ、いける。

「……蒼?」

遠くから、声がした気がした。

気のせいだと思った。

足を前に出す。

その瞬間、

視界が、大きく歪む。

「っ……」

思わず足を止める。

膝に手をつく。

息が、荒い。

でも、

倒れてはいない。

それだけで、十分だった。

「……は、ぁ……」

深く息を吸う。

ゆっくり吐く。

数秒。

それだけで、少し落ち着く。

顔を上げる。

周りは、もう先に行っている。

遅れた。

でも、それだけだ。

「……大丈夫」

小さく呟く。

再び、走り出す。

何もなかったように。

いつも通りに。


「ねえ」

授業が終わったあと。

不意に、声をかけられる。

振り返ると、陽菜がいた。

少しだけ距離を取ったまま、立っている。

「……何」

短く返す。

陽菜は、ほんの一瞬だけ迷ってから、

「さっき」

言葉を選ぶように、間が空く。

「走ってるとき」

胸の奥が、わずかにざわつく。

「なんでもない」

すぐに言葉を被せる。

「別に、普通だろ」

いつも通りの声。

いつも通りの返し。

でも、

陽菜は視線を外さなかった。

「……普通じゃなかったよ」

静かに言う。

「顔、やばかった」

「……気のせい」

すぐに返す。

「気のせいじゃない」

重ねるように言う。

「ちゃんと見てた」

その言葉が、少しだけ重く落ちる。

沈黙。

「……関係ないだろ」

思わず出た言葉。

言った瞬間、少しだけ後悔する。

陽菜の表情が、わずかに揺れる。

でも、

引かなかった。

「関係あるよ」

はっきりと言う。

「少なくとも、私はそう思ってる」

言葉に、迷いがない。

沈黙。

陽菜が、一歩だけ近づく。

「……ねえ」

声が、少しだけ震えている。

「無理してるならさ」

言葉が詰まる。

それでも、目を逸らさない。

「……頼ってよ」

一拍。

「泣きそうになるくらいなら、頼ってよ……」

小さく息が漏れる。

「一人で抱えなくていいじゃん……」

その言葉は、強くはなかった。

でも、

確かに届いていた。

「……」

蒼は、何も言わない。

言葉が出てこない。

視線を逸らす。

逃げるように。

「……無理だろ」

小さく、それだけ言う。

空気が、止まる。

陽菜の表情が、わずかに固まる。

でも、

何も言い返さなかった。

ただ、

少しだけ俯いて、

「……そっか」

それだけ、静かに言う。

それ以上は踏み込まない。

でも、

完全に引いたわけでもない。

そのまま、少しだけ距離を取る。

「……じゃあね」

小さく言って、背を向ける。

足音が遠ざかっていく。

静かになる。

教室のざわめきだけが戻る。

「……」

自分の手を見る。

わずかに、震えていた。

すぐに握り込む。

――見られた。

その事実だけが、頭に残る。

何も知られていないはずなのに、

少しだけ、

“気づかれた気がした”。

窓の外を見る。

夕方の光が、少し傾いている。

「……まだ、大丈夫だ」

誰に言うでもなく、呟く。

その言葉は、

自分に言い聞かせるためのものだった。

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