第3話
結論から言おう。
レオンハルトの城は、私にとって危険な場所だった。
もちろん、魔物が出るとか、暗殺者が潜んでいるとか、そういう意味ではない。
食べ物が美味しすぎるのである。
「アリア様、こちらのドレスはいかがでしょう?」
「まあ……よくお似合いですわ!」
「髪も美しく整いましたね。銀糸のような輝きが戻っております」
城に到着するなり、大勢の侍女たちに囲まれた。
極上の湯浴みを用意され、香油で全身を丁寧に手入れされ、髪には香りのよい植物油を馴染ませてもらう。
十年間、まともな美容などできなかった私にとって、まさに夢のような時間だった。
「お肌が見違えるほど美しくなられましたね」
侍女の一人が、嬉しそうに頬を緩める。
「元々お美しかったのでしょう。今まで、どれほどご無理をなさっていたのか……」
その言葉に、私は鏡の中の自分を見つめた。
透き通るような肌。
艶を取り戻した銀髪。
疲労に沈んでいた目元には、かつての輝きが戻っている。
そこに映っていたのは、C級聖女と蔑まれていた女ではない。
公爵令嬢として、そして特級聖女としての、本来の私だった。
「……なんだか、別人みたい」
「いいえ、アリア様。これが本来のお姿なのですわ」
侍女は、まるで自分のことのように嬉しそうに言った。
胸の奥が、じんわりと温かくなる。
今まで、私は自分を磨くことさえ後回しにしてきた。
クランのために魔力を使い、戦闘の準備を整え、食事を管理し、体調を気遣う。
彼が活躍するたびに周囲は称賛し、私には誰も目を向けなかった。
それでも、私は彼を支えることが自分の役目なのだと思っていた。
けれど、もう違う。
これからは、自分のために時間を使っていい。
美味しいものを食べて、好きな服を着て、綺麗になることを楽しんでいい。
「……ありがとうございます」
私は鏡の中の自分に微笑んだ。
「私、これからは自分を大切にします」
侍女たちは一斉に顔をほころばせた。
そのとき、部屋の扉が控えめに叩かれた。
「アリア。準備は整っただろうか?」
聞き慣れた低い声。
扉を開けると、正装に身を包んだレオンハルトが立っていた。
そして私を見るなり、ぴたりと動きを止めた。
「…………」
「大公閣下?」
「…………」
「……あの?」
彼は数秒間、言葉を失っていた。
やがて、紫色の瞳を見開いたまま、ゆっくりと息を吐く。
「……美しい」
「え?」
「いや、違う。美しいという言葉では足りない。君は……」
レオンハルトは片手で顔を覆った。
「すまない。少し、心の準備をさせてくれ」
「何の準備ですか!?」
「君があまりにも美しいので、まともに話せる自信がない」
「……大公閣下って、意外と大袈裟なんですね」
「レオンハルトだ」
「はい?」
「名前で呼んでくれ。君に閣下と呼ばれるたび、少し距離を感じてしまう」
「でも、隣国の大公閣下ですよ?」
「君にとって私は、命を救った相手だろう?」
「それはそうですが……」
「なら、レオンハルトと呼んでほしい」
真剣な眼差しだった。
私は少しだけ困り、けれど彼の期待に満ちた顔を見て、折れることにした。
「……レオンハルト様」
「……っ」
彼が胸元を押さえた。
「今、私の名前を……」
「呼びましたけど」
「もう一度」
「嫌です」
「……そうか」
あからさまに肩を落とさないでほしい。
冷酷無慈悲の大公閣下が、名前を呼んでもらえなかっただけでしょんぼりしている。
この城の人々は、普段どんな思いで彼に仕えているのだろう。
少しだけ、興味が湧いた。
「ところで、夕食は?」
私が尋ねると、レオンハルトは瞬時に顔を上げた。
「もちろん、用意してある」
「行きます!」
「……ふっ」
彼は楽しそうに笑い、私の手を取った。
「こちらだ、アリア」
その手は温かく、驚くほど優しかった。
◆
案内されたダイニングルームは、思わず息を呑むほど豪華だった。
天井から吊るされたシャンデリアが柔らかな光を落とし、磨き上げられた銀器がきらきらと輝いている。
長いテーブルの中央には、季節の花が美しく飾られていた。
そして。
「……わあ」
私の視線は、テーブルの上に並んだ料理へ釘付けになった。
