第二章:一年越しに
放課後のチャイムが鳴ると同時に、教室の空気がほどけた。
椅子の引かれる音や、誰かを呼ぶ声が重なり合い、さっきまでの授業の緊張が嘘のように消えていく。
帰るやつ、残るやつ。
それぞれが当たり前のように動き出す中で、蒼は席に座ったまま、しばらく動かなかった。
急ぐ理由はない。
けれど、すぐに立ち上がる気にもなれなかった。
「まだ帰んないの?」
不意に、声が落ちてくる。
顔を上げると、陽菜が立っていた。
鞄を肩にかけ、わずかに首を傾げている。
「……今行く」
短く答え、立ち上がる。
その動作だけで、なぜか少しだけ息が詰まるような感覚があった。
廊下に出ると、夕方の光が差し込んでいた。
窓の外はいつも通りの色をしていて、時間だけが静かに進んでいる。
並んで歩く。
それだけのことが、思っていたよりも難しかった。
「なんかさ」
陽菜が前を向いたまま口を開く。
「こうやって帰るの、久しぶりだね」
「……そうだな」
短く返す。
言葉はそれ以上続かない。
沈黙が落ちる。
足音だけが、やけに響いた。
「……変わったよね」
ぽつりと、独り言のようにこぼれる。
「そっちこそ」
反射的に返す。
少しだけ、陽菜が笑った気がした。
「ひど」
軽く言って、それ以上は踏み込まない。
また、沈黙。
校門を出ると、夕焼けが少しだけ濃くなっていた。
視界の端に、見慣れた自販機が入る。
昔、ここで立ち止まった記憶がある。
何を飲んでいたのかは思い出せないが、笑っていたことだけは、ぼんやりと残っていた。
今は、どちらも足を止めない。
「……さ」
陽菜が、少しだけ言い淀む。
「今もさ、あんまり人と話さないの?」
「別に」
いつも通りの返事。
「そっか」
それ以上は続かない。
踏み込まない。
その距離が、少しだけ引っかかった。
昔なら、もっと——
『なんで何も言ってくれないの?』
不意に、記憶の奥から声が浮かぶ。
足が、一瞬だけ止まりかける。
「……どうしたの?」
横からの声で、現実に引き戻される。
「いや、なんでもない」
そう言って、歩き出す。
心臓の音が、少しだけうるさい。
「ねえ」
再び呼ばれる。
今度は、少しだけ距離が近い。
「前さ」
言いかけて、止まる。
「……やっぱいいや」
小さく笑う。
その笑い方が、どこかぎこちなかった。
「なんだよ」
わずかに、言葉が強くなる。
陽菜が、ほんの一瞬だけ驚いたような顔をして、
「ごめん」
と、軽く言った。
その一言で、会話は途切れる。
同じ道のはずなのに、やけに長く感じる。
「じゃあ、ここで」
分かれ道。
「……ああ」
少しだけ、間が空く。
「今日はありがと」
陽菜が、そう言って笑う。
その笑顔は、やっぱり変わっていないように見える。
「じゃあね」
背を向ける。
少し歩いてから、なんとなく振り返る。
もう、いなかった。
さっきまで隣にいたはずなのに、まるで最初からいなかったみたいに。
理由もなく、胸の奥がざわつく。
ポケットの中で、手を握る。
さっきの言葉が、頭に残っている。
『なんで何も言ってくれないの?』
あのとき、何も言えなかった。
今も、たぶん同じだ。
空を見上げる。
夕焼けは、ほとんど沈みかけていた。
「……一年、か」
小さくつぶやく。
その時間が長いのか短いのか、まだ分からない。
ただ一つ分かるのは、
陽菜との距離だけは、壊れたまま
何も変わっていないということだった




