第一章:変わらぬ朝。変わった距離感
朝の教室は、いつも通りうるさかった。
笑い声が飛び交い、誰かがふざけ、それに別の誰かが応じる。そんなやり取りが、途切れることなく続いている。
その輪の外にいることに、蒼はもう違和感を覚えなくなっていた。
積極的に離れているわけでも、入りたいと思っているわけでもない。ただそこにいるだけの存在として、景色の一部に紛れている。
「おはよー!」
後ろの扉が勢いよく開いた瞬間、教室の空気がわずかに軽くなる。
振り返らなくても分かる。陽菜だ。
「ちょ、通してってばー」
笑いながら人の間をすり抜け、軽く肩に触れたり、短く言葉を交わしたりしながら進んでいく。その動きは自然で、誰かと誰かの間に入り込むことにためらいがない。
距離が近く、それでいて踏み込みすぎない。
昔から、そういうやつだった。
変わっていない――ように見える。
ふと、視線が合った。
ほんの一瞬。
陽菜は、何かを確かめるようにわずかな間を置いてから、
「……おはよ、蒼」
と、少しだけ笑った。
その笑みは、ほんのわずかに遅れていた気がした。
「……おはよ」
短く返す。それ以上は続かない。
視線はすぐに外され、陽菜はまた別の誰かの方へと向き直る。
「ねえ聞いてよ、昨日さ――」
何事もなかったかのように、楽しそうな声が教室に混ざっていく。
その様子をぼんやりと眺めながら、蒼は机に肘をついた。
昔は、あの隣にいた気がする。
確信はない。ただ、そうだったような気がする、という程度の曖昧な記憶。
きっかけなんて、大したことじゃなかった。
陽菜が踏み込んできて、蒼がそれを拒んだ。
それだけのことだ。
それだけのことなのに、関係を変えるには十分だった。
胸の奥に、わずかな違和感が走る。
痛い、と思った。
だがそれは、ただ「そう思った」という認識にすぎず、本当に痛みとして感じているのかは分からなかった。
感覚と認識が、どこか噛み合っていない。
自分のことなのに、少し離れた場所から眺めているような感覚がある。
昨日、病院で告げられた言葉が、静かに浮かび上がる。
――残り時間は、長くて一年ほど。
現実感はなかった。
教室はいつもと同じように騒がしく、窓の外の景色も何一つ変わっていない。世界は何も知らないまま、平然と動き続けている。
その中で、自分だけが切り離されているような気がした。
だからこそ、分からない。
自分が何を感じているのかさえ、はっきりしなかった。
「ねえ」
声が、上から静かに落ちてくる。
顔を上げると、そこに陽菜が立っていた。
「……久しぶり、だね」
そう言ってから、ほんのわずかに間が空く。
何かを測るような、あるいは言葉を選び直すような、そんな一瞬。
「……そうだな」
短く返す。
沈黙が落ちる。
かつてなら、こんな空白が生まれることはなかったはずだった。
「あのさ」
陽菜が机の端を指でなぞり、すぐにやめる。
「今日、放課後空いてる?」
「……別に」
考えるよりも先に言葉が出た。
一瞬だけ、陽菜の表情が緩む。
「……一回だけでいいからさ」
わずかに視線を逸らしながら、
「一緒に帰ろ」
その言葉が、妙に遠く感じられた。
同時に、逃げ場を塞がれたような感覚もあった。
断る理由はいくらでもあるはずだった。
けれど、それを探そうとする前に、どうでもいい記憶が浮かんでくる。
帰り道。
隣で交わした、意味のない会話。
何を話していたのかは思い出せないのに、その時間だけがぼんやりと残っている。
「……分かった」
気づけば、そう答えていた。
「そっか。じゃあ、あとでね」
軽く手を振り、陽菜はまた人の輪の中へと戻っていく。
その背中は、やはり以前と変わらないように見えた。
――ただ、さっきのわずかな“間”だけが、頭に残る。
目を閉じる。
昨日の言葉が、静かに沈んでいる。
――一年。
その時間で、何ができるのか。
そもそも、何かをする必要があるのか。
考えようとしても、うまく形にならない。
目を開ける。
放課後。
何かが変わるような気がした。
……違う。
変わるんじゃない。
もう、とっくに変わっていた。、