香ばしいパン。
色鮮やかな野菜の前菜。
湯気を立てるスープ。
そして、中央に堂々と鎮座する大皿。
「本日のメインディッシュは、幻の竜牛を使用したローストビーフでございます」
料理長が誇らしげに告げた。
「低温でじっくりと火を通し、仕上げに表面を香ばしく焼き上げております。ソースには熟成赤ワインと香り高いトリュフを使用いたしました」
幻の竜牛。
その名は、料理好きなら一度は耳にしたことがある。
竜の魔力を帯びた牧草地で育つ希少な牛で、肉質はきめ細かく、上質な脂にはほのかな甘みがあるという。
ただし、非常に希少で、王侯貴族でも滅多に口にできない高級食材だ。
そんなものが、目の前にある。
しかも、私のために。
「……いただいても?」
「もちろんだ。君のために用意させたのだから」
レオンハルトが微笑む。
私はナイフを手に取り、ローストビーフへと刃を入れた。
すっ。
ほとんど抵抗を感じない。
切り分けた肉の断面は、中心が美しい薔薇色に染まっていた。
表面には香ばしい焼き色がつき、肉汁がきらりと光っている。
私は一切れを口に運んだ。
「…………!」
最初に感じたのは、表面の香ばしさ。
次の瞬間、きめ細かな肉が舌の上でほどけ、濃厚な旨味がじゅわっと広がった。
上質な脂はしつこさがなく、噛むほどに甘みが増していく。
そこへ、赤ワインとトリュフのソースが深い香りを添える。
肉の旨味を邪魔することなく、むしろ一段と引き立てていた。
「……おいしい」
思わず、声が漏れた。
「本当に、おいしいです……!」
もう一口。
今度は滑らかなマッシュポテトを添えて食べる。
肉汁とソースがポテトに絡み、口の中で一体になる。
「…………」
私は無言で頷いた。
これは、駄目だ。
美味しすぎる。
十年間、私は何を食べていたのだろう。
冷めた携帯食料?
固くなったパン?
味の薄いスープ?
もちろん、それらが必要な場面もあった。
でも、食事とは本来、こんなにも幸せなものだったのだ。
「気に入ってくれたか?」
隣から、レオンハルトの声がした。
私は勢いよく頷いた。
「はい! こんなに美味しいローストビーフは初めてです!」
「そうか」
彼は嬉しそうに目を細めた。
「君が喜んでくれるなら、料理長の報酬を三倍にしてもいい」
「国庫が傾くのでやめてあげてください!」
思わず突っ込んでしまった。
料理長が、少しだけ肩を震わせている。
レオンハルトは不思議そうに首を傾げた。
「なぜだ? これほど素晴らしい料理を作るのだから、相応の報酬を与えるべきだろう」
「それはそうですけど、私が美味しいと言っただけで三倍にする必要はありません!」
「では、二倍にしよう」
「減らしたつもりですか!?」
「……一・五倍?」
「交渉しなくていいですから!」
ダイニングルームに、笑い声が広がった。
私自身、こんなふうに声を上げて笑ったのは、いつ以来だろう。
誰かの顔色をうかがう必要もない。
機嫌を損ねないように言葉を選ぶ必要もない。
ただ、美味しいものを食べて、笑っていられる。
それだけのことが、こんなにも嬉しい。
ふと、隣を見る。
レオンハルトは料理にはほとんど手をつけず、私のことをじっと見つめていた。
「……あの。食べないんですか?」
「食べている」
「え? でも、ずっと私を見ていますよね?」
「君が美味しそうに食べている姿を見るのが、何よりのご馳走だからな」
「…………」
私はフォークを置いた。
「レオンハルト様」
「何だ?」
「ちゃんと食べてください。せっかくのローストビーフが冷めます」
「……承知した」
彼は少しだけ残念そうにしながら、ようやくナイフを手に取った。
……本当に、この人は何なのだろう。
冷酷無慈悲の大公閣下。
最強の竜騎士。
そして、私が食事をするだけで幸せそうな顔をする大型犬。
前世で読んだ恋愛小説にも、こんな男性は出てこなかった気がする。
いや、出てきたとしても、きっと主人公に溺愛されるタイプだ。
……主人公?
(いやいや、私が恋愛小説のヒロインになる予定はないからね?)
私は自分に言い聞かせながら、最後の一切れを口に運んだ。




